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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第2話 行基ぎょうき(668年-749年)

数々のインフラ事業を進め利益(りやく)の大事を説く


天智7年(668)、河内国大鳥郡蜂田郷家原(現在の堺市あたり)に生まれる。名は貞知(さだとも)。父は王仁(わに)の後裔の高志才知(こしのさいち)、母は蜂田古爾比売(はちたこにひめ)といわれ、いずれも渡来系氏族である。

母方の家で生まれた行基は、15歳で出家して飛鳥寺で学ぶ。律令制のもとでは、一般人は仏教に関係のある豪族や部族の出身でなければ容易に僧尼になれず、出家者も自由に行動できなかった。行基は、父が五位の国守を出している帰化人の中級豪族で、学問や仏教に通じており、身近に道昭という高僧がいたことも入道に幸いした。

慶雲元年(704)に生家を改造して家原寺を創建。同4年(707)、40歳で生駒山の山房にこもる。母と暮らして孝養を尽くすかたわら山林修行を積み、和銅5年(712)に修行を終えた。45歳を過ぎて布教活動に力を入れ、貧者や病者などの一時救護施設「布施屋」をつくる。しかし、これが原因で養老元年(717)に僧尼令違反で政府から弾圧されるが、それでも布教をやめなかった。

行基の最大の功績は、「四十九院」という多数の修行道場を拠点に、橋、道路、港、堀川、布施屋はもとより、溜池や用水路、水門などの潅漑施設を整備し、新たな菩薩行、すなわち衆生救済のあり方を示したこと。律令政府の政策に則しつつ、庶民の利益となる施設を建造していったのである。その活動資金や技術、労働力などは、行基の信者たちによって提供されたと考えられている。

行基は、仏教の教義を民衆に理解しやすい平易な言葉で説き、罪福を諭し、現世の要求を聞き入れ解放する積極性を持っていた。上層農民や豪族には蓄財を否定せず、功徳を積みながら生産に励み、利の欲求を解放して社会に還元する「利益(りやく)」を教えた。

養老5年(721)、同じ渡来系の寺史乙丸(てらのふひとまる)から右京三条三坊にあった寺史の邸宅を寄進され、菅原寺(後に喜光寺と改名)とした。天平21年(749)、喜光寺で入寂(にゅうじゃく=僧侶が死ぬこと)。享年82。弟子たちの手によって火葬、生駒山中東麓の竹林寺に埋葬された。


小僧から大僧正に

行基は、歴史書『続日本紀』に、朝廷に歯向かう悪者であると同時に、庶民には仏の道を説く聖者として唐突に登場する。主な活動であった庶民生活の基盤整備は、地位の高い人々が独占していた仏教を民衆に開放し、治政の貧困を暴く行動であることから、行基は僧尼令を犯す者という汚名を着せられたのである。

しかし、天平3年(731)、朝廷は行基に従う61歳以上の優婆塞(うばそく)、55歳以上の優婆夷(うばい)の入道を許し、同12年には聖武天皇自ら泉橋院(京都府木津川市)に行き、行基に面会している。この出会いによって、東大寺大仏造立の勧進僧の任を受け、それまで「小僧(しょうそう)」とさげすまれていた行基は、一気に大僧正の地位に就く。この掌を返したような扱いは、世の移り変わりと言えばそれまでだが、天皇の抱く大仏建立という大目標に果敢に立ち向かえる人材は、行基しかいなかったことの証しでもある。

行基の業績は、歴史書に文字として記されるというより、建造物や日常の営みとして人々の心に刻まれているため、現在もなお、多くの施設にその足跡が残されている。


財を得る意味を説く

『行基菩薩伝』によれば、行基が畿内につくった施設は、僧院(34カ所)、尼院(15カ所)、橋(6カ所)、導水用樋(3カ所)、布施屋(9カ所)、船泊り(2カ所)、溜め池(15カ所)、用水路(7カ所)、堀川(4カ所)、道路(1カ所)と、その数はじつに多い。そしてこれらの施設から、行基のもう一つの信念を汲み取ることができる。堀川や橋などは、農業と直接かかわりのない人々にも大きな恩恵をもたらすもので、それを築くために汗して働き、対価を得る喜びを人々に植え付けようとしたことである。

仏教は、労働によって裕福になることを咎めてはいない。しかし当時の為政者は、庶民に貧富の差が生じると社会が混乱すると考え、農地を国有化して人々に平等に分け与えた。この平等政策によって、人より多くの農地を所有したいと思う者の労働意欲がそがれ、貧困を生む元凶となったのである。行基が行った数々のインフラ事業は、労働によって富を得るのは真っ当なことであり、財に余裕のできた者が弱者を救うことこそ仏教の本質だと考えてのことであろう。釈迦の時代、インドの在家信者・維摩詰(ゆいまきつ)が裕福な資産家であったのもうなずける。


本堂がハンカチで覆い尽くされる

現在の堺市西区家原寺町という地名は、行基創建の古寺の名からつけられたものである。元々は母方の氏族の蜂田姓から、「河内国大鳥郡蜂田郷」という地名であった。家原寺は、慶雲元年(704)に「元の生家を掃き清めて仏閣となす」と『行基年譜』にある。行基が初めて開いた寺院であることから、続いて建立した四十九院には加えず、特別扱いされている。当初は相当な寺領があったが、廃仏毀釈で縮小し、山門の金剛力士像はアメリカに売却された。

家原寺の本尊の文殊菩薩像は行基造立によるものと伝わる。現在では合格祈願のご利益のほうが有名で、受験シーズンになると志望校などを書いた白いハンカチで本堂の壁面が覆い尽くされる。河内の各地に響く行基の名声に比して、普段はどこか寂しげな雰囲気があり、行基ファンのひとりとしてもの悲しさを感じる。


「だんじり」で行基参り

行基は、河内平野のいたるところに足跡を残している。いや、河内だけではなく、近畿一円、遠くは関東にまで及んでいるといってよい。

行基が岸和田市の久米田池端に開いた久米田寺では、毎年10月10日に「行基参り」という祭りが行われる。「だんじり」で寺参りをするお祭りだが、その規模や勇壮さは岸和田の「だんじり祭」に勝るとも劣らない。

久米田池の恩恵を受ける八木地区13大字から巨大な山車が練り出し、「寺もうで」と称して久米田寺の行基堂(開山堂)に集結する。若衆から子どもまで数百人が綱を曳き、寺をめざして全力で疾走する様は圧巻である。鉦や太鼓の音が響き渡り、さほど広くもない境内には13台の山車と数千の人々が押し寄せ、湯気が立つような熱気。地元で「ぎょうぎさんまいり」と親しまれる祭りのハイライトである。町衆の代表は行基堂に参り、行基の功績に感謝する。この行事は寺の仏事として行なうものではなく、あくまでも町民の信仰心の現れなのである。

祭りに参加している若者のグループに行基のことを聞くと、「偉い人で名前は知っているが、何をしたかはあまり知らない」と言うが、「毎年1回、寺の前にある行基さんがつくった久米田池の清掃には参加している」と口を揃えた。

地域の人たちはこのように行基のつくったものを守り継ぎ、活かし、僧侶たちは行基に自らの目指す僧侶像を重ね合わせる。


土塔にみる行基の行動力

神亀4年(727)、行基が60歳のとき建て始めたのが、堺市中区土塔町の大野寺に付随する土塔である。この地は昔、土師(はじ)郷に属し、土塔を覆う瓦の生産地でもあった。1辺約55m、高さ9mの巨大な方形、13段のピラミッドの最上部は平らな「戴頭方紡錘形」で、見る者を圧倒する。しかも、6万枚に及ぶ瓦で葺いたその形は偉大なモニュメントである。昭和21年(1946)にその一角が削られ、崩壊する憂き目に遭ったが、歴史学者や末永雅雄博士を始めとする考古学者たちの運動で保存が決まり、破壊を免れた。奈良の東大寺の頭塔と似ているが、また違った風格がある。

大野寺は行基の建てた布施屋の一つだが、この土塔をどのような意図でつくったのかは分かっていない。しかし、不遇の時代に平城京を離れた故郷で、貴賤を問わず人々の力を結集して築いた土塔に、多くの弟子を率いて各地の橋や池、寺をつくり続けた行基の行動力の原点を見たように思う。こうした行基の行動は、薬師寺の景戒、南都仏教に反駁した最澄、鎌倉時代の叡尊など、後の仏教僧に大きな影響を与えた。衰退した寺の復興はもとより、貧者、病者の救済に尽力したことは行基の思想の実践でもある。


人々の憩いの場をつくり布教の拠点に



行基ゆかりの狭山池の北堤にある狭山池博物館は、平成の景観整備計画をきっかけにつくられた。特筆すべきは、狭山池1400年間の築堤の改修状況が一目で分かる展示である。築堤の断面を切り取って移築した高さ15.4m、底辺62mという巨大な展示で、初期から江戸期まで各時代の構築の経緯を知ることができる。ここでは行基が改修した当時の堤の高さは今の3分の1ほどであったことや、葉が付いた小枝を敷き詰め土で突き固める「敷葉工法」で施工されていたことなどが紹介されている。また、池の水を抜くための樋も、初期ものと江戸期のものが発掘されたままの状態で展示され、当時の工事のようすが体感できる。

行基はこのほか、昆陽池(伊丹市)や久米田池(岸和田市)を修造している。それぞれ畔に昆陽院、隆池院を建て、池の管理施設にすると同時に、布教の拠点にしたことが行基ならではといえる。現在の狭山池は、築堤に桜が植えられ、近隣の人々の憩いの場となっている。

2015年12月
(2019年4月改訂)

中田紀子



≪参考文献≫
 ・続日本紀・二(岩波書店・新日本古典文学大系)
 ・井上薫『行基』吉川弘文館
 ・根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書院
 ・井上薫『行基菩薩ゆかりの寺院 行基菩薩・千二百五十年御遠忌』
 ・吹田市立博物館『大僧正行基展 なぜ菩薩と呼ばれたか』
 ・吉田孝『体系日本の歴史』小学館
 ・宇治谷孟『続日本紀・上』講談社
 ・金達寿『行基の時代』朝日新聞社
 ・千田稔『天平の僧行基』中公新書
 ・大阪府立狭山池博物館 常設展示案内
 ・吉田靖雄『行基』大阪春秋第122号



≪施設情報≫
○ 喜光寺
   奈良市菅原町508
   アクセス:近鉄橿原線「尼ヶ辻駅」より西へ徒歩約10分

○ 家原寺
   大阪府堺市西区家原寺町1–8–20
   アクセス:JR阪和線「津久野駅」より南へ徒歩約10分

○ 久米田寺(久米田のだんじり)
   大阪府岸和田市池尻町934
   アクセス:JR阪和線「久米田駅」より徒歩約15分

○ 大阪府立狭山池博物館(狭山池堤防の断面)
   大阪府大阪狭山市池尻中2
   アクセス:南海高野線「大阪狭山市駅」より西へ徒歩約10分

○ 大野寺(大野寺の土塔)
   大阪府堺市中区土塔町2167
   アクセス:南海高野線「堺東駅」より南海バス深井駅行「深井東町」下車すぐ

○ 竹林寺
   奈良県生駒市有里町211–1
   アクセス:近鉄生駒線「一分駅」より南西へ徒歩約20分

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