JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問い合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第4話 王仁わに(生没年不詳)

儒教と千字文を日本に伝えた渡来人

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(古今和歌集・仮名序)

紀貫之が歌の手本と賞賛した名歌である。富士山山頂にある浅間大社は「この花咲くや姫」を祀っているがこの女神の名が、冒頭の和歌を意識したものであろうことは容易に推測できよう。日本中で愛されているこの名歌は、実は渡来人である王仁の作とされている。

『日本書紀』によれば、王仁は、百済の使者・阿直岐(あちき)の推薦で応神天皇(第15代天皇)の皇子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の教師として渡来し、諸々の書物を講じたとある。ただ王仁については必ずしも具体像が明らかではなく、生年没年ともに不詳とされている。

また『古事記』によると、王仁吉師 (わにきし)は『論語』や『千字文』すなわち儒教思想や漢字の基礎を初めて日本にもたらしたとされている。こうした功績により儒学が盛んになった江戸時代以降、王仁は学問の祖として崇められるようになった。

ところで王仁は他の文献に登場せず、母国とされている百済の資料にも記載がないとのこと。また『千字文』は4世紀ないし5世紀初めの成立であり、王仁とは時代が合わないようである。そのため王仁は伝説上の人物とする説が有力である。

王仁に関しては大阪を中心に多くの伝承地がある。河内国古市を本拠として文筆をもって朝廷に仕えた西文氏(かわちのふみうじ)は王仁の子孫といわれているが、あの行基菩薩も子孫になるという。こうしたことから文筆を生業とした西文氏など河内の渡来人系の氏族が、自分たちの格を上げるために王仁伝説を創作したのではないかとの見方が強い。いずれにせよ、日本を含め東アジア文化の基盤となった儒教と漢字が、当時日本と最も友好的だった百済の最高レベルの学者によって伝えられたことは事実であろう。

大阪にはこの和歌に因んだ此花区(大阪市)が存在するように、王仁と縁がとりわけ強い。とくに河内、和泉を中心に、王仁に関する伝承が多く残っている。例えば高石市のホームページによると、高石とは高師浜であり高脚から転じた地名で、古くは王仁の一族が居住していたと紹介されている。王仁は来日する際、一族の工芸技術師らも連れてきたとされている。その由緒として「本市大工村(高師浜の一部)の村民の大半は大工を家業とし…」との記載があり大変興味深い。

また、忘れてはならないのが王仁の歌そのものを名前としている此花区である。区役所には、区名の由来となった「難波津に咲くやこの花」の石碑がある。此花区の西側は古代の難波津つまり大阪湾に面していたはずであり、王仁と海との関連を示すものではないだろうか。ただ、王仁との直接の関係を示すものは地元にはないようである。

これら多数の伝承や名残の存在は、古代の大阪が日本と大陸の交流の中心地であった証しではないだろうか。瀬戸内海を経て朝鮮半島につながる難波江は、古代から大陸に開かれた日本の門戸だったのである。また、「ワニ」という姓も現存する。現在の「王仁」氏を見るとき、はるかな昔への想像が膨らむところである。


王仁信仰の聖地を歩く

王仁の墓(枚方市)

王仁は伝説上の人物だとされているにもかかわらず、「王仁の墓」が存在する。それは枚方市藤阪にあり、あたかも御陵のような立派な墓所である。

享保16年(1731)、儒学者並河誠所(なみかわせいしょ)が当地を王仁の墓所であると特定し、ここに「王仁碑」を建てた。さらに文政10年(1827)には、枚方招提村の家村孫右衛門という人物が、この碑のすぐ近くに有栖川宮の筆によるという「博士王仁墳」の碑を建てた。

しかし、当地が王仁の墓所であるとする並河誠所の主張に確たる根拠はないようだ。「博士王仁墳」の碑についても疑問視する声のほうが大きい。河内周辺には王仁を信仰する人が多く、時を経ることにより伝説があたかも事実であるかのように伝えられていったのであろう。枚方地域には自分たちが王仁の子孫だと思っている人たちも多いとのこと。いわば「王仁伝説」にとって、ここはまさに聖地なのである。

王仁の墓の周辺には、丁寧な案内看板があちこちに設置されている。地元の人が王仁を誇りにしていることがよく分かる。そのおかげで、少し離れた住宅地の奥にある王仁塚へも、迷うことなく辿りつけた。

枚方市藤阪には「王仁塚の環境を守る会」があり、今年で設立30年を超えられたそうである。同会の人々の手により、ここに王仁ゆかりの韓国の国花・槿(むくげ)が植えられ、また公園一帯の美化活動を続けられておられる。こうした活動は韓国からも注目され、日韓親善に役立っている。


聖堂池(松原市)

松原市岡一丁目に「聖堂池」という池がある。現在は中堤で分けられ、西側を清堂池、東側を宮ノ池と呼び名を変えている。池の南側は埋めたてられて岬状に突き出ている。ここに出岡弁財天が祀られている。このそばにかつて「王仁の聖堂」があったとされている。

前述の並河誠所は、旧跡を踏査し『河内志』を著したが、同書の丹北郡の項に「聖堂池は新堂村にある。父老が言うには、池の傍らにかつて聖堂があったので池名となった。いま宗像を安置した祠が祀られている」とする。聖堂とは孔子を祀る堂であり、王仁がもたらしたとされる論語との関係がうかがえよう。

聖堂池を訪れてみたが案内看板もなく、十分な準備をしなければ素通りしてしまうかもしれない。一見すれば単なる出島のある溜め池のようで、ここに聖堂があったことに驚いた。よく見ると出島には小さな神社と、固く閉ざされた門がある。その近くの生い茂った草むらの中に、小さな「王仁の聖堂址」の看板がある。看板の奥に弁財天を祀っている様子がうかがえ何とか拝むことができた。

池のそばは車が頻繁に通る。近くには畑もあり、蛙の声が響き、懐かしい風景が残っている。かつて栄えた竹内街道もすぐ近くである。遠くには葛城山や金剛山も見渡せ昔から開けた土地柄と感じさせるいわくありげな印象深い池であった。

この池を周回するには、少なくとも30分はかかることを付言しておく。


西淋寺(羽曳野市)

羽曳野市古市にある西琳寺(さいりんじ)は、559年、王仁の子孫である西文氏の阿志高(あしこ)が建立した。当初は大伽藍があったが、天正年間の兵火や明治の廃仏で建物のほとんどを失ってしまった。現在は新しいお堂が建てられ法灯を守っているが、かつての大伽藍は見る影もない。

ところでこの西琳寺を見つけるのはきわめて難しかった。案内看板はなく、ようやくみつけた細い住宅地の路地裏にひっそりと建っていた。王仁との関係もほとんど示されていないようである。

「王仁の墓」などと比べ、先の聖堂池や西琳寺のたたずまいをみると、王仁に対する地元の姿勢に大きな差を感じてしまった。前者は親切な案内看板があるのに対し、後者はかなり調べて行っても残念ながら迷ってしまう。その違いの意味は何なのか、想像力を駆り立てられる。


大阪市内の伝承地

▉ 大淀区 ▉

かつての大阪市大淀区大仁町の「大仁」は「王仁」の転字といわれ、古くは「王仁の里」と呼ばれていた。この「大仁」の町名は最近の地名変更で消されてしまった。大変残念なことである。

現在の大阪市北区大淀北に、王仁を祭神とする八阪神社(通称 大仁八阪神社)が鎮座する。その裏の境内にある稲荷大明神は王仁の墓と伝えられ、「王仁大明神」とも呼ばれている。また、大阪市北区大淀南には、古代、王仁神社(素戔嗚尊[すさのおのみこと]神社)があったそうである。現在は素盞烏尊神社があり境内には王仁神社がある。

このあたりは古代、難波江(大阪湾)が広がり大量の砂堆が散在する「八十島(やそしま)」と呼ばれ、皇室ゆかりの八十島祭りが行われていた。その中心部にあるのが素戔嗚尊神社や八阪神社であり、はるか昔をしのぶことができ、興味は尽きない。

▉ 天王寺区 ▉

天王寺区東高津宮町にある東高津宮の摂社には、王仁像の石柱がある。王仁の「難波津に咲くやこの花」の歌碑が焼けた跡も読みにくいが残っている。

▉ 生野区 ▉

生野区桃谷の生野コリアンタウンにある御幸森天神宮(みゆきもりてんじんぐう)には、境内に韓日親善のシンボルとして平成21年(2009)に王仁のハングル歌碑が建てられ、生野区の新名所になっている。私が訪ねた日が偶然コリアン祭りの日であり、生憎の天気にもかかわらず雨の中狭い町筋に大勢の人が詰め掛けて来て、狭い通りは賑わっていた。派手なコリアンタウンの門の横に神社はあり、境内は周囲とは対照的に厳かな雰囲気であった。

2016年2月

(和田誠一郎)

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association