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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第62話 藤原家隆ふじわらのいえたか (1158~1237年)

夕陽丘で極楽浄土への悟りを開いた大歌人

藤原家隆は、保元3年(1158)権中納言・藤原光隆の子として生まれた。勅撰集である千載和歌集の撰者・藤原俊成の門下生で、師からその歌才を認められ後鳥羽院の歌壇で重用されるようになる。

建仁元年(1201)、家隆は院宣(いんぜん:上皇や法皇の命令)による和歌所設立に伴って寄人(よりうど:職員)を命ぜられ、俊成の子である藤原定家ら5人とともに勅撰集『新古今和歌集』の編纂に従事した。このとき歌に対する造詣が深い若き後鳥羽院は、頑固一徹な定家と反りが合わず、院と定家の仲をとりもつ謙虚で誠実な家隆を評価するようになる。かくして後鳥羽院の信を得た家隆は、正五位、従四位下と遅まきながら官位をあげていった。

承久3年(1221)、後鳥羽院は鎌倉幕府討伐を図った「承久の変」に敗れ、隠岐島に流される。そして定家は、鎌倉幕府の覚えめでたく正二位権中納言として歌壇のトップに上り詰める。一方、家隆は宮内卿を辞してもなお自作の歌を隠岐の後鳥羽院に送り続け、両者の厚い絆は院が没するまで続く。

寛喜元年(1229)、上賀茂神社の六月祓(みなづきばらえ)の情景を詠んだ「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏の しるしなりける」(「なら」は樹木の楢)は、定家によって撰ばれ『新勅撰和歌集』や『小倉百人一首』にも収められた。院を慕って宮中の要職を離れた家隆ではあったが、定家は家隆の比類のない力量を正しく評価していたのである。

嘉禎元年(1235)、家隆は従二位となるが翌年病を得、仏性と称して出家。四天王寺近辺(現在の大阪市天王寺区夕陽丘町)に移る。ここで浄土教に帰依し日想観を修め、「夕陽庵(ゆうせきあん)」と名付けた小さな庵で念仏三昧の日々を送る。嘉禎3年(1237)4月、死期を悟った家隆は「契りあれば難波の里にやどりきて波の入日をおがみつる哉」などの歌を残し、翌日の夕刻、海に落ちる夕陽に向かって合掌。そのまま浄土へ旅立ったという。享年80であった。

夕陽庵の旧跡地には五輪塔や顕彰碑が立ち、「家隆塚(かりゅうづか)」として日想観に帰依した大歌人・藤原家隆を今日に伝えている。


フィールドノート

家隆と定家と後鳥羽院

京都上賀茂神社の広大な境内を流れる「ならの小川」。その木立に囲まれた川辺に、人の背丈よりも高い石碑が立つ。美しく磨かれた表面に、家隆の代表歌「風そよぐならの小川〜」が刻まれている。家隆がこの歌に詠んだ六月祓は、今も上賀茂神社の夏の風物詩。篝火(かがりび)が焚かれる中、神官が「ならの小川」の歌を朗詠し、人型に切り抜いた紙を撒く「人形(ひとがた)流し神事」を行い人々の罪や穢れを祓うのである。

次いで筆者は、「ならの小川」の歌が収められている百人一首の殿堂に向かった。京都嵐山、渡月橋にほど近い場所に小倉百人一首殿堂「時雨殿」がある。京都商工会議所創立120周年を記念して建てられた施設で、小倉山麓にあった定家の山荘「時雨亭」に因んで命名された。

常設展示場には、定家撰による「百人一首」の歌が1から100まで番号順に並んでいる。97番は中納言定家自身の「来ぬ人を松帆(まつほ)の浦の夕凪(ゆうなぎ)に焼くや藻塩(もしほ)の身もこがれつつ」(新勅撰和歌集)、98番が従二位家隆の「ならの小川」の歌。そして99番に誰あろう後鳥羽院の「人も惜(を)し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」(続後撰集)が掲げられている。院政の執行者である後鳥羽院として、意のままにならない鎌倉幕府とその同調者への焦りと懊悩をこめた歌ともいわれている。

新古今和歌集では、定家をはじめ家隆や寂蓮(僧侶・歌人)など当初6人が撰者としてえらばれたが(後に寂蓮は没する)、和歌に情熱を燃やす若い後鳥羽院と定家は撰歌を巡って対立がやまず、それが後々まで尾を引くことになる。そうした二人の感情のもつれのはざまで, 家隆は粛々と撰歌を続ける。家隆は院からも定家からも、もつれた糸を解きほどいてくれる頼れる存在であったのかもしれない。晩年の定家は、不運にも隠岐で散った後鳥羽院の心情をある程度理解できる心境に至ったのであろうか。定家(97番)、家隆(98番)、後鳥羽院(99番)と並ぶ順番は、この時代を代表する三歌人の微妙な人間関係を映し出しているように見える。


日想観(その1)― 四天王寺日想観勤行儀

平成28年(2016)9月22日(彼岸中日)、夕方5時20分から和宗総本山四天王寺極楽門で同寺僧侶十数人による日想観勤行儀が執り行われた。この勤行は平成13年(2001)から再開された同寺の春秋の彼岸会行事の一つで、年々参拝者が増え昨今は毎回千人近くに及ぶという。

この日、あいにくの曇り空で太陽は顔を隠したままであったが、導師と極楽門広場に集まった参拝者の読経が、広い境内に厳かに響きわたっていく。勤行半ば、般若心経に続き導師が観無量寿経の「日想観文」を唱える。「汝及び衆生、まさに心を専らにして念を一處(いっしょ)に撃(か)け西方を想ふべし」「凡(およ)そ想を作(な)すとは一切衆生、みな日の没するを見よ」そして「既に日を見をわりなば目(まなこ)を閉じ、目を開かむに皆明了ならしめよ これを日想(にっそう)とし名づけて初観という」で文は締められる。

勤行を行った極楽門から見れば、西門は極楽浄土への東門にあたり、西門扁額の「釈迦如来 転法輪処 東門中心」はそれを意味しているという。

日想観勤行を終えると参加者は競うようにして一斉にテント張りのお札所へ走る。そして日想観のお札をありがたくおし頂くのである。


日想観(その2)― 一心寺日想観の集い

翌々日の9月24日には、午後4時から大阪市天王寺区逢阪にある一心寺日想殿で、秋の彼岸恒例の「日想観の集い」が開催された。観無量寿経の日想観を修する(法会を行う)勤行が戦前まであったが、戦後途絶え平成19年(2007)から再開されたのだという。読経の他に講演会も開催するなど趣向を凝らし、10回目にあたる平成28年(2016)は150人近くの参加者があった。

ちなみにこの年はNHK大河ドラマ『真田丸』が放送中で、大阪城天守閣館長北川央氏は「真田幸村の最期」という話題性たっぷりの講演を実施。続いて高口恭行一心寺長老が「日想観と一心寺」と題して講演を行った。高口長老は、観無量寿経の観とは〝観察する、ウオッチング〟、無量寿とは〝阿弥陀仏および阿弥陀仏の国・極楽浄土〟、経とは〝テキスト、ノウハウ〟のことで、「観無量寿経とは極楽ウオッチングのノウハウを意味し、その最初が日想観である」と分かりやすく説明された。また、後白河法皇と法然上人のお二人が、この地で日想観を修されたことが一心寺の発祥というエピソードも披露。そのとき法皇は、「難波潟入りにし日もながむればよしあしともに南無阿弥陀仏」と詠われたという。当時の上町台地の崖下には葦の原っぱが広がっていた。その先は海で、今も地名に残る松島、四貫島などの島々が点在していたのである。彼岸、夕陽が淡路島と六甲の山並みに挟まれた明石海峡に沈む。それはこの世の出口であり、あの世への入口でもあるという。

講演が終わり日没の時間になると、勤行が始まる。この日も曇り空で時折薄日が差すこともあったが、最後まで夕陽は期待できなかった。導師による「日想観文」の後、僧侶たちが抑揚の効いた「南無阿弥陀仏」を一斉に唱えると、阿弥陀如来像の背後に掛けられた日没をイメージした赤い垂幕が一段と赤みを増し、あたかも夕陽が沈んでいくかのように見えたのはまことに不思議であった。


家隆塚と夕陽丘

四天王寺の西北、谷町筋と松屋町筋に挟まれた一帯を「夕陽丘(ゆうひがおか)」という。古くからの寺社仏閣や史跡が数多く点在する地域である。「家隆塚(かりゅうづか)」は、その天王寺区夕陽丘町5丁目にある。塚に掲げられた説明板の由来には、家隆の「契りあれば難波の里にやどりきて波の入日をおがみつる哉」の「波の入日」から「夕陽丘」の地名がついたとあり、塚の隣にある浄春寺は家隆が最晩年を過ごした「夕陽庵(せきようあん)」の跡を寺としたと書かれている。この塚の史跡は戦後荒廃したまま放置されていたが、昭和50年(1975)に大阪夕陽丘ライオンズクラブによって整備され、現在も同クラブが維持管理している。

家隆塚には、家隆の墓と伝えられる五輪塔、四天王寺の秋野坊(寺の事務方を所轄する部署)の責任者であった盛順という高僧が建てたという顕彰碑、「家隆卿舊蹟 夕陽庵」の石碑、さらに「契あれば」の歌碑が立つ。塚の西は崖下で松屋町筋に至るが、木々にさえぎられ見通しがきかず、かろうじて通天閣の展望台が見えるだけ。一心寺の日想殿から見たのと同じ風景である。

家隆塚から愛染堂を抜けると大江神社に入る。この境内に「夕陽岡」の大きな石碑と、3m近い石柱の句碑が立つ。この句碑は、元禄年間に大坂を訪れた松尾芭蕉が料亭「浮瀬(うかむせ)」で開いた句会に因んだもので、4面の一つに「あかあかと 日はつれなくて秋の風」と、北陸で読んだ有名な句が刻まれている。「浮瀬」は大江神社の南隣、現在の大阪星光学院の敷地内にあった当時有名な料亭で、摂津名所図会にもその情景が描かれている。ここから見る夕陽もおそらく絶景であったであろう。

上町台地の西は海。古来「茅渟(ちぬ)の海」と呼ばれた大坂湾と上町台地が織りなす景観こそが、日想観を育む素地をつくりあげてきたといえる。京の都で歌の世界の表裏や美醜を見てきた歌人家隆は、死期を悟ってから都では望み得えない極楽浄土への扉の鍵を、ここ大坂の夕陽丘の地で手に入れたのである。

天王寺在住わずか1年余。しかし、夕陽丘に象徴される日想観という祈りの場所と機会を今日まで残した歌人家隆の足跡は、決して消えるものではない。

2018年2月

(長谷川俊彦)



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・小学館『日本古典文学全集 新古今和歌集』
 ・久保田淳『新古今和歌集(上)(下)』(角川ソフィア文庫)
 ・石井正己『図説百人一首』
 ・松本章男『歌帝後鳥羽院』
 ・三善貞司『大阪人物辞典』



≪施設情報≫
○ 家隆塚
   大阪市天王寺区夕陽丘町5
   アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺・夕陽丘前」駅より徒歩約5分

○ 四天王寺
   大阪市天王寺区四天王寺1−11−18

   電  話:06−6771−0066
   アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺・夕陽丘前駅」より徒歩約10分

○ 一心寺
   大阪市天王寺区逢阪2丁目8−69
   電  話:06−6771−0444
   アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺・夕陽丘前駅」より徒歩約10分

○ 大江神社
   大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5−40
   電  話:06−6779−8554
   アクセス:大阪市営地下鉄谷町線「四天王寺・夕陽丘前」駅より徒歩約7分

○ 上賀茂神社
   京都市北区上賀茂本山339
   電  話:075−781−0011
   アクセス:京都市営地下鉄「北大路」駅より京都市営バス「京都産業大学」行乗車、「御薗橋」下車、徒歩約5分

○ 百人一首の殿堂「時雨殿」
   京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町11
   アクセス:阪急電鉄「嵐山駅」より徒歩約15分

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