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第65話 西行さいぎょう (1118〜1190年) 註 第66話『江口の君』にも関連記事を掲載しています。

遊里の一夜が今も語り継がれる漂泊の法師

西行は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶、歌人。元永元年(1118)に紀伊の国・田仲庄に生まれる。俗名佐藤義清(のりきよ)。父は佐藤左衛門尉康清、母は監物源清経の娘。祖父の季清は検非違使で、代々武官の家柄であった。

西行は幼い頃に亡くなった父の跡を継ぎ、17歳で兵衛尉となる。御所を警護する精鋭部隊「北面の武士」に選ばれる。義清(西行)は蹴鞠や騎馬、弓矢にも優れ評価も高かった。歌にも才覚を現し、嵐山、法輪寺の空仁を訪ね連歌や詠歌をした。

藤原頼長の日記『台記』には、「そもそも西行は、もと兵衛尉義清也、重代の勇士たるを以て、法皇に任ふ(つかえる)。人これを嘆美する也」とある。西行と号したのも23歳の頃のことである。同族の同僚・佐藤憲康と一緒に検非違使に任官されるという日の朝、憲康が突然死に、無常観を募らせ出家に踏み切る。家族に出家を告げた際、すがりつく4歳の娘を「これこそ煩悩の絆よ」と縁から蹴落とした話は有名。しかし、別れた妻や娘への愛は、陰に日向に終生変わることはなかった。

25歳の春、初回の奥州の旅に出発。10月平泉に到着、翌年3月出羽国へ越える(山家集)。高野山に入山し、以後30年ほど拠点とする。

保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩じ、保元の乱が起こる。西行39歳であった。この頃、白河法皇の葬送に参列したり、蟄居している崇徳院の許を訪れ詠歌するなど、貴人としての動きをみせる。

50歳、『山家集』の原型を殿上人の藤原顕広(後に俊成に改名)に送ったようだ。

51歳頃、仁安2年(1167)、住吉社へ参詣。後白河法皇の行幸に際会し、詠歌をする。このとき住吉に向かう途中雨にたたられ、摂津の江口で一夜の宿を請うが宿泊を断られ、江口の君と歌合せをしつつ夜を明かした。(詳細はフィールドノート参照)

68歳、東大寺再興の紗金(しゃきん:金糸を縫取で織り入れたもの)勧進のため、再度奥州への旅に出発。鎌倉で源頼朝に会う。

69歳、平泉で藤原秀衡に面会。勧進の目的を果たす。

72歳、弘川寺(ひろかわでら)で病に伏す。

73歳、建久元年(1190)旧暦2月16日(現行歴3月30日)の桜の季節、弘川寺で入寂した。


フィールドノート

西行さんはどちらに?


JR和歌山線「打田駅」から国道24号を東へ、鳥子川橋東詰交差点で国道424号に入り紀の川に向けて南下。県道14号を横切ると間もなく「竹房」の表示板が目に入る。その右手にコミュニティバスの停留所「西行法師像前」があり、農産物直売所横の広場に堂々とした西行法師の像が建っている。こうして書けば実に分かり易いのだが、途中で訪ねた人々はそれぞれに違う場所を指した。西行の生誕地であり、バス停の名にもなっているにもかかわらず、認知度が今一つであったことに愕然とする。

竹房の集落の中にある龍蔵院の境内に「西行法師生誕地」の石碑がある。元永元年(1118)に生まれた佐藤義清(西行)の実家佐藤氏は、摂関家(徳大寺家)の所領である紀の川沿いの紀伊国田仲庄(現在の紀の川市)の肥沃な地を預かり、この荘園の在地領主として代々経営をまかされていた。紀の川市教育委員会の案内板によれば、今でも龍蔵院付近が「佐藤城址」と呼ばれていることから、往時の佐藤氏の隆盛をもうかがい知ることができる。

龍蔵院の境内から蛇行する紀の川が良く見通せ、一幅の絵になる。この大河を間近に望み育った義清ならば、気宇壮大で恋に夢見る青年に成長したことも納得がゆく。

都に出てからの義清は、徳大寺藤原実能の働きもあり、鳥羽上皇にも近づけたようだ。

百人一首にも入っている歌がある。

嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな

西行がまだ武士として上皇の御所を守っていた頃、中宮(侍賢門院 藤原璋子)のことを好きになり、出家した後にも中宮の夢を見たことを詠んだ歌という。

西行について藤原頼長の『台記』に、「又余、年を問ふ。答えて曰はく、『二十五なり。去々年出家す』と。そもそも西行は、本兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士を以って法皇に仕へ、俗時より仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以って道世す。人これ嘆美するなり」とあるように、出家した後も、殿上人の耳目をあつめていたことがこの文章からも読み取れる。


遊女の思いやりは舞台芸術となって昇華

平安時代、都人は難波の住吉社や天王寺へ詣でるときは淀川の水運を使っていた。難波江の河口から遡った川沿いの「江口の里」あたりは遊里として知られ、華やかな歓楽の雰囲気を漂わせていた。

西行と江口の君の有名な出会いの場所は、今も淀川と神崎川の合流点近くに寂光寺として残っている。淀川の巨大な北岸の堤防の下にある寂光寺は「江口の里」として知られるが、民家や工場の家並みの中に埋もれるようにしてある。しかし境内は周囲の環境とはがらりと変わり、木々が茂り古色に満ち、過去に訪れた多くの俳人の句碑などが点在する。

仁安2年(1167)の秋の夕暮れ、西行は住吉(謡では天王寺)詣での途中、江口の里で雨にたたられ、一夜の宿を乞う。しかし、家主の遊女は僧形の者を泊めることはできないと西行の申し出を拒む。降りやまぬ雨に西行は途方にくれ、歎息するように一首を詠んだのが次の歌である。

世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮の宿りを 惜しむ君かな

これを聞いた遊女は、すぐさま歌を返した。

世をいとう 人としきけば 仮の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ

この即興の歌が縁となって、西行は長雨の一夜を遊女と歌のやり取りで過ごすことが出来た。遊女とはいえ、高貴な出自とも伝わる教養人・妙の奥深いあしらいは、なんとも心憎い。

この句を刻んだひときわ大きな歌碑が、境内の中央にデンと立っていた。
「西行さんのようなお坊さんが、こんな女遊びをする〝すきや(船宿)〟に泊まったらあかんでしょ。だから遊女の妙さんは、歌で問答を繰り返しているうちに一夜が過ぎるようにしてあげたのでしょうね」と寂光寺住職の山尾啓聖さんは話す。

その後、妙は西行と出会ったことが機縁となって仏門に入り、ここ江口の里に庵をむすぶ。「自分だけが良いというのではなく、多くの人々の悩みを聞いてあげていたのです。このような心持で暮らして来られたからこそ、妙さんが亡くなってから3年後、冥福を祈って里の人々が寺を建てたのですよ」。

法師と遊女のあたたかい関係は、能や歌舞伎の舞台芸術に昇華し長く後世に伝わった。

前記二つの歌は『山家集』『西行物語』『撰集抄』『とはずがたり』などに採取されているが、その夜は他にどのような歌が交わされたのだろうか。仮託らしき歌はあっても、定かなものはみあたらず、気にかかるところである。

現在、寂光寺の近在では、古くから居住する人は3分の1くらいになり、妙の話を知る人は少なくなったという。が、寺では今も毎年、妙の命日である旧暦3月14日に近い日の4月第2日曜日に、自刻像が祀られている本堂で法要を行っている。


願わくば花のもとにて春死なぬ…

弘川寺に来る以前、西行の晩年の行動は多忙を極めた。68歳の時、源平動乱で焼失した東大寺復興の勧進を時の長老重源から依頼され、奥州平泉に行って藤原秀衡から多大の喜捨(大仏を鍍金するための砂金)を受けるための交渉を行っている。その道中、鎌倉に立ち寄り源頼朝に面会し、協力を取り付けるなどの大役を果たしている。

法師として悟りの世界に憧れつつ、ようやく南河内の弘川寺に草庵を結んだのが文治5年(1189)半ばのこと。

西行は晩年、自らの創作活動の集大成として二巻の自歌合(じかあわせ:自作の歌の優劣を判じてもらう作品)を編み、伊勢神宮内宮と外宮に奉納することを思い立ち、その判詞(はんし:論評)を託したのが、当時26歳の藤原定家である。ところが返事はなかなか来ず、定家に幾度も催促してようやく受け取ったのが、弘川寺にいるときであった。西行はすでに病床にあったが、人に読ませて3度聞き、自らも2日がかりで読み通す。平安末期の歌人西行と、後の中世に名を馳せた藤原定家との交流は、西行が新しい時代の息吹を取り入れようとしていたことが分かる。英雄は英雄を知るという言葉が適切かどうかは別として、西行の懐の深さを知った。

西行は「願わくば花のもとにて春死なぬ その如月の望月のころ」の歌に合わせたかのように、翌年、桜の季節の旧暦2月16日、霊山葛城山の麓にある弘川寺で入寂した。釈迦の旅立ちと1日遅れの、73歳のときであった。

この歌を辞世の句と受けとる人も多いが、如月の望月は釈迦の命日(2月15日)であったことと、この歌が10数年も前に詠まれていることから、その偶然が話題となったのだろう。いかにも西行らしい終焉にふさわしい仕掛けであった。ちなみに当時、花といえばすでに桜を指していたが、今でいうソメイヨシノではなく山桜をいう。

弘川寺の雰囲気は、西行が庵を結んだ頃とはさほど違ってはいないだろう。訪れた日は、梅雨の合間で、山林の木々の葉に雫が流れていた。このしめっぽさと足元の小さな水たまりが、いかにも修行を目的とした寺であることを思わせる。

本堂右手の山に西行の墳墓があるが、その場所が分からなくなった時期があった。室町時代、河内国の守護畠山氏の兄弟間の争いの戦火で、弘川寺の堂宇全てが焼失したときである。後年、西行を慕う似雲(じうん)法師により現在の墳墓が発見された。実に他界後354年後の江戸時代、享保17年(1732)のことであった。西行墳の東方に約3.5haの桜山があり、ここに供花の桜千本が植樹され、花の季節には西行に心を寄せる人たちで賑わう。

西行の業績を守り伝える住職の高志慈海さんはいう。「弘川寺は西行の終焉の寺であることから、西行を慕う多くの人たちがお参りされますが、当寺だけでは限界もあり、毎年の法要はしていません。平成元年(1989)に800年忌をしましたが、生誕900年の平成30年(2018)には生誕地の和歌山で『西行生誕900年記念特別展』が和歌山県立博物館で開催されます。そこには協力というかたちで、弘川寺から西行座像を含む29点の貸し出しをします」。

西行の遺徳をしのぶ史料の数々は、境内の西行記念館に保存されている。ただ、開館は春(4・5月)と秋(10・11月)の年2回と限られている。現在、記念館の常設を目指し、住職のお嬢さんが修行中で、将来学芸員としてかかわるとのこと。さらなる充実が期待される。

2018年3月
(2019年4月改訂)

中田紀子



≪参考文献≫
 ・目崎徳衛『人物叢書 西行』(吉川弘文館)
 ・西澤美仁編『西行 魂の旅路』(角川ソフィア文庫)
 ・桑原博史『西行物語』(講談社学術文庫)
 ・白洲正子『西行』(新潮文庫)
 ・観世左近『江口「観世流謡曲本」』(檜書店)
 ・江口の君堂(寂光寺)『江口の君堂』
 ・弘川寺『弘川寺 西行記念館図録』
 ・弘川寺『サライ 2008年3・20号』(小学館)



≪施設情報≫
○ 西行法師の像
   和歌山県紀の川市窪
   アクセス:JR和歌山線「打田駅」より東南方向へ徒歩約35分またはコミュニティバス「西行法師像前」下車すぐ

○ 龍蔵院(西行誕生の地)
   和歌山県紀の川市竹房152
   アクセス:JR和歌山線「打田駅」より東南方向へ徒歩約45分またはコミュニティバス「西行法師像前」下車、村落の中を東南へ約500m

○ 江口の君堂(寂光寺)
   大阪市東淀川区東江口3丁目13-23
   電  話:06−6328−0504
   アクセス:阪急京都線「上新庄駅」よりバス「江口君堂前」下車400m

○ 弘川寺・西行記念館
   大阪府南河内郡河南町弘川43
   電  話:0721−93−2814
   アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス河内行終点下車、徒歩約5分

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