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第77話 北畠顕家きたばたけあきいえ (1318 〜 1338年)

後醍醐天皇に奉じ夭逝した美丈夫の武将

鎌倉末期の激動期に若くして散った「花将軍」である。北畠顕家は、『神皇正統記』を著したことで知られる北畠親房の長男として、文保2年(1318)に生まれた。出生地は不詳。かつ母についても不詳とされている。妻については後で触れる。

長じて顕家は、武芸はもとより舞にもたけ、元弘元年(1331)に後醍醐天皇と北山に行幸した際、顕家は「陵王」を舞ったが、その凛々しく艶やかな姿に「花将軍」と称賛されたとのこと。NHKで『太平記』が平成3年(1991)にテレビドラマ化された。その時、あの国民的美少女と言われたゴクミこと後藤久美子(若い方には馴染みがないか・・・)が顕家を演じたのも頷ける。

顕家は後醍醐天皇による激動期の建武新政の下、後醍醐天皇の命により皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥(みちのく)へと下った。顕家の配下には、後々まで顕家と行動を共にすることになる南部師行(なんぶもろゆき)や結城宗広(ゆうきむねひろ)、伊達行朝(だてゆきとも)がいた。

顕家らは陸奥の多賀国府を拠点に、期待どおりの働きで陸奥を平定。建武2年(1335)に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、後醍醐天皇は直ちに顕家を鎮守府将軍に任じた。

顕家は義良親王と共に南部師行らを従えて西へと向かった。一説によると、顕家はこの挙兵の際には、後の武田信玄の専売特許のように思われている「風林火山」の陣旗を使用したとのこと。ちなみに、「風林火山」のそもそもの源は『孫子』である(その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)。西へ向かった顕家は、後醍醐天皇の期待に見事に応えた。尊氏との各地での戦いには見事な勝利を収め、その結果、尊氏は九州へと敗走したのである。

その後、建武4年・延元2年(1337)に再び尊氏が立ち上がった。顕家は再び後醍醐天皇の要請を受け、尊氏と戦うべく南部らを従えて西行した。この時も騎馬隊を巧に用いて鎌倉の斯波家長を攻め滅ぼすなど、顕家の快進撃は続き、箱根を突破した。

顕家は、美濃国青野原の戦いでも北朝方を破ったのである。勢いのある顕家としては、そのまま軍を進め尊氏のいる京に攻め入ると思われるところであろう。ところが、何故か顕家はその後の進路を大和へとった。この顕家の行動については疑問との声も多い。

大和に入った顕家は、般若坂で尊氏側と戦った。ところが、顕家はここで初めての敗北を喫したのである。敗れた顕家はこの後、河内・摂津方面へと向かった。そしてここで細川顕氏、日根野盛治ら北朝方勢力との交戦を続けたのである。顕家はもちろんここでも善戦したが、そこに尊氏の命を受けた高師直が顕家を目指し出撃してきた。室町幕府設立の立役者といわれ、室町幕府初代執事として知られるあの高師直である。

両軍は延元3年(1338)5月20日に堺で激突した。『太平記』によると、このとき顕家の兵はわずか200人とのことである。顕家はこれまでの長征の疲労に加え奮戦はしたものの、ついに堺の石津で北朝方に包囲されてしまった。そこで何とかこれを突破しようとしたが功を奏せず、ついには力尽き討ち取られてしまった。顕家わずか21歳の時であった。顕家は後醍醐天皇に忠実に従い若くして散ってしまったのである。顕家の生涯は波乱に富むものであり、前述のとおりNHK大河ドラマにもなり、彼に関心を集め共感する人も多い。

ところで、ルイス・フロイスは、北畠顕家の複数回にわたる奥州から京都への大規模な進軍の中途での略奪行為があったことや、最終的に頓挫した事などを評し、「日本における十字軍」と表現しているのは興味深い。歴史の評価の難しいところである。

一方、花将軍顕家の華々しい生涯の陰に隠れ、薄幸の青春をひっそりと終えたのが顕家の妻であろう。顕家の妻は、鎌倉幕府打倒の先駆けとなった日野資朝の娘である。彼女は父の死後1〜2年の12歳で16歳の顕家の許に嫁いでいる。しかし、新婚の睦まじい夢も束の間、顕家は鎮守府将軍として元弘3年(1333)10月2日陸奥へ。その後足利尊氏追撃のため、大軍を率いて各地を転戦したことは前述のとおりである。かくして建武2年(1335)、顕家は、天皇に叛して京へ攻め上った尊氏を追討するため同年12月22日に陸奥を出発して京へ向かい、年が明けた延元元年(1336)1月にこれを平定。そして同年3月には再び陸奥に赴き、これが二人の今生の別れとなった。このとき顕家19歳、妻15歳。その新婚生活は、顕家が京にいたわずか2カ月ほどのことだと思われる。

妻は顕家戦死後、顕家を偲び河内、和泉の戦場の跡を巡っている。その時に詠んだ歌がある。

なき人の かたみの野辺の 草枕
夢もむかしの 袖の白露

そして、妻は黒髪を切り尼となった。今なら高校生の年齢であった。


フィールドノート

大阪府下の顕家ゆかりの地では、地元の篤志家などの努力により整備が図られ、顕家の士気の高さを物語っている。


北畠顕家供養塔


堺市西区の旧紀州街道と石津川の交差する「太陽橋」の南詰めに、顕家が戦死したと伝えられている場所がある。傍には石津川が流れている。南朝の本拠地吉野と堺の中間にあるこの地は、後醍醐天皇のいる吉野を守ろうとする顕家の最後の戦場となった。ここに長年顕家の忠実な臣、南部師行の供養塔が並んで建てられている。供養塔の周囲は顕家保存会の手によるのだろうか、清掃が行き届いており花も添えてあった。

太陽橋の上に立ち、石津川を東に眺めてみると二上山と金剛山が望めた。その山の向こうは後醍醐天皇のいた吉野である。

周囲を流れる石津川周辺を見つめていると、かつてこのあたりで激しく苦しき戦いが繰り広げられていたのかとの思いが湧いてくる。古にはさぞや清流であっただろう石津川にも多くの血が流れたことだろう。今の石津川はただ静かに流れ続けている。


北畠公園


ここに顕家の墓碑がある。「別当鎮守府将軍従二位権中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顯家卿之墓」と刻まれた見事なものである。『太平記』によると、「暦応元年(1338)5月に和泉の堺安倍野にて討死し給いければ」と顕家が21歳で戦死した場所と伝えている。

ここは、もとは「大名塚」と呼ばれた阿倍野古墳群のひとつで、古松一株ある塚だったそうだ。墓は二重台石に伏亀を置き高さ120㎝・幅33㎝の竿石を載せたものだったのだ。ここを享保8年(1723)に並河誠所(なみかわせいしょ)が顕家墳墓と認定し、建墓されたものである。

ちなみに阿倍野区「北畠」の地名は、もちろん北畠家にちなむものである。顕家の名前を地名に入れるという、地元の人々の顕家らに対する絶大な人気を物語るものである。現在の墓碑の創建は新しく、明治15年(1882)である。南朝に尽力した北畠親房と顕家を祀る為に創建された。


阿部野神社


まさに、「阿倍野区」の「北畠」にある神社である。

阿部野神社は、「現在地は顕家公が足利軍と戦った古戦場」との表記があり、境内に掲示されている「北畠顕家公略年譜」の最後には「五月二十二日高師直の軍と和泉堺浦石津に戦ひ戦死」と書かれている。明治8年(1875)に、地元の有志により建立されたとのこと。顕家の命日とされる5月22日に、恒例神事として「春季大祭」が行われている。現在も阿部野神社に、南部師行の本拠地青森県八戸市からの参詣者が絶えないようである。


豊島河原(てしまがわら)(大阪府箕面市・池田市)

豊島河原は、建武3年(1336)に行われた、新田義貞・北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇と足利尊氏を総大将とする戦いの場であった。豊島河原合戦と呼ばれている。この結果、尊氏側は新田・北畠軍に敗れ去り兵庫へと退却したのである。

「豊島河原」の具体的な場所は不明である。『梅松論』によると、「新田義貞は摂津国瀬川の河原にて合戦を行った」と記述があり、「瀬川の河原」とは箕面川の下流で箕面市と池田市の境界を接する河原ではないか。箕面川は、今は住宅街を静かに流れる小さな川である。この小川がかつて歴史の舞台であったとは信じ難い。


その他

大阪府以外にも顕家のゆかりの地は多い。とりわけ福島県伊達市の北畠親房、顕家、顕信、守親を主神とする霊山神社が特に有名。是非訪れてみたいところである。



2019年2月

和田誠一郎



 

≪参考文献≫
 ・横山高治『花将軍 北畠顕家』(新風書房)
 ・加治将一『舞い降りた天皇(下)』(祥伝社)


≪施設情報≫
○ 北畠顕家供養塔
   大阪府堺市西区浜寺石津町中5丁目3番31号

○ 北畠公園
   大阪市阿倍野区王子町3丁目8番
   アクセス:阪堺電車上町線「北畠停留場」より徒歩約7分

○ 阿部野神社
   大阪市阿倍野区北畠3丁目7番20号
   アクセス:阪堺電車上町線「姫松停留場」より徒歩約10分

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