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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第92話 間重富はざましげとみ (1756 〜 1816年)

質屋の主人にして大学者 ― 近代天文学と大坂蘭学の発展に貢献

間重富は宝暦6年(1756)、大坂長堀の富田屋橋(とんだやばし)北詰で質屋十一屋(じゅういちや)五郎兵衛の六男として生まれた。号は長涯(ちょうがい)。初代は近江国蒲生(がもう)郡出身の油屋であったが、二代目のときから11の蔵を持つ質屋を始め、重富は16歳で七代目五郎兵衛を継いだ。そうして蔵の数を15までに増やしたという、根っからの大坂商人である。

小さい時から器械に興味を持ち、渾転儀(こんてんぎ)(天体の位置観測に用いる器械)を模作したこともあった。37歳のとき天文学者麻田剛立(あさだごうりゅう)に入門、生来の器械好きと財力をバックに京都の金工戸田東三郎を使って象限儀(しょうげんぎ)、子午線儀(しごせんぎ)、垂揺球儀(すいようきゅうぎ)などを製作、一門の天体観測に大いに役立てた。

寛政2年(1790)、重富は大坂北堀江の傘屋職人橋本宗吉の類まれな才能を見抜き、学資や滞在費用一切を負担して江戸の蘭学者大槻玄沢のもとに送った。この宗吉が後に近代科学の基となる大坂蘭学発展の礎を築くことになる。

寛政7年(1795)、大坂の天文学の先進性を無視できなくなった幕府は、麻田剛立に宝暦暦(ほうりゃくれき)の改正を要請した。しかし、剛立は自らそれに関わることを辞退し、代わりに門下生の重富と高橋至時(よしとき)を江戸へ送った。その成果は寛政9年(1797)に「寛政の改暦」となって結実する。また、重富は江戸在勤中、至時の弟子であった伊能忠敬(いのうただたか)に測量技術を指導するとともに、測量機器を与えた。これが後の全国地図作成に大きく寄与するのである。

改暦を終えた重富は大坂に戻った。一方、至時は幕府天文方に残り『ラランデ暦書』(フランスの天文学者ジェローム・ラランドによって書かれた天文書のオランダ語訳版)の訳解に取り組むが、文化元年(1804)病に倒れた。重富は再び江戸に赴き、至時の息子・景保(かげやす)の後見人として遺業完成に助力する。

再度大坂に戻った重富であるが、元来病弱な体質でたびたび病の床に就き、文化13年(1816)61歳の生涯を終える。しかし、天文観測は息子の重新(じゅうしん)や孫の重遠(しげとお)らにより、日々一家総動員で続けられた。重富4代にわたる貴重な観測記録は、後述する羽間(はざま)三家の一つ海老江羽間家が承継、「羽間文庫」として後世にとどまるところとなる。


フィールドノート

長堀川富田屋橋から大坂の空を毎夜観測


間重富の質屋「十一屋」は本町長堀川に架かっていた「富田屋橋」の北詰にあった。その跡地に造られた市営長堀駐車場の緑地帯には、「間長涯天文観測の地」の石碑が建っている。碑は昭和35年(1960)に長堀川岸に建てられたが、その後、川の埋め立てによって当地に移設された。

重富が毎夜観測を行った富田屋橋も、昭和42年(1967)から46年(1971)にかけて行われた西長堀川の埋め立てによって撤去された。この例のように近年の大阪の急速な都市化は、古き大坂の重要な水路であった多くの河川を車優先の道路に変え、八百八橋と謳われた大坂の風情を一変させた。それを物語るかのように、旧「富田屋橋」の親柱の一部が寂しそうに草むらからわずかに顔を覗かせていた。


天体観測器具の活用

「からくり」や「しかけ」に長じていた重富は、天体を観測する器具についても自ら指示を出して職人に製作させた。大坂の十一屋や江戸の拠点で観測を続けるなかでも、器具の改良は怠らなかったという。そこで当時天体観測器具がどのように使われていたか見てみたい。

まず「渾転儀」は、天空を円形にかたどり(天球)、南北極を繋ぐ子午線とこれと直角に交差する地平線、赤道(地球の赤道を拡大、天球に交わらせる)、黄道(太陽の通り道)、白道(月の通り道)を表す目盛付きの円環を組み合わせたもので、赤道環や黄道環を回して水星、金星、火星などの惑星の位置や運行を観測した。

次に「象限儀」。円周の4分の1(90度=1象限)の円周枠に目盛を付け、円の中心と結ぶ可動式の照準尺を組み合わせる。天体に照準を合わせた照準尺の角度の変化により天体の位置を観測する。この円周の4分の1の象限儀は四分儀ともいう。また円周の6分の1(60度)は六分儀、8分の1(45度)は八分儀といった。

「垂揺球儀」は、一般の時計とは異なり振り子の等時性を利用して振り子が往復する回数を自動的に計測し、その回数で天体観測用の時間を計る。高橋至時の次男で渋川家の養子となった渋川景佑(しぶかわかげすけ)の『星学書簡』は、重富と至時の書簡のやりとりを編集したもので、重富が垂揺球儀など様々な観測器具の改良に腐心した様子が書かれているという。

後述の羽間文庫には書籍や記録文書のほかにこの種の観測器具が含まれており、現在は大阪歴史博物館に所蔵されている。


「羽間文庫」の継承・保存に注力



近江国から大坂に出た羽間一族は3家あり、移り住んだ地名をとってそれぞれ海老江羽間家(海老江家)、浦江羽間家(浦江家)そして浦江羽間家から分家した阿波座羽間家(阿波座家)と呼んだ。重富は阿波座家羽間五郎兵衛の七代目である。ちなみに同家「羽間」を「間」に改姓したのは重富であった。享保年間に浦江家そして明治期に阿波座家のそれぞれ直系家系が絶家した結果、海老江家(大阪市福島区海老江)だけが残り現在に至っている。

ご当主は羽間平安(へいあん)氏で凸版印刷株式会社の役員を終えた後、母校関西大学理事長を務めた方であり、アメリカンフットボールの往年の名プレイヤーでもある。

その海老江家であるが、平安氏の祖父平右衛門は絶家となった阿波座間家の観測記録散逸を防ぐべく、間重富4代の資料継承と顕彰に取り組むことを決意、さらに祖父の思いを受け継いだ父平三郎(1895~1972)は生涯をかけて重富関連資料の収集・保存に努めた。これが「羽間文庫」となって結実していくのである。

「羽間文庫」には重富や高橋至時の資料だけでなく、重富と交流のあった木村蒹葭堂(けんかどう)の『蒹葭堂日記』の原本や、山片蟠桃(やまがたばんとう)の『由目農志路(ゆめのしろ)』(夢の代)が収められていた。平安氏は「父は無口な人で『蒹葭堂日記』などの存在を直前まで話さなかった」という。平三郎最晩年の昭和47年(1972)、病を押して出席した『蒹葭堂日記』復刻版の献本式当日、自ら蒹葭堂の墓前に立ち手を合わせて復刻事業完成の報告をした。その2週間後平三郎は帰らぬ人となったのである。平安氏と姉の浜本正女(まさじょ)氏は「文化財を私することなく広く社会に資する」という平三郎の遺志を受け継ぎ、「羽間文庫」の継承・保存に一層注力する決意を強くした。


大阪歴史博物館で永久保存

平成7年(1995)1月、「阪神・淡路大震災」が阪神一帯を襲った。海老江の羽間家も蔵の瓦が落下するなど少なからぬ被害を受ける。この震災で平安氏は、より安全な場所と適切な機関での資料保存が急務との思いを強くし、特別展の開催など重富に強い関心を寄せ続けていた大阪市立博物館(現在の大阪歴史博物館)への「羽間文庫」の一括寄贈を決断する。翌年から平成12年(2000)にかけて文庫所蔵資料が同博物館に順次移され、その数は3576件総点数6777点に及んだという。

「羽間文庫」寄贈後も、閲覧や見学を希望する人が引きも切らず、平安氏は多忙な時間を割いて応対してきた。筆者訪問時も一杯に詰まった応接室の書棚から次々と資料やコピーを取り出し、熱心に説明する姿には唯々敬服の至りであった。

平成15年(2003)9月、伊能家当主と「伊能忠敬研究会」(東京)の一行が「羽間文庫」を訪問した。両家の交流は戦前平三郎氏が千葉県佐原(現香取市)の伊能家を訪問して以来である。同会会報には「続く親交三世紀 伊能・間家の交流 六十年ぶりの再会、大阪旅行で町人天文学者の業績を称える」と謳われ、見学会の詳細が掲載されている。一行をアテンドしたのは、平安氏ご夫妻である。

平成28年(2016)3月、大阪歴史博物館と大阪市立中央図書館所蔵の間重富関係資料の内740余点が、一括して国の重要文化財に指定されることになった。平安氏に感想を伺うと、「これで『羽間文庫』は永久に残ることになります」と率直に喜びを語った。


盟友高橋至時と重富

大阪歴史博物館に高橋至時の『西洋人ラランデ暦書管見』が所蔵されている。羽間家から寄贈された「羽間文庫」に含まれていたものである。

当時、重富と共に寛政の改暦に従事し幕府天文方であった至時は、最新の西洋の天文学知識を盛り込んだこの書物の研究を命ぜられ、わずか十数日の借用期間に一部の翻訳と自らの所見を管見としてまとめた。

その後、至時の死去に伴い再び江戸出府を命じられた重富は、蘭和辞書を片手に翻訳に取り組み、至時の子で天文方高橋景保の仕事を支えたという。『ラランデ暦書』の翻訳は景保の業績とされているが、重富の実質的な貢献を見逃すことはできない。

ところで平安氏は、重富の功績は単に天文学上だけではなく、彼の人物像を多面的に捉えてみれば「産・学・官の具現者であった」という。町人で質屋の主人(産)であり、天文学者(学)であり、幕府天文方(官)に仕えたことを指す。しかも重富は「寛政の改暦」で江戸時代の一般市民生活に大きな影響を与えた。平安氏はこのことを「学の実化(学問の社会的価値を高め、実際的な知識を取り入れる)」の実践者という表現で高く評価する。


羽間家墓所 ― 統国寺と勝楽寺



天王寺公園から谷町筋を東へホテル街の坂道を上りつめた正面に統国寺がある。門の手前には普茶料理で有名な老舗料亭「阪口楼」が控える。統国寺は古寺名を百済念仏寺と称し、大坂夏の陣で真田幸村によって焼き払われた。その後、黄檗宗邦福寺として再興されたが、現在は在日本朝鮮仏教徒協会傘下の寺となっている。

本堂の裏に、「間五郎兵衛一門墓所」と刻まれた石柱があり、その奥の区画に多くの墓碑が並ぶ。「長涯間先生之墓」はその中央にある。五郎兵衛は代々引き継いだ通称である。

一方、大阪市北区大淀中「浦江公園」近くの黄檗宗勝楽寺に羽間三家の墓所がある。墓所手前に3基の供養塔があり、さらに奥の壁に羽間三家の系譜を記した石額碑が掲げられている。いずれも平三郎の手によるものである。勝楽寺は海老江の平安氏宅から1㎞余りの距離、海老江・浦江両家が昔は隣村の位置関係だったことがわかる。

平安氏によれば、父平三郎が祖父平右衛門十七回忌に際し、統国寺(21基)と勝楽寺(11基)の羽間三家の墓を改修・整理を行ったとのことである。現在これら32基の墓を平安氏ご家族が守り、毎年盆と暮のお参りは欠かさず続けているという。祖父平右衛門以来継承されている海老江羽間家の羽間三家・重富一門の顕彰と尊崇の念には、頭が下がる思いである。



2019年2月

長谷川俊彦



 

≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・鳴海風『星空に魅せられた男 間重富』(くもん出版)
 ・浜本正女『羽間文庫―文庫に生涯をかけた夫婦』大阪春秋1995年80号(新風書房)
 ・伊能忠敬研究会『伊能忠敬研究』2003年第34号
 ・谷沢永一『なにわ町人学者伝』(潮出版社)
 ・藤本篤『なにわ人物譜』(清文堂)
 ・中野操『大坂蘭学史話』(思文閣出版)
 ・本渡章『大阪古地図 むかし案内』(創元社)
 ・築山桂『天文御用十一屋 星ぐるい』『天文御用十一屋 花の形見』(幻冬舎)


≪施設情報≫
○ 間長涯天文観測の地碑
  大阪市西区新町2–7 長堀駐車場緑地帯
  アクセス:大阪メトロ長堀鶴見緑地線「西大橋駅」すぐ

○ 大阪歴史博物館
  大阪市中央区大手前4–1–32
  アクセス:大阪メトロ谷町線・中央線「谷町四丁目駅」2号・9号出口より徒歩すぐ

○ 統国寺・間五郎兵衛一門墓所
  大阪市天王寺区茶臼山町1–31
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「天王寺駅」より徒歩約5分

○ 勝楽寺・羽間家墓所
  大阪市北区大淀中4–5–12
  アクセス:JR大阪環状線「福島駅」より徒歩約15分

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