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料理研究家 田中愛子さんの“ 食 ”のエッセイ

愛子さんの大阪の暮らし

1

白味噌の味

明治のエネルギー 地方から大阪へ

私は 昭和24年生まれの団塊真っ只中。大阪生まれの大阪育ち。言わば。戦後の復興とともに成長し、大阪が最も大阪らしさ、大阪の匂いを発散させていた中で生きてきたように思います。

曽祖母、祖父祖母、母、そして私と妹、4世代が一緒に暮らしていたあの頃。祖父は明治26年、富山県滑川の生まれで、農家の6男。今も、富山の本家は23代続く大きな農家ですが、当時の裏日本の農家の経済はきびしく、子供たちは長男を残して多くは都会へ働きに出されていたあの「おしん」の時代。祖父もその一人で尋常小学校の卒業を待たず、11歳で故郷を後にしたそうです。新しい着物をきせてもらって、手に大きなおにぎりを幾つも持って汽車に心細く乗ったら、窓の外には母親がいつまでもいつまでも立って手をふっていたそうです。よく夕食の晩酌の時に語っていました。今では考えられない親と子の厳しい覚悟。祖父の生きる原点はここにあるかと思います。
明治維新からまだ30〜40年の大阪には、地方から少年が働きにやってきて、そのエネルギーが次の大阪を創っていきました。私の大阪樟蔭学園に通う友達は商家が多く、同じように祖父の時代に丁稚奉公に来て、一代を築いた人も多くいて、同級生の足立説子さんの祖父は「足立美術館」の創始者の全康さん、他にも船場、道修町、松屋町などで家族で商いをしているお家がたくさんありました。

その明治の先人から受け継いだ昭和30年代の自由で大らかな大阪人気質は、景気の良さも手伝って、「もはや戦後ではない」と力強く自信に満ちて歩いていたように思います。
その空気が今の大阪の精神文化を培い、ご機嫌に暮らす大阪人の知恵を生んだのかもしれません。
そんな祖父の食事は1日2回。朝6時に朝ごはんはご飯と焼き魚、富山のイカの塩辛黒作り、お漬物、味噌汁と夕方5時に夕食。夕食は焼き魚の代わりに、煮魚、刺身に変わり、煮物や酢の物と2合の晩酌。
ご飯はもったいないからお茶漬けなどしてはならない。1日よく働き、水道の栓はキュッと閉めること、絶対タクシーなど乗らず、バスと市電。これが祖父の生き方です。そして 口癖「人生は「な行」と「う行」。
「泣いたらあかん、投げたらあかん、もっとあかんのは怠けたらあかん。嘘ついたらあかん、裏切ったらあかん、もっとあかんのは うぬぼれたらあかん。」

えらく堅物のような祖父でも、お茶屋通いも抜け目なく、そのために小唄の先生が来てお稽古を始めたり、尺八を習ったりと忙しい。ある日、帽子を被りコートを着て小さなトランクを持っての旅行仕度。親友のつるつる頭の浜屋さんと出かけるので、お家まで迎えに行ってからの旅行ということだそうだったけれど、本当のところ、浜屋さんはどこかの芸妓さんとルンルン旅行に行くための友情出演だったようです。やれやれ、2人を大阪駅で見送って、ちょっと一杯やってホッとしている時に、※写真:毎日新聞社偶然浜屋さんの奥さんに見つかっだから大変。浜屋さんの奥さんが血相変えて涙ながらに祖母に話しかけるのに、とっとと祖父は逃げ出していない。祖母が奥さんをなだめたりすかしたりして、事を治めるのに四苦八苦。この騒動は何日か続き、子供心にも面白くて、大人の騒動ぶりを妹と盗み見していました。「中途半端なお世話して、ほんまに!見つかるようなところで一杯飲むなんて、ほんまにスカタンやわ」と祖母はぼやきました。

女性が支える大阪の味

今思うと、祖父の肩にかかっているのは、家族の他に住み込みの人や、祖父を頼ってくる遠縁の人たち。10人を超える人達が共に住み暮らしているので、毎日誰かが何かを起こしたり、もめたりしている。それを取り仕切っているのが祖母。来客も多く、いつもバタバタしているけれど、機嫌よう暮らすのが信条。そのご機嫌を支えるのは、お腹一杯食べることだと祖母は知っています。ご飯さえあれば良いように、常備菜の昆布やふりかけ、お漬物、味噌などは欠かさず台所に用意して、祖母はだれかれ問わずご飯を食べられるようにしていました。

11月末から、大根を干し 大根のぬか漬け(こうこ〕つくり。それから、ご飯を炊いて「こうじ半」の麹を合わせ混ぜて、コタツの中に一晩入れて置くと甘酒の素が出来る。これに生姜と砂糖を入れて一煮立ちさせると美味しい甘酒が出来る。一部を甘酒にとっておき、後は、煮た大豆を潰したものと塩を入れてよく混ぜ合わせて寝かせると、白味噌ができあがります。熟成の時間が経つ毎に色が琥珀に変わってくる。その時、その時美味しい味噌です。しかしながら、歳末に、江戸堀「米忠」の白味噌が樽で送られてきます。家の自家製味噌は素朴で美味しいけれど、「米忠」の白味噌の垢抜けた甘さとまろやかさは、お正月の楽しみの1つで、ワクワクします。年始客にも振舞われる白味噌雑煮は、お正月の味。今は私のレシピとなって、毎年お正月に出てきます。今年も懐かしい味とともに、思い出をいっぱい持ってきてくれました。

我が家では、7日、8日の頃でしたが、お正月のご馳走も終わりという意味の「福あかし」と言う、かぶらや大根、青菜を入れて、最後の「米忠」の白味噌を使ったおじやを作ります。
野菜のうまみと香り、白味噌の甘みが効いたおじやは本当に美味しい。その夜は祖父も曽祖母、祖母、母もみんな「福あかし」の白味噌おじやをホッホっとあつあつを頂きます。これでお正月気分は終わり。明日から又、忙しい暮らしがはじまるのです。

冷え冷えする冬の夕暮れ、4世代、年の差や立場はそれぞれの人が集まる食卓。私にとって、白味噌の味は家族の温もりを思い出させる味です。

白味噌の雑煮
白味噌の雑煮
  • 【材料】
    丸もち 8個
    出汁 4カップ
    白味噌 130g
    大1
    金時人参 50g
    水菜 100g
    海老 4尾〜8尾
    焼き穴子 1本
    鶏もも肉 100g
    醤油 小1
    小1
    紅白かまぼこ 1/4枚〜1/2枚
    糸がつお 5g
    へぎ柚子 4枚
  • 【作り方】
    1. 水菜は色よく茹で、水で冷まして絞り5cmぐらいの長さに切り揃える。人参は5cmぐらいの千切りにし、茹でて水を切り揃えておく。
    海老は殻つきのまま茹でて殻をむいておく。
    2. 穴子は1cm幅に切る。紅白かまぼこは5mm幅に切る。
    3. 鶏肉は薄いそぎ切りにし、酒、醤油をまぶす。
    4. 鍋に出汁を入れ煮立てる。
    その中に鶏もも肉を入れアクを取る。
    5. 出汁に白味噌を入れる。
    6. 餅は別鍋に湯を沸かして茹でる。
    7. お椀の底に餅がくっつかないように水菜を置き、熱い餅を乗せる。
    鶏肉の入った熱い汁をたっぷり張り、人参、水菜、焼き穴子、紅白かまぼこを盛る。
    糸がつお、へぎ柚子を添える。
写真 宮本 進
デザイン 田中 稔之

INDEX

Aiko Tanaka田中 愛子(たなかあいこ)プロフィール

  • 大阪樟蔭女子大学教授
  • 世界家庭料理家
  • エッセイスト
  • 食育ハーブガーデン協会理事長
  • 日本料理国際化協会理事長

1949年 大阪西区に生まれる。
大阪樟蔭女子大学英米文学科在学中にお見合い結婚、一男一女に恵まれる。家事のかたわら、料理家吉岡昭子氏に師事、家庭料理の基礎を学ぶ。
1987年夫裕氏がニューヨーク五番街で高級和食店をオープン。以後、世界の各地、イタリア、オーストリア、香港、韓国など事業の展開と共に、多くのパーティーコーディネートを携わり研鑽を積む。
海外生活で見聞を広げ、その成果を2001年「グッドギャザリンク フロム ニューヨーク」文化出版社刊 にまとめ、以後 料理家としてテレビ、雑誌、取材などに活躍の場を広げる。
「次世代の子供たちや、地球のために今できること・・食卓の上のフィロソフィー」を理念に、食育活動に力を注ぎ、現在150施設で実施している。
また、ニューヨーク以来のテーマ「日本料理を世界へ広げる」活動も年々充実。海外で「日本料理」のセミナーや講演など人気を呼ぶ。
日本で「フードスタディー」の第一人者であり、これからの地球のために、持続可能な「食」のあり方を提案し続けている。
最近の著書「食卓の上のフィロソフィー」旭屋出版刊 は今、話題の一冊である。
著書「おいしい たのしい グッドギャザリング フロム ニューヨーク」文化出版局刊、「和食のギャザリング」 旭屋書店刊、「I miss you! もう一度会いたい」 など多数

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