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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第45話 末吉孫左衛門吉康
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第45話 末吉孫左衛門吉康すえよしまござえもんよしやす(1570-1617年)

朱印船貿易の立役者
 −大坂の陣で徳川に加勢し幕府要職に

末吉孫左衛門吉康(当初は「吉安」と表記)は、末吉勘兵衛利方の嗣子で末吉家16代当主である。利方の長男・藤四郎利長は先に死亡しており、年齢からみると、長女まきの子、即ち利方の孫にあたる。利方が慶長12年(1607)82歳で死去し、37歳で家督を継いだ。同年4月7、8日、第一次朝鮮通信使が大坂に来て寺沢志摩守政成の屋敷に滞在したとき、大坂城主・豊臣秀頼の代官片桐貞隆(且元の弟)が接待役を務め、吉康は補佐の御馳走役(接待役)を務めたようである。

すでに銀座の頭役に名を連ねていた吉康は、翌1608年に伏見の銀座を京都市中(両替町)に移し、大坂に出張所(大坂銀座)をおいた。吉康は、大坂(現在の中央区本町)に別邸を持ち、所在地は「末吉孫左衛門町」と称された。

慶長19年(1614)、大坂冬の陣では秀頼の誘いを断り徳川方に与したため、豊臣方は軍勢を出して平野を襲い、火を放った。末吉邸と屋敷内にあった後の杭全神社も火災にあった。その直後、吉康は、徳川家康の命により徳川方の軍を京都から平野へ先導した。その後、家康と徳川秀忠(後の第2代将軍)は大坂に出陣し、家康が住吉大社の社家・津守氏宅に、秀忠が平野の全興寺(せんこうじ)にそれぞれ本陣を据えた際、吉康が普請工事をした。

元和元年(1615)、大坂夏の陣においても、平野で秀忠の本陣を普請。陣の直後、吉康と利方の甥・平野藤次郎政次は幕府より代官に任命された。身分は徳川家家臣の武士・旗本で、代々引き継がれた。正保年間(1644~48)頃の記録によると、吉康と政次が管轄した地域は合計3万石、51カ村におよぶ。


朱印船貿易で活躍し自らも渡航

吉康の事績として特筆すべきは、「末吉船」による朱印船貿易である。朱印船制度は徳川家康により慶長6年(1601)に整備・制度化され、吉康は慶長13年(1608)にシャム(タイ王国の旧名)に渡航している。

「大坂関係個人別・年次別朱印船派船数」(『大阪市史』第3巻)によると、慶長9年(1604)から寛永11年(1634)の30年間に大坂から派船された朱印船22船中過半の12船が、吉康と、長男で同じく孫左衛門を名乗った長方(ながかた)(1588~1639)による末吉船であった。ちなみに1604年からの32年間には、大坂を含め全国で356隻の朱印船が派遣されており、末吉のほかには京都の茶屋四郎次郎、角倉了以、長崎の末次平蔵らが有名である。

末吉船は安南(ベトナム北部から中部)、東京(トンキン:ベトナム最北部・現在のハノイ一帯)、シャムなどへ渡航し、輸出品は銅、鉄、刀剣、銅器、漆器、蒔絵、傘、扇子、屏風、樟脳、硫黄など、輸入品は生糸、絹、絹織物,砂糖、薬剤、伽羅、丁子、唐木、珊瑚、陶磁器などであった。

吉康は元和3年(1617)大坂にて死亡、享年48。墓地は利方と同じ高野山蓮花定院にある。その後、子の孫左衛門長方は、摂津・河内の代官となり、大和川決壊による水害の救済にあたって「柏原船」と呼ばれる水運を開いた。

元和3年(1617)の第2次朝鮮通信使、寛永元年(1624)の第3次朝鮮通信使の大坂滞在時は、長方が御馳走役を受け持った。


 末吉船と柏原船

豊臣秀吉は、航行の安全を保証し諸税を免除する朱印状を統制のおよぶ領国内に限っていたが、家康は関ヶ原で勝利をおさめ早速海外貿易の制度を整備した。この朱印船制度に基づき、吉康は7回、長方は5回、計12回、末吉船を海外に派遣した。

末吉船が無事帰国した際には、京都の清水寺や大坂の杭全神社に感謝の絵馬を奉納した。清水寺は平野に縁の深い坂上田村麻呂が創建し、京都は末吉家が運営する水上運送の終着地だったことが理由と推測される。長方が寛永9年(1632)、10年(1633)、11年(1634)に清水寺に奉納した3枚の絵馬は国の重要文化財になっている。

長方は天正16年(1588)に生まれ、29歳で家督を継ぎ摂津・河内の代官を務めたほか、平野および後の杭全神社の復興に尽力した。元和6年(1620)、大和川堤防の決壊で長方が支配する柏原村1400石の農地が全滅したときには、水路をひらいて大坂への航路を確保し、柏原を物資搬送の集結地とした。後に「柏原船」と呼ばれる70隻の船をつくらせ、さらに私財を投じ排水路と堤防を築いて治水に努め荒地を回復させた。寛永15年(1638)、幕府から恩賞米200俵を与えられている。


フィールドノート

 平野町(ひらのまち)

現在の平野町は中央区平野町1丁目から4丁目まであり、東横堀川から西横堀川の間で北は道修町、南は淡路町で船場のど真ん中にある。東横堀川には平野橋が架かり、4丁目には「大阪ガスビル」や「御霊神社」がある。

また「平野」の町名は、秀吉が大坂城下町の建設にあたって平野郷の住民を大坂に移住させ、開発にあたらせたことに由来する。当初「平野町」は現在の天王寺区上汐町の辺りにあったが、昭和56年(1981)の町名変更に伴い消滅。現在の平野町は、『大阪の地名由来辞典』には「平野町に隣接する御霊神社の祭神が百済氏の出身である早良親王(さわらしんのう)とされ、その百済氏を祀る神社として京都平野神社があることから平野町と名づけけられたとする説がある」と紹介している。一方、御霊神社の宮司は「当社は鎌倉に由来し、京都平野神社とは関係がなく、平野町は〝平野郷〟に由来する町名ではないか」と説明された。


 末吉橋

東横堀川が長堀通と接する場所に「末吉橋」がある。孫左衛門吉康が通行人の便を図って架橋したとされ、江戸時代には「孫左衛門橋」と呼ばれた。西のたもとには吉康の別邸があった。後にコンクリート製のアーチ橋となり現在にいたっている。また、近隣に「大阪末吉橋郵便局」がある。


 大阪銀座跡碑

大阪市中央区高麗橋東詰から東へ約100mのところにある。生野銀山、石見銀山等から鉱石を仕入れ京都へ搬送する中継所であり、古くなった貨幣の交換も行った。ちなみに京都には京都銀座跡碑と金座跡碑(京都市伏見区)がある。


 含翆堂

平野七名家の一人である土橋友直(ともなお)ら5人の同志により享保2年(1717)創設された大坂初の民間学問所。「含翆堂跡」の碑は大阪市平野区平野宮町2丁目9-22に立っている。


 平野紡績

江戸時代中期以後、平野郷町は綿作と繰綿により商業的農業を展開し、かつ綿の集散地として綿問屋が栄え消長を遂げながら明治以後の紡績業勃興の地盤をつくった。

明治20年(1887)6月7日、平野郷の末吉家第14代・末吉勘四郎と末吉平三郎ほか9名が発起人となり、平野紡績会社を発足させた。資本金25万円。初代社長は勘四郎。特筆すべきは、この会社は紡績技術を研究するため菊池恭三を英国に留学させ、菊池の技術導入により日本の近代紡績業の基礎を固めたことである。ちなみに明治22年(1889)、菊池は、尼崎紡績設立にあたって工場建設や機械据え付け、生産開始の技師(顧問)として迎えられた。同社は後に平野紡績を吸収して大日本紡績となり、菊池はその第4代社長に就任している。


 末吉家

平野区平野上町の本宅は1707年頃の建築。一部改造はされているがほぼ原形をとどめる堂々たる屋敷で、奥座敷は千利休が好んだ京都表千家の「残月亭」と同じ材料をそっくり模したもの。大正天皇が大日本紡績平野工場に行幸されたときこの座敷で休息されたという。『大日本紡績社史』によれば、昭和4年(1929)6月6日には、昭和天皇が平野工場へ行幸されている。

現末吉家の当主は、勘兵衛利方の次男五郎兵衛道長の末裔、17代末吉勘四郎重久氏。杭全神社の責任役員を務め、ロータリークラブの会員とともに現存する「平野環濠」約170mの清掃奉仕をしている。末吉家の菩提寺は吉康の建立になる「真宗仏光寺派光源寺」。


 末吉文書

東京大学史料編纂所は文化庁の要請を受け、西末吉家に伝わる「末吉文書」の整理・研究を行い、平成14年(2002)2月『東京大学史料編纂所架蔵写真帳 末吉家史料目録』を刊行したが、末吉家の私的な文書が多く含まれているため一般への公開は制限されている。資料の中には昭和55年(1980)国の重要文化財に指定された貴重な資料(アジア航海図、異国船朱印帳、安南国答賜物目録、地図国名訳、末吉家系図)が含まれる。


 朝鮮通信使

江戸時代最大の外交行事であるが、室町期に3回、秀吉の時代に2回先駆けとなる使節が来ている。江戸期には12回来日し、一行は使節団450から500名、対馬藩からの案内役・護衛が1500名の約2000名。大坂までは対馬経由の海路、大坂から江戸までは陸路で、所要日数は約20日、接遇に100万両かかったとされる。道中、沿道の各大名が接待の御馳走役を受け持ったが、大坂では北御堂に数日滞在し、末吉利方、孫左衛門らが接待役の奉行を補佐して御馳走役を引き受けたようである。利方は秀吉の時代の2回、孫左衛門吉康は江戸期第1次〔慶長12年(1607)〕を受け持った。孫左衛門長方は江戸期第2次〔元和3年(1617)〕と第3次〔寛永元年(1624)〕を受け持ったことが朝鮮側の資料にも記載されている。


2017年4月
(2017年11月改訂)

江並一嘉



≪参考文献≫
 ・吉野町史編集委員会『吉野町史』
 ・大阪市史編纂所『大阪市史』第3巻 
 ・杭全神社『杭全神社宝物撰』(2010)
 ・大日本紡績『大日本紡績株式会社五十年紀要』(1941)
 ・堀田暁生編『大阪の地名由来辞典2010』(東京堂)
 ・北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(岩波新書・2012)
 ・三宅英利『近世の日本と朝鮮』(講談社学術文庫)
 ・辛基秀『朝鮮通信使往来-江戸時代260年の平和と友好』(明石書店・2002)
 ・中村栄孝『日鮮関係史の研究(下巻)』
    〔朝鮮の日本通信使と大阪〕(吉川弘文館)


≪施設情報≫
全興寺
大阪市平野区平野本町4-12-21
電  話:06-6791-2680
アクセス:地下鉄谷町線「平野駅」より徒歩12分

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