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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第46話 夕霧太夫ゆうぎりたゆう(1652?-1678年)

西鶴が絶賛したスーパースター

大坂・新町の夕霧太夫は、京・島原の吉野太夫、江戸・吉原の高尾太夫と並んで一世の名妓と評判を取った。没後、名声はさらに高まり、浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。夕霧が客と遊んだ料亭(揚屋という)「吉田屋」では、延宝8年(1680)の三回忌から夕霧忌が始まり、節目ごとに追善供養が行われ、昭和12年(1937)の二百六十回忌まで続いた。

本名は「てる」、京都の嵯峨中院に生まれた。父は林光政といい、林家は代々嵯峨大覚寺出入りの宮大工だったらしい。幼少のころ、京の遊郭・島原に身売り奉公に出され、置屋(遊女屋ともいう)「扇屋」お抱えの遊女となった。「扇屋」は寛文12年(1672)、夕霧らを連れて発展著しい大坂の遊郭・新町へ引っ越した。京ですでに名の高かった夕霧が大坂へ下るというので、大坂中の評判となり、大坂の人は今日か明日かと淀川べりで船を待った。「京女郎の下る」という歌まで流行ったと伝わる。

京、大坂の遊女は太夫を頂点に天神、鹿子位、端女郎とランクがあった。太夫は絶世の美女で傾城(けいせい)と呼ばれ、容姿だけでなく茶道、香合、立花(生け花)、書道、和歌、俳諧、音曲、絃楽、遊戯など万芸を会得し、『八代集(古今和歌集から新古今和歌集までの勅撰和歌集)』『源氏物語』『竹取物語』などに通暁して漢文も読めるのが望ましかったという。太夫は郭が生んだ最高の芸術品。島原の太夫には朝廷から「正五位」の官位が贈られ、島原は公家貴族、新町は大分限者、大店の主人が遊ぶ文化サロンだった。

夕霧は新町に移って以前にも増して人気が高まった。井原西鶴が夕霧の死から4年後に刊行した『好色一代男』の巻6「身は火にくばるとも」に夕霧の描写がある。主人公の世之介ら当代の伊達男5人が太夫の品評会をする。

「ほっそりとして、姿形はしとやかで肉付きも程よく、まなざしもぬかりがない。声もよく肌は雪のように白く、床上手で稀代の色好みで客を恍惚とさせるところがあり、酒もいけるし、唄も上手で琴・三味線はいわずもがな、一座の捌きにそつがなく、文章は上品で長文の書き手、物をねだらず、人には惜しみもなく物をやり、情が深くて恋の駆引きの名人。『これは誰のことだ』と言うと、五人が一度に『日本広しといえども、夕霧をおいてほかにない』と口を揃えてほめたてた」と描いた。

さらに西鶴は「命を捨てるほどに思い詰めた者には道理を言い聞かせて遠ざかり、のぼせ上がった客には義理を説いて見放し、体面を重んじる人には世間体をはばかるように意見し、女房のある男には悋気の気持を合点させる。魚屋や八百屋にも手を握らせ、愛想良く言葉をかける」と書き、理知的な夕霧に賛辞を送った。

夕霧は大坂に移ってわずか6年、貴僧高僧の祈祷や名医の治療も効なく、延宝6年(1678)1月6日に亡くなった。


豪華絢爛、不夜城に遊女1200人

島原、新町、吉原の3大遊郭は豊臣秀吉の桃山時代から徳川家康の江戸時代初期にかけて約30年の間に成立した。秀吉の大坂城築城にともなって多くの大名が工事に携わり、大坂に工事関係者があふれ、様々な娯楽施設ができた。大坂夏の陣のあと、加藤清正の家臣・木村又蔵の曽孫といわれる木村又次郎が徳川幕府に遊郭街の建設を申し出て官許が得られ、新町の整備が始まった。

寛永6年(1629)ごろから人家のなかった西横堀川の西の湿地帯に遊里が集められ、「新町」として周囲に竹垣(後には板塀)と溝渠が巡らされ、遊郭ができあがった。慶安年間(1648~1652)には揚屋が12軒、天神茶屋が65軒、鹿子位茶屋が74軒と盛況を呈した。夕霧太夫が扇屋から出向いた揚屋「吉田屋」は延宝年間(1673~1681)、間口約22m、奥行き108mの広さを誇った。建築物の豪華さは島原、吉原をはるかに抜き、19世紀初めに江戸から新町遊郭を訪ねた滝沢馬琴は「揚屋の広く奇麗なること大坂にしくものなし」と書いている。

太夫は客から指名が入ると、置屋を出て「禿(かむろ)」という少女を先頭に「引舟」(世話役)、道中傘を差し掛ける「傘持」に続き、ゆったりと「内八文字」に歩を進め、客の待つ揚屋に向かう。「太夫道中」と呼ばれ、遊郭の名物ショーとなった。営業時間は当初、昼間だけだったが、延宝4年(1676)から夜見世が許可された。酉の刻(午後6時~8時)に顔見世があり、午後10時に限(きり)の太鼓(一番太鼓)が鳴ると、泊まり客以外は追い出され大門が閉まった。しかし、午前2時には三番太鼓が打たれて大門が開き、客が入るという不夜城の観を呈した。

延宝7年(1679)の記録によると、新町の太夫は27人、天神69人、鹿子位89人、端女郎1017人で遊女は計1202人に上り、禿(かむろ)550人、やり手629人とある。夕霧太夫だけでなく、小太夫、大和太夫、越中太夫、吾妻太夫、狭衣太夫ら名妓が輩出した。元禄時代には新町の遊女の人数は島原の2.5倍を数え、商都大坂の繁盛ぶりを示すシンボルになった。

揚げ代は、延宝年間で、太夫が43匁(7匁を約1万円で換算して6万円強)、天神は28匁(4万円強)、鹿子位16匁(2万円強)。ほかに揚屋への心付け、禿や引舟、揚屋に呼ばれる芸者衆へのチップ、飲食代などがかかり、太夫を揚げると、揚げ代の数倍から10倍は必要だった。

一方、遊女の生活は厳しい。幕府は人身売買を禁じており、10年の年季奉公という形だが、外出などの自由はほとんどなかった。衣装代や身の回り品などは自前で、五節句などの紋日に客が来なければ自己負担、衛生状態も悪く病死する者も多く、「足抜け」は容易ではなかった。また、身請けには、桁違いの費用がいった。淀屋の闕所を扱った近松門左衛門の『淀鯉出世滝徳』の吾妻太夫の身請け金は約1億円(1両を約10万円で換算)、借金は2億円あったという。


上方文化を育んだ新町遊郭

道頓堀の歌舞伎芝居荒木与次兵衛座は、夕霧が亡くなった翌月の延宝6年(1678)2月、早々と「夕霧名残の正月」という追善興行を打った。初代坂田藤十郎が恋仲の若旦那・伊左衛門役を優美で写実的で品良く演じ、上方の人々の評判を集め、当たり役となった。同年、4回繰り返し上演され、さらに続編が一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌と続いた。

「夕霧名残の正月」のほかにも、「夕霧三番続」など名妓・夕霧の面影を舞台上に再現し、伊左衛門を演じる藤十郎の人気は高まった。夕霧劇の度重なる上演で、夕霧は無類の美貌で、情深く、諸芸に秀でた理想的な遊女として美化されていった。

近松門左衛門は夕霧三十五年忌、藤十郎が亡くなって3年目の正徳2年(1712)、夕霧劇の集大成とも言える浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」を仕上げ、竹本座で上演した。物語は新町の揚屋「吉田屋」の正月から始まる。もらい子に出された我が子をめぐって劇は展開し、最後は病の床についている夕霧が遊女という身分を超越し、人の妻として子の母としてよみがえる姿を描いた。文化5年(1808)に江戸の中村座が「吉田屋」のくだりを翻案し、歌舞伎『廓文章』として上演、江戸の荒事に対して上方の和事の代表的な作品となった。


フィールドノート

 失われた花街・再現

平成21年(2009)12月、大阪市西区北堀江の大阪市立中央図書館で「なつかしの昭和・新町展」が開かれた。会場には昭和10年代の新町の立体模型が展示され、約300枚の写真と吉田屋の太夫の箱枕など貴重な花街の資料約100点が並んだ。10日余の会期中に入場者は9千人に達し、大阪大空襲でなくなった戦前の新町の賑わいを見入った。

企画したのは平成15年(2003)から堀江の歴史の発掘を進めてきた特定非営利活動法人「なにわ堀江1500」(水知悠之介代表理事)。水知さんは堀江に本社を置く栗本鐵工所の元役員。堀江は昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で焼け野原になっていた。水知さんは古い資料と書物をあさり、町を歩いて痕跡をつなげ『大阪堀江今昔』を書き上げた。その反響もあって『戦前堀江・住宅地図』の作成に取り組むことになり、戦前の証言を集め、平成20年(2008)10月に「なつかしの昭和・堀江展」を開いた。これがきっかけで堀江の北の「新町も」となり、「新町展」開催となった。

「なつかしの昭和・新町展」の会期中、1千枚を超える写真のスライドショーや新町遊郭からの出征映像などが映写された。町歩きやシンポジウムも開かれ、戦前の新町を知る西六国民学校の卒業生らが集まった。水知さんは「夕霧は西鶴、芭蕉、近松、坂田藤十郎と同時代人。また、和事を継承する初代中村鴈治郎は、新町の扇屋で生まれた。大阪の文化芸能は新町から始まった。いまも歌舞伎に文楽に息づいている」と話す。


 天王寺と嵯峨野に夕霧の墓碑

大阪市天王寺区下寺町の浄国寺に夕霧の墓がある。浄国寺は「扇屋」林家の菩提寺。夕霧の墓碑は円筒形で、正面に「花岳芳春信女」、背面に「延寳6年午正月6日歿、扇屋四郎兵衛」と夕霧没年と施主の名があり、側面には摂津伊丹の俳人、上島鬼貫(おにつら1661~1738)の「此塚は柳なくてもあはれ也」の句が刻まれている。

平成28年(2016)11月に檀家らが資金を出し合って夕霧太夫の墓碑の背後を整地して朱傘を設置した。平成29年(2017)4月2日には、夕霧没後三百五十回忌を10年後に控え、「花祭り夕霧太夫行列」が地元の協力で初めて催された。檀家の娘さんが太夫に扮して禿や傘持ら15人ほどが練り歩き、松屋町筋は華やいだ。今後も4月第1日曜日の「花祭り」に太夫行列をしたいという。

もう一つ夕霧の墓は生地、京都の嵯峨野にある。大覚寺塔頭の覚勝院の墓地にあり、覚勝院には夕霧太夫の像も伝わる。

「井筒八ッ橋」グループオーナーの六代津田佐兵衛さんが中心となり、昭和35年(1960)に「夕霧の会」が結成された。夕霧の法要が墓地の隣の清涼寺で始まり、吉井勇の歌碑「いまもなほ なつかしと思ふ夕霧の 墓にまうでし 帰り路の雨」も建つ。昭和52年(1977)からは嵐山保勝会の要請で「嵐山もみじ祭」に合わせ、「夕霧祭」となり、毎年秋、島原「輪違屋」の太夫が清涼寺で舞を奉納し、本堂から三門まで太夫道中を披露し賑わう。

津田さんは昭和55年(1980)、初代中村鴈治郎の末娘で女優の中村芳子さん(1920~1987)から扇屋ゆかりの夕霧太夫襲名の相談を受け、芳子さんの二代目襲名を応援した。四条・南座の北側の「井筒八ッ橋本舗」北座ビル5階に「ぎおん思いで博物館」を開き、夕霧の手紙や衣装、花街で遊んだ吉井勇や谷崎潤一郎の遺作や遺品を展示している。



2017年6月
(2017年11月改訂)

宇澤俊記



≪参考文献≫
 ・暉峻康隆、東明雅校注訳『井原西鶴集①』
           (小学館「新編日本古典文学全集66」1996年4月)
 ・鳥越文蔵、山根為雄、長友千代治、大橋正叔、阪口弘之校注訳『近松門左衛門集①』
           (小学館『新編日本古典文学全集74』1997年3月)
 ・堀江宏樹『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』(幻冬舎新書 2015年9月)
 ・水知悠之介『近代大阪と堀江・新町』(新風書房 2011年10月)
 ・鳥居フミ子『近松の女性たち』(武蔵野書院1999年7月)
 ・小野武雄『吉原と島原』(講談社学術文庫 2002年8月)
 ・高橋利樹『京の花街「輪違屋」物語』(PHP新書 2007年8月)
 ・新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史「近世前期の文化」』(大阪市 1989年3月)



≪取材協力≫
 六代津田佐兵衛氏、水知悠之介氏



≪施設情報≫
○ 浄国寺(夕霧の墓地)
   大阪市天王寺区下寺町1-2-36
   アクセス:地下鉄谷町線「谷町9丁目駅」徒歩約9分
       地下鉄千日前線「日本橋駅」徒歩約9分

○ 新町橋の碑
   大阪市西区新町1丁目
   アクセス:地下鉄「四ツ橋駅」北へ徒歩約5分

○ 新町九軒桜堤の跡碑(新町北公園内)
   左側の碑は『(だま)されて来て(誠)なり はつ桜』。
   江戸中期の俳人加賀千代女の句碑。上部「( )」の部分が欠けている。
   大阪市西区新町1丁目
   アクセス:地下鉄「四ツ橋駅」北へ徒歩約8分

○ 初世中村鴈治郎生誕の地碑
   大阪市西区新町1丁目17
   アクセス:地下鉄「四ツ橋駅」北へ徒歩約8分

○ 清涼寺(嵯峨釈迦堂)
   毎年11月に夕霧祭が催され、追善法要と島原太夫による舞、
   太夫道中が行われる。
   境内には吉井勇と二代目夕霧太夫を名乗った中村芳子の歌碑がある。
   京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
   アクセス:JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車 北西0.5km
       京都市バス京都駅より28番嵐山大覚寺行「嵯峨釈迦堂前」下車

○ ぎおん思いで博物館
   京都市東山区川端通四条上ル北座
   アクセス:京阪電車「祇園四条駅」徒歩約2分

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