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第55話 徳川家光とくがわいえみつ(1604 – 1651年)

幕藩体制を確立した3代将軍

徳川家光は、いわずと知れた徳川3代将軍である。慶長9年(1604)7月17日、父徳川秀忠、母お江(お市の方の娘)の次男として江戸城西の丸で生まれた。名は祖父家康と同じ竹千代。秀忠には長男長丸(ちょうまる)がいたが、早世していたため、彼が世子とされた。乳母は春日局すなわち明智光秀の家臣斎藤利三の娘の福である。

歴史小説家の八切止夫(やぎりとめお:1914〜1987)は、将軍家の蔵書館である紅葉山文庫所蔵の『松のさかえ』の「神君家康公御遺文」〔慶長19年(1614)2月25日付〕に、「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也、左大臣」との記載があることを根拠に、乳母の春日局が家光の生母ではないかとの説を立てている。さらに、家康が実父ではないかとの説もある。家光の家康のへの尊崇ぶりや、彼が「二世権現、二世将軍」と書いた紙を入れた御守り袋を常時持っていたことを根拠としている。

幼少時の家光は病弱でしばしば病床に臥し、吃音があったそうである。また、容姿も端麗とはいえなかったそうである。病弱の家光に医師たちが意見すると家光は激しく怒り、医師たちを処罰しそうになったこともあったそうで、歴史学者の山本博文氏は、家光は不安神経症ではなかったかとしている。

慶長11年(1606)に弟(後の忠長)が誕生し、秀忠は忠長を寵愛した。そのため竹千代廃嫡の危機を感じた春日局は、家康に事情を訴え出た。その結果、家康により家光の世継ぎが決定されたとのことである。ただこれは家光の死後の巷説ともいわれている。これらのエピソードも、前述の家康実父説を匂わせないだろうか。

元和2年(1616)に家康が死去した。その後、竹千代は元和6年(1620)に元服し、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)により、家光と改名した。「家光」の諱の「家」は明らかに家康の「家」であり、父秀忠には縁がなく、このことも家康実父説を匂わせる。家光以後、徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱となった。


朝廷への圧力と鎖国政策

元和9年(1623)3月5日、家光は朝廷から将軍宣下を受けた。また、同じ年の8月に摂家鷹司(たかつかさ)家から鷹司孝子(たかこ)が輿入れした。

寛永9年(1632)1月に父秀忠が死去すると、家光はまるで重石がとれたごとく行動を開始した。旗本を中心とする直轄軍を編成し、将軍を最高権力者とするその後の幕藩体制の基本を確立。武家諸法度を改訂し、参勤交代を開始した。寛永11年(1634)には、30万人を引き連れて上洛し、朝廷に対し圧力を加える一方、紫衣(しえ)事件以来冷え込んでいた朝廷との関係について後水尾天皇の院政を認めるなどして関係の修復を試みた。

対外的には、対外貿易の管理と統制を強化し、寛永12年(1635)には日本人の東南アジア方面への往来を禁止した。ポルトガル人を長崎の出島に隔離し、その後ここからも追放している。そして寛永18年(1641)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制を完成させたのである。また、朱印船貿易を廃止したのも家光であり、鎖国体制をとった。なお、大坂城を完成させたのも家光である〔寛永9年(1632)〕。


残忍極まるキリシタン弾圧

家光は、キリシタンに対し苛烈な弾圧をしたことでも知られる。寛永元年(1624)4月27日には男5人・女7人のキリシタンを火刑に処し、12月1日には子供を含む13人を水磔(すいたく:人を逆さ吊りにし、潮が満ちて溺死させる刑)に処したり、棄教した家臣中川某が信仰を再開したため鋸挽きにしたといわれている。寛永13年(1636)には、城門の修理工事を視察した際、城外の93人の物乞いがキリシタンであることを知るとただちに捕らえ、密室に追い込んで餓死させている。天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンも、穴釣りの刑(地面に穴を掘って逆さ吊りにしておく刑)により寛永10年(1633)に処刑されている。そして寛永14年(1637)に島原の乱が起きたが、これを鎮圧した。


強権的政策で幕藩体制を安定

家康をこよなく尊敬する家光は、それまでは質素な堂があるくらいの日光山に56万8千両と銀100貫、米1千石(現在の価値で400億円)を投じて日光東照宮を建設している。こうした家光の個性的かつ強権的政策により、幕府の基盤が安定してきたところへ、寛永19年(1642)に「寛永の大飢饉」が発生した。未曾有の災害であり、これにより諸大名や百姓は大きな打撃を受けた。家光は体制の立て直しを迫られ「田畑永代売買禁止令」などの発布により対処した。

これら一連の政策により、家光は幕藩体制の完成者と評価されている。しかし、一方でそれらは重臣によるものであり、家光自身の能力ではなかったとの説もある。小説家の海音寺潮五郎(1901〜1977)は、「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった」としてその能力を否定しており、賛同者も多い。

慶安3年(1650)、家光は病に臥したが、翌年4月に江戸城内で死去した。享年48。この時、殉死が相次いだことでも知られる。


フィールドノート

消えた80貫の銀

家光と大阪は関係があるのかと言われれば、実はある。その痕跡が、現在の中央区釣鐘町に残っている。

家光は寛永11年(1634)に大坂城に入った。この時、大坂三郷の惣年寄たちは、現在の旭区今市まで迎え出て祝賀の意を表した。これにたいそう喜んだ家光は、大坂三郷の地子銀(じしぎん)を永久に免除することを約束した。当時の価値で毎年銀約180貫という固定資産税が免除されたのである。これに感謝した大坂の町人は、家光へのお礼として釣鐘を鋳造した。1日に12回鳴らされた鐘の音は現在の天満橋から梅田あたりまで聞こえたといわれ、大坂の時報の役割を果たしたのである。

この釣鐘は近松門左衛門の浄瑠璃にも登場する。『曽根崎心中』の「暁の鐘」とは、この鐘のことである。「あれ数ふれば暁の 七つの時が六つなりて 残る一つが今生の 鐘の響きの聞納め」。死へと向かう二人に夜明けを告げる七つの鐘の音が聞こえたのである。


実はその鐘が釣鐘町にある「大坂町中時報鐘」である。地名の釣鐘町もこの鐘に由来する。ただ、この鐘には、その後紆余曲折があった。

釣鐘はこれまで4度の火災に遭ったが、いずれも生き延びてきた。明治3年(1870)には「時の鐘」が廃止され、釣鐘は付近の長光寺に預けられたが、その後も、釣鐘は幾度となく設置場所を移動した。それを地元の人の努力により保存会が組織され、現会長の梅本憲史氏が中心となり現左の姿を残すことができたのである。鐘は、高さ1.91m、直径1.12m。今も毎朝8時と正午、日の入りの3回、自動で突かれている。

ところで、家光は町人達からの鐘の献上に喜んだ。そこで家光はこれに対しさらに銀80貫を寄付したのである。『釣鐘銘文并由来書』によると、家光からもらった「銀80貫(300kg)は鐘に鋳込んだ」とされている。ところが、最近になり大阪府教育委員会が鐘の成分を分析してみたところ、銀の含有率はわずか0.13%だった。つまり80貫近い銀は入っていなかったことになる。この銀はどこに消えたのであろうか。当時の大坂町人が、実は豊臣家の敵徳川の3代目家光を騙したことになるのだろうか。

2017年8月

(2017年11月改訂)

和田 誠一郎



参考文献
・大阪市中央区役所『中央区史跡文化事典』
・梅本憲史『時の鐘』(未刊行)



≪施設情報≫
○ 大坂町中時報鐘(釣鐘屋敷跡)
   大阪市中央区釣鐘町2-2-11
   アクセス:地下鉄谷町線「天満橋駅」より南西へ約300m

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