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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第71話 渡辺綱(源綱)
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第71話 渡辺綱(源綱)わたなべのつな (みなもとのつな) (953 〜 1025年)

天満橋周辺を拠点に強大な武士団を形成

源氏物語の主人公は光源氏である。その光源氏に実はモデルがいると言われているが、その人物とは源融(みなもとのとおる)とされており、その子孫の武将が渡辺綱である。

源融の子孫に源仕(みなもとのつこう)がいるが、彼は武蔵守となって武蔵国足立郡箕田郷(埼玉県鴻巣市)に下向し同地に土着した。綱はこの地で仕の子源宛(みなもとのあつる)の子として天暦7年(953)に生まれた。ただ、生誕地については、東京都港区「綱坂」との説もある。綱は祖先である源融と同様、美男子として有名であったそうである。

綱はその後、清和源氏の3代目源満仲の女婿である源敦の養子となった。綱はその後摂津国西成郡渡辺に移住し、その地の地名である渡辺を姓として名乗った。綱は摂津源氏の源頼光に仕え、やがて頼光四天王の筆頭となり世に知られるようになったのである。ちなみに頼光四天王には、綱の他にあの金太郎といわれる坂田金時がいた。その他の二人は碓井貞光、卜部季武の合計4人である。

その綱については、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』『御伽草子』などに多くのエピソードが残されているが、何と言っても大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治が有名であろう。

平安時代中頃、酒呑童子などの怪物がいたが、酒呑童子は後の大江山を拠点として多くの鬼を従え、しばしば京都に出没し、若い貴族の姫君を誘拐して側に置いたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりの悪行に帝から成敗の命が頼光に下され、四天王は大江山に向かった。頼光らは、酒呑童子に酒や肉を食べさせ安心させた後、神よりもらった神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)という毒酒を酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押えて寝首を掻き退治した、というものである。

また、その後綱は、あるとき若い美女が道に困っていたため馬に乗せてやった。そして京の一条戻橋まで来ると、女は突然鬼の茨木童子の姿になって綱の髪の毛を掴み、空中に飛び上がって愛宕山に連れ去ろうとした。これに対し綱は名刀・髭切(ひげきり)で茨木童子の腕を切り取り難を逃れたとの話もある。

ちなみに、頼光はこの事件を安倍晴明に占わせたところ大凶だったそうである。綱は万寿2年(1025)に死去した。享年72。死因は不明とのこと。

綱の妻については不明であり、子についても後述の久(ひさし)以外は詳しいことは不明である。兵庫県川西市の小童寺に綱の霊廟がある。

ところで、綱と大阪の関係で特筆すべきは、「渡辺党」であろう。渡辺綱の後裔は渡辺津(現在の天満橋から天神橋のあたり)、すなわち摂津国の中枢武士団として発展し、渡辺の地にちなみ渡辺党と称するようになった。そして、渡辺津の水運業者や港湾業者を渡辺惣官あるいは検非違使として統轄するようになった。さらに、渡辺党は水運にも関与するようになり、瀬戸内海に進出し水軍の棟梁的存在になっていった。

日本の苗字には全国的に渡辺姓が多い。その理由は、全国各地に渡辺党の武士が散らばったからと言われている。なお、九州の水軍松浦党も祖は綱の曾孫渡辺(松浦)久である。つまりは渡辺党である。久は頼光が肥前守となった際、綱を松浦郡に下向させたが、その際綱はその地の子を貰い、その子が久である。

以上のとおり、大阪の瀬戸内そして九州の水軍のルーツは実は大阪の「渡辺」の地にあったことになる。まさに水都大阪を象徴するのが渡辺氏なのである。


フィールドノート

露天神社

梅田界隈には、さすがに渡辺氏ゆかりの地は多い。その梅田の中心にあるのが露天神社である。近松門左衛門の『曽根崎心中』で有名な「お初天神」として知られ、大阪人にとって馴染み深い神社である。

創建は大宝元年(701)頃であり、大己貴大神(おおなむちおおかみ)、少彦名大神(すくなびこなおおかみ)、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)、菅原道真の5柱の神を祀っているといわれている。現在の吉沢壮一郎宮司によると、この露天神社の神主は代々渡辺党を引き継ぐ渡辺氏であったとのこと。ビルの林立するこの界隈は、はるか平安の昔から渡辺家ゆかりの武勇伝が語り継がれてきた伝承とロマンの舞台なのである。

お初天神は毎日人通りが絶えることはない。皆何を祈っているのだろうか。


坐摩(いかすり)神社

大阪市中央区にあるのが坐摩神社である。近所には大企業のビルが林立し、まさに大阪市のど真ん中と言っていいだろう。坐摩神社の住所地は、大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号である。つまり「渡辺」の地にあるのであるが、この「渡辺」の地には坐摩神社しかない。つまり、坐摩神社のためだけに渡辺の地名表示がある。

この神社の創建は約1800年前になるという。神功皇后が新羅からの帰途、わが子(応神天皇)の安産を祈願したのがはじまりとされる。祭神は「坐摩神(いかすりのかみ)」であり、阿須波神(あすはのかみ)ほか4神の総称とのこと。その阿須波神に祈願した防人が「庭中の阿須波の神に木柴さし 吾は斎はむ帰り来までに(庭の中に祀られた阿須波神に木柴を捧げ、斎戒してあなたの帰りを待ちます)」と『万葉集』にうたっている。この阿須波神が祀られたのが、坐摩神社の庭とのこと。この歌にちなんで、坐摩神社は安産や住まい、旅の安全などの守り神とされている。

つまり、坐摩神社は当初は今の天満橋から天神橋にかけ渡辺津と呼ばれていたところにあった。つまりは、渡辺党の本拠地である。平安時代の『延喜式』にも「摂津西成郡大社」と記載があり、「摂津一の宮」である。これが16世紀末に豊臣秀吉が大坂城を築城した折、現在地に移された。現在もその天満橋付近に坐摩神社のお旅所がある。かつての渡辺時代の名残であろう。

現在の宮司は渡邉紘一氏で、坐摩神社の宮司もかつての露天神社と同様、代々渡辺姓を名乗ってきた。


生國魂(いくくにたま)神社

「いくたまさん」の愛称で知られる日本有数の古社である。生國魂神社は、神武天皇(初代天皇)の東征の際、天皇が摂津国石山碕(現在の大阪城付近)に生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を鎮祭したのが創建といわれている。生島神は万物を生み育て生命力を与える神であり、足島神は国中を満ち足らしめる神のことである。当社は日本最古の神社であり、日本国そのものを守護するといわれている。

ところで、当社も坐摩神社同様、創建時は現在の大阪城あたり、すなわち渡辺津にあった。坐摩神社は生國魂神社の後の創建とされており、生國魂神社とは同根とも言えるのではないだろうか。

生國魂神社には多くの摂社末社がある。住吉神社、天満宮、鴨野神社、さらには浄瑠璃神社、城方向八幡宮や鞴(ふいご)神社等である。これら摂社末社をゆっくり一巡してみると、気持ちもゆったりと洗われるのが不思議である。


渡辺橋

大阪市北区の中之島には、大川を渡る四つ橋筋の橋に渡辺橋がある。橋の名は渡辺津にちなんで江戸時代につけられた。つまりは「渡辺」を今に残す貴重な橋名といえよう。

この橋は、江戸時代に架けられたが、明治18年(1885)に洪水で流失。同21年(1888)にイギリスから輸入された鉄橋に架け替えられた。その後、市電建設〔同41年(1908)〕と都市計画〔昭和2年(1927)〕に伴い架け替えられた。現在の橋は、地下鉄四つ橋線の建設と高潮対策により同41年(1966)に架け替えられている。かつて渡辺津のあった場所からは若干下流に当たるが、由緒ある往時をしのべる橋の名であり是非大切にしたい。


渡辺綱・駒つなぎの樟(くすのき)

大阪市都島区に桜の名所として有名な櫻宮(さくらのみや)(櫻宮神社)がある。その末社に産土(うぶすな)神社があり、ここに「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれる樹齢900年との大樹があった。

櫻宮(神社)の深瀬正尋宮司によると、この周辺はかつて善源寺荘と呼ばれ、渡辺綱が仕えた源頼光の支配する荘園だった。源頼光はこの地に一族の武神「八幡大神(はちまんおおかみ)」を祀り、産土神社の社を創建する際に樟を植えた。この荘園の管理は頼光から綱が任されたが、綱が産土神社に詣でるときは、いつも馬をその樟木に繋いだとのこと。そのため、この樟木は「渡辺綱・駒つなぎの樟」呼ばれるようになったとのことである。

ところが、第2次世界大戦により樟木は無残にも米軍に爆撃され、この結果樟木は枯れてしまった。しかし、朽木になったとはいえ今でも貫禄充分である。深瀬宮司は、この樟木が戦争の記憶遺産になればと話している。この貫禄充分の樟木をじっと眺めているとその存在感に圧倒されつつ、戦争の恐ろしさがじーんと伝わって来る。ちなみに、この樟木は大阪市の天然記念物第1号であった。


渡辺邸跡

大阪市淀川区西三国にかつて渡辺邸があった。ここは渡辺綱の子孫と伝えられる渡辺久良左衛門源忠綱〔天正10年(1582)没〕の屋敷跡と伝えられていた。この時代に創建されたとすると、つまりは大坂城落城より以前からあったことになる。この歴史的財産である渡辺邸を保存すべく、平成24年(2012)に保存会が立ち上げられたが、諸事情から残念ながら同25年(2013)夏に解体されたとのことである。



2019年2月

和田誠一郎



≪参考文献≫
 ・乾克己 他編『日本伝奇伝説大事典』(角川書店)
 ・楠山正雄 編著『羅生門の鬼』(小峰書店)
 ・堀井良殷『なにわ大阪 興亡記︱だから元気を出さないと︱』(PHP文庫)
 ・『グランパ』(NPO法人大阪シニアネットVol.20新春号)


≪施設情報≫
○ 露天神社
   大阪市北区曽根崎2丁目5番4号
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「梅田駅」より徒歩約5〜10分

○ 小童寺
   兵庫県川西市西畦野1–7–1
   アクセス:能勢電鉄「畦野駅」より北西へ約1km

○ 坐摩神社
   大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「本町駅」15番出口より西へ徒歩約3分

○ 生國魂神社
   大阪市天王寺区生玉町13番9号
   アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町9丁目駅」3号出口より徒歩約9分

○ 渡辺橋
   大阪市北区中之島3丁目

○ 渡辺綱・駒つなぎの樟
   大阪市都島区中野町1丁目12番32号

○ 渡辺邸跡
   大阪市淀川区西三国2–17

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