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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第11話 近松門左衛門
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第11話 近松門左衛門ちかまつもんざえもん(1653年-1724年)

悲恋物語で人々の心をとらえ続ける名作家

江戸時代に活躍した浄瑠璃作家。松尾芭蕉、井原西鶴とならぶ元禄の三大作家とされ、後に「日本のシェークスピア」とも評される。

本名は杉森信盛(すぎもりのぶもり)。福井藩の藩医の次男として生まれるが、父・信義が藩を辞したことで京都に移り住む。その後、近江の三井寺の末寺、近松寺で出家を目指すが断念。古浄瑠璃の名太夫・宇治加賀掾(うじかがのじょう)の宇治座で、浄瑠璃作者としての修行を積む。天和3年(1683)、曽我兄弟の仇討ちに新解釈を取り入れた『世継曽我(よつぎそが)』が大ヒットし、その地位を確立する。

元禄期(1688〜1703)は江戸時代の文化が絢爛たるエネルギーを放った時代で、語り、三味線、人形による「人形浄瑠璃」も大きく開花した。耳で楽しむ浄瑠璃を、目でも楽しめる芸術へと発展させたのが大阪の地。近松は、義太夫節の創始者である竹本義太夫が道頓堀に竹本座を設立したのを機に、ヒット作『世継曽我』をはじめ『出世景清(しゅっせかげきよ)』などを発表し、義太夫とのコンビで一世を風靡する。

元禄16年(1703)には、実際に起きた露天神社での心中事件をもとに『曽根崎心中』を発表。その後も『冥土の飛脚』『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』『平家女護島(へいけにょごのしま)』『心中天網島』『女殺油地獄』など、300年の時を超え今も歌舞伎や文楽で上演されている名作を世に送り出した。

近松の「心中もの」は当時の大衆の心をつかみ、その影響で心中事件が多発。幕府が心中ものの上演を禁止するほどの社会現象となった。さらに、享保9年(1724)正月に上演した『関八州繁馬(かんはっしゅうつなぎうま)』では、御所の築山を燃やす仕掛けが人気を呼ぶが、「興業の成功は、大坂が大火に見舞われる前触れ」という噂が飛び交い、実際に同年3月、「妙知焼(みょうちやけ)」と呼ばれる大坂市中の3分の2を焼く大火が起きている。この大火によるいわれなき非難は身にこたえたのか、近松はその年の11月、パトロンでもあった尼崎吉右衛門宅で息を引き取る。享年72であった。


フィールドノート

実話の事件に「これや!」

近松の代表作『曽根崎心中』の舞台となった露天神社(つゆのてんじんしゃ)は1300年の歴史を持つ古社で、創建時は広大な大阪湾に浮かぶ曽根州と呼ばれる小島のひとつだった。古代、難波津の海辺で行われた、日本で最も古い祭祀といわれる「難波八十島祭(なにわやそしままつり)」の一社でもある。

島は徐々に拡大し、やがて地続きの曽根崎となり、渡辺党と呼ばれる武士団が移住して露天神社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。菅原道真は筑紫配流の途中、この地で「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」と詠んだことから、露天神社と称されるようになったという説もある。

江戸時代の元禄16年(1703)、堂島新地の天満屋の遊女・お初と、内本町平野屋の手代・徳兵衛が露天神社境内の天神の森で心中事件を起こした。叶わぬ現世の恋を来世に託す、二人の純粋な気持ちに創作意欲をかき立てられた近松は、これを題材に『曽根崎心中』を書き上げ、なんと事件の一カ月後に竹本座で上演したのであった。「未来成仏うたがいなき 恋の手本となりにけり」という台詞に近松の作品にかける意気込みが感じられる。

当時、竹本座は赤字続きで廃業寸前となっており、竹本義太夫の盟友・近松門左衛門はこれをなんとか救いたいと考えていた。曽根崎心中は大成功を収め、竹本座は見事復活を果たす。以来、露天神社はヒロインの名をとって「お初天神」呼ばれ、観劇後の客たちはこぞって参拝に訪れたという。「露天神社 ? さあ、どこですやろ。ああ、お初天神のことですかいな。それならここをまっすぐ行て曽根崎の‥‥」。そんな会話が聞こえてきそうなほど、大阪の人にとって「露天神社」は「お初天神」の通称の方がなじみ深い。


日本のシェークスピアといわれる理由

曽根崎心中は人形浄瑠璃だけでなく歌舞伎でも上演された。しかし初演以来、なぜかあまり上演されることなく忘れ去られていた。ところが昭和28(1953)年、二代目中村鴈治郎(なかむらがんじろう)と中村扇雀(なかむらせんじゃく・現四代目坂田藤十郎)親子によって復活上演されると、お初役の扇雀の清新な演技が絶賛を博し、扇雀ブームが巻き起こる。以来、お初役は扇雀から三代目鴈治郎襲名を経て1200回以上の上演記録を打ち立て、藤十郎襲名後も記録を更新している。さらにロシアやイギリスなど多くの海外公演でも成功を収め、終演後はスタンディングオーベーションで称えられている。

義理と人情のはざまで苦しむ悲恋、純愛。それをあたたかな目で見つめ、人間としての誇りを持たせる近松の悲恋物語は、国や文化を越えて人々を感動させるのだろう。この普遍性こそが、近松が日本のシェークスピアと呼ばれるゆえんである。ロシアでは現在、ロシア人の役者たちによって数多くの近松作品が上演されているという。

お初天神境内には昭和47年(1972)、「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」と刻まれた石碑が建った。平成16年(2004)には周辺を再整備し、二人のブロンズ像も建設。全国の観光地からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを認定する「恋人の聖地」にも選ばれている。訪れた恋人たちの絵馬がたくさん掛けられているが、なかには英語や中国語の願掛けも。日本はもとより世界の人々から、お初・徳兵衛の純愛が受け入れられていることがわかる。


献花の絶えない近松の墓

大坂の大火が自作の芝居の筋書きのせいとはなんとも理不尽な風評だが、非難を浴びた近松は、このとき死期を悟っていたのだろうか。画家に自分の肖像画を描かせ、遺言もしたためている。さらに死の直前の享保9年(1724)11月には、友人に宛てて、「西行は『花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃』といったが、自分も来月の名月の日に死にたい」という手紙を送っている。傑作をいくつも世に送り出した近松らしい言葉だが、その月の22日に息を引き取った。墓所は日蓮宗妙法寺。近松の妻は大阪の道具屋商「松屋」の娘で、妙法寺は彼女の実家の菩提寺であった。

寺は昭和42(1967)年、谷町筋拡張のために大東市へ移転したが、墓は国指定史跡のため当時のままの妙法寺跡(大阪市中央区谷町8丁目)にある。谷町筋には目印として近松門左衛門墓の所在を示す看板があり、細い路地を入るとビルの隙間の奥まった部分に墓が現れる。季節の花が生けられ、墓参りに訪れる人が絶えないようだ。取材中にもウォーキング中の老夫婦が看板を見つけて奥へと入り、墓に手を合わせていた。「たまたまウォーキングの途中で見つけて、それからは毎回ここに立ち寄り、手をあわせていく」という。近松のもう一つの墓は、尼崎市の広済寺にある。荒寺だった当寺の再興に尽力したのが近松であり、その縁により墓ができたという。こちらも国指定史跡であり、毎年11月22日の命日前後の日曜日には近松祭が催されている。

一方、近松の盟友・竹本義太夫は、正徳4年(1714)8月に『娥歌加留多(かおようたがるた)』を語ったのを最後に、健康を崩し同年9月に世を去る。近松は、「ひとふしを 語り残して写し絵に 今も声ある竹のおもかげ」と涙ながらに悼歌を奉げたという。

近松は、義太夫の死後も竹本座に貢献する。義太夫は生前、自分亡き後の後継者として弟子の政太夫を指名していた。しかし、政太夫はまだ23歳の若者だったために大反対が起きる。それを押しとどめたのが、座元の竹本出雲と近松だった。近松は政太夫のことを、「人間の腹を語った(人物になりきった)」と高く評価していた。近松らの力添えもあり、政太夫は竹本座のスターとなり、享保19年(1734)に、二代目竹本義太夫を継承する。

今、竹本座跡の石碑は道頓堀の商業施設「道頓堀ゼロゲート」前にひっそりとある。道行く人も足を止めない様子だったが、竹本義太夫300回忌にあたる平成25(2013)年3月に竹本座跡にパネルが設置され、文楽発祥の地としてアピールしている。



2016年3月

(2019年4月改訂)

木下昌輝



≪施設情報≫
○ 露天神社(お初天神社)
  大阪市北区曽根崎2-5-4
  アクセス:大阪メトロ谷町線「東梅田駅」より徒歩約5分

○ 近松門左衛門の墓所(妙法寺跡)
  大阪市中央区谷町8
  アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町6丁目駅」より谷町筋を南へ谷町7丁目交差点南すぐ

○ 竹本座跡の石碑
  大阪市中央区道頓堀1-8-22・道頓堀ゼロゲート
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「なんば駅」より北へ約270m

○ 近松門左衛門銅像(近松公園)
  兵庫県尼崎市久々知1-4
  アクセス: JR宝塚線「塚口駅」より徒歩約15分

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