JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 情報公開
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人
なにわ大坂100人イメージベース画像
なにわ大坂100人イメージ画像
書籍広告画像
アマゾンリンク画像

第85話 広岡吉信ひろおかよしのぶ (1689 〜 1765年)

連続テレビ小説『あさが来た』で脚光を浴びた豪商

豪商・加島屋(広岡家)は、NHKが平成27年(2015)度下期に連続テレビ小説『あさが来た』を放送し、一躍脚光を浴びた。幕末に京の出水三井家(のちの小石川三井家)から広岡家に嫁し、加島屋を盛り立てた広岡浅子がモデルだった。加島屋は鴻池、三井、住友に比べて知名度は低く、研究も進んでいなかった。放送と相前後して新資料が見つかるなど加島屋への関心が高まっている。

加島屋は広岡家4代・吉信(1689~1765)の時代に大坂を代表する商家として表舞台に登場する。大坂の米市は江戸時代初期、淀屋の店先、土佐堀川の河原で始まった。米の生産力の向上にともない大きいマーケットの大坂に諸大名の米が集まるようになり、米切手取引や先物取引が生み出された。元禄末期になると、人口成長は頭打ちになり、米価が下落基調に転じた。米価の低落はコメを市場で現金化して財政を賄っていた諸大名にとって死活問題になってくる。江戸幕府はそんな中で、年々規模が大きくなる大坂の米市場に警戒感を強めた。赤穂浪士の討ち入りや元禄地震、浅間山の噴火などで、世情が騒然とする中、幕府は宝永2年(1705)、大坂商人の代表だった淀屋を取りつぶした。

淀屋の闕所後も米価の下落傾向は続く。幕府は大坂の取引に染まっていない江戸町人に米会所の設立を許可した。しかし、米価の安定化は進まず、大坂の米仲買の大きな反発を招いた。享保15年(1730)、幕府はとうとう米取引「勝手次第」とし、大坂の米仲買による堂島米市場を公認した。さらに翌年、加島屋ら5人の言上を取り入れ、大坂の米仲買に株札(3回計1351枚)を交付した。合わせて加島屋ら5人を「米年寄」に任命し、米会所の運営を委ねた。「米年寄」は脇差と裃の着用が認められ、加島屋は大坂を代表する商家となった。

加島屋の初代は広岡冨政(1603~1680)。尼崎藩領・東難波村の百姓・広岡豊政の次男として生まれ、大坂の加島屋五兵衛家に奉公に上がった。寛永2年(1625)に独立して「加島屋久右衛門(加久)」を名乗り、大坂御堂前で商いを始めた。2代・正吉(1649~1703)か3代・正中(1687~1720)のころ、玉水町(大阪市西区江戸堀1丁目)に移って米仲買に転身した。正中は実子に恵まれず、吉信が尼崎の広岡九兵衛家から婿養子として入り、享保3年(1718)に家督を相続した。吉信が当主になったころは多額の借金を抱え、居宅を売却するなど、資金繰りが切迫していた。

吉信は類い希な経営手腕を発揮し、間もなく家業が軌道に乗る。家督相続からわずか12年で、米仲買仲間の信望が篤い「米年寄」に選ばれた。後に「米方年行司」と呼ばれるが、このポストは会所の総責任者ともいうべき役職。市場の秩序の維持、仲買人の管理などにあたった。また、大坂町奉行所との折衝役も兼ね、奉行所からの通達を会所内に伝える一方、各種の届け出や訴えを奉行所に申し出た。

吉信はこうした重責をこなす一方、精力的に商いに励んだ。①諸大名の蔵元として年貢米や物産の収納、入札、蔵出しの管理 ②掛屋(かけや)として米切手の発行や代金の収納、送金 ③米切手を担保とする仲買人への貸金業務(入替両替)と年貢米を担保とする大名貸を行った。この入替両替と大名貸が加島屋急成長の原動力となった。吉信は宝暦13年(1763)に「質素・倹約に努めて家業の立て直しを図ったところ、初代による本山(西本願寺)への馳走の陰徳によって家業繁昌に至った」という趣旨の遺言書を作っている。加島屋では吉信は中興の祖と言われている。


加島屋久右衛門家のビジネス

加島屋のビジネスは、いまでいう個人などを相手とする「リテールバンキング」ではなく、大手の企業を相手にした「ホールセールバンキング」だった。

江戸時代、各大名は徴収した年貢米などを売却して資金を確保し、財政を運営している。収入はコメの収穫をする秋以降に限定されるが、支出は大名家の維持、参勤交代や行政関係費、江戸や大坂での大名や家臣の滞在費など通年にわたり続く。このため、各藩は徴収予定の年貢米などを担保として、有力商人から融資を受けることになった。18世紀以降、各藩の財政は「大名貸」という融資が不可欠となっていた。加島屋は「江戸300藩」と称された全国諸藩の約3分の1と「大名貸」取引をしている。

萩藩(のちの長州藩)は宝暦2年(1752)、大規模な借金の踏み倒しをした。これに対して大坂商人は萩藩の産物をボイコットした。大坂の商人の怖さを思い知った萩藩は方針を転換し、明和7年(1770)、安定的な資金提供を受けることが出来るように加島屋と提携をはかり、「大坂蔵屋敷留守居格」に任命した。加島屋は融資金額が少なければ、一手に引き受け、多額の場合は集団での融資をとりまとめた。さらに萩藩は特別会計を設け、新田開発などに取り組んだが、加島屋はその特別会計に融資したり、預金を受けるなどして、「メインバンク」の役割を担っている。

また、津和野藩とは明和7年(1770)9月に議定書を取り交わしている。議定書では①石州半紙(ユネスコ無形文化遺産)とローソクの売上金を全て加島屋に預け、加島屋はここから元利とも藩の返済金を引き去る ②返済金の他、藩の必要経費は全て加島屋を通じて支出する ③加島屋は津和野藩の預金を年利6%で運用する―となっている。

津和野藩は表高4万3千石で、コメの生産量は決して大きくなかった。このため加島屋は特産品を担保として融資に応じたのである。しかも販売代金を一括管理し、その中から元金返済分と利子分に相当する額を差し引くことに両者が合意している。取引先の「強みと弱み」を的確に把握し、より適切な融資を実行するという、現代の銀行や商社につながるビジネス感覚である。「大名貸」はハイリスク・ハイリターンの商売だが、リスク管理を十分に行っていた。


幕府が頼りにした加久と鴻善

幕府は宝暦11年(1761)、大坂で初めて御用金を募集した。このとき加島屋は鴻池善右衛門(「鴻善」)、三井八郎右衛門と並んで筆頭額となる5万両(1両=5万円で換算して25億円)を拠出するよう指示を受けた。幕府による御用金の要請は江戸時代末期まで十数回に及ぶが、加島屋は鴻池と並び常に最高額を納めている。

幕府の政策に注文を付けることもあった。明和9年(1772)、幕府は諸大名の米切手過剰発行に頭を悩まされ、信用不安がささやかれる米切手を市場から一掃しようとした。幕府は加島屋と鴻池両家に公的資金を貸し付け、信用力の低い米切手を集めさせようと考えた。これに対して両家は一貫して①不埒な切手が殺到する ②公的資金が少なすぎる ③米切手の取引は市場に任せ、いざとなれば幕府が回収すると「宣言」すれば良い―などと主張した。結果的に幕府は両家の意見を取り入れる形で、事態は収束した。

文政8年(1825)に発行された大坂の豪商の番付「浪華持丸長者控」では勧進元が三井八郎右衛門、東西の大関に鴻池善右衛門、加島屋久右衛門となっており、両家は幕府が頼りにする「大坂商人の双璧」だった。


フィールドノート

『あさが来た』の広岡浅子像が完成




土佐堀川にかかる肥後橋の南詰にかつて加島屋本家があった。いま大同生命大阪本社(大阪市西区)が建ち、1階エントランスホールの一角に金色に輝く女性の坐像がある。像は「九転十起生─広岡浅子像」。広岡浅子(1849~1919)は大同生命創業者の一人で、『あさが来た』のヒロインのモデルになった。

大同生命は明治35年(1902)7月の創業。2017年度が創業115周年にあたり、「女性活躍のシンボル」として、東京芸術大学に制作を依頼した。像は高さ130㎝で、明るく自然に将来を見つめる姿をイメージして作られた。トラバーチンという石の台座に、上野公園の西郷隆盛像と同じ作り方の真土(まね)型鋳造法で作った銅像が置かれている。東京芸術大学の北郷悟教授がプロジェクト・リーダーで、同大学院助手(当時)の額賀苑子さんが像の原型を、同助手(当時)の國川裕美さんが台座を担当した。平成30年(2018)3月29日に完成記念式典が催された。

広岡浅子は京都の出水三井家に生まれ、慶応元年(1865)、加島屋の広岡信五郎(1841~1904)に嫁ぐ。幕末から明治維新にかけての動乱期、大坂の米問屋や両替商が相次いで倒れる中、家業の再興に奮闘した。明治19年(1886)に筑豊の炭鉱を買収して炭鉱経営に乗り出し、明治21年(1888)に加島銀行を設立、明治35年(1902)には大同生命を創設した。また、女子教育に情熱を傾け、日本初の女子大学、日本女子大学の設立に奔走した。

『あさが来た』はNHK大阪放送局の担当者が3週間、大阪、京都、神戸の図書館を回り、古川智映子著『小説土佐堀川』を見付けて企画した。『小説土佐堀川』は昭和63年(1988)に初版が出版され、大同生命が110周年記念事業として版元に復刊を要請、これが目にとまった。一方、大同生命では平成24年(2012)7月から同事業として大阪本社2階のメモリアルホールで「大坂屈指の豪商『加島屋』から400年の歩み」を特別展示中だった。そこにNHKから『あさが来た』の話が舞い込んだ。

大同生命は放送開始直前の平成27年(2015)7月、浅子の生涯に焦点を当てるなど展示を一部衣替えして放送に備え、放送開始後は新たに中之島周辺の「広岡浅子ゆかりマップ」を用意するなどした。当初は1日30~40人程度だったが、9月の放送開始後は日に日に増え、ピーク時には1500人ほどに達した。これまでの入館者は10万人にのぼった。このほか、大阪商工会議所や東京・日本橋の三越本店、日本女子大学など各地で「広岡浅子展」が催された。


加島屋伝来のひな人形など続々と新発見

大阪市北区天神橋6丁目の「大阪くらしの今昔館」に平成29年(2017)2月25日、高さ60㎝もあるあでやかな立雛が登場した。丸顔に引目鉤鼻(かぎばな)おちょぼ口の「次郎左衛門雛」と呼ばれる様式のひな人形だ。同年4月2日まで同館が開いた企画展「浪花の大ひな祭り-浪花の豪商の雛道具」で一般公開された。

ひな人形は『あさが来た』の放送を機に、歴史風俗考証のために関係者が奈良県橿原市の広岡家の親戚・岡橋家を訪ねて蔵を調査して見つかった。同家には1万点以上の古文書や写真、ひな人形などの道具類が保管されていた。第2次世界大戦中、広岡家が空襲による戦禍を恐れ、岡橋家に預けたものだ。江戸時代後期の大坂の絵師、森一鳳(1798~1872)が脇障子を描いた享保雛や楽家10代・旦入(1795~1854)作の小皿、子供用の台所道具など貴重な品々で、これら道具類は平成29年(2017)2月、広岡家、岡橋家連名で大阪市に寄贈された。

一方、加島屋の史料としては大同生命大阪本社に古文書類約2500点があった。同社は110周年記念事業の一環として平成23年(2011)12月、これら史料を大阪大学大学院経済学研究科に寄託、同大学の研究グループが「大同生命文書」と名付け、史料の整理や研究を進めてきた。

今回、新たに岡橋家からひな人形などの道具類の他、古文書類約8500点と写真類約3千点が見つかった。これらは現在、神戸大学経済経営研究所で調査が進められている。さらに平成28年(2016)11月には、分家の加島屋五兵衛家にも大量の古文書、古写真、道具類が残っていることが分かり、道具類は大阪くらしの今昔館、広岡浅子関係は大同生命へ、古文書・古写真は神戸大学へ移された。『あさが来た』の放送で、従来、ほとんど研究が進んでいなかった加島屋の歴史が明らかになりつつある。


加島屋と西本願寺

御堂筋に面した北御堂(大阪市中央区本町、浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)に平成31年(2019)1月9日、「北御堂ミュージアム」が開館した。北御堂1階にあった大阪会館を閉鎖し、約300㎡の展示室に改装した。

エントランスから右側壁面に続く約40mの巨大年表「歴史ガイドウオール」は、「親鸞聖人と本願寺の成り立ち」から始まり、北御堂が幕末と維新後の歴史の舞台だったことを伝えている。中央に大阪歴史博物館監修による石山本願寺と寺内町のジオラマ(縮尺1千分の1)を設置、往時の大阪の街をリアルに再現している。「大阪の商人と北御堂」のコーナーでは、加島屋を特筆し、「広岡家は北御堂の講中総代であり……初代が延宝8年(1680)に没したおり、2代目が本願寺へ銀子20貫目、金子100両を献上している」と紹介している。

加島屋は西本願寺派の有力門徒だった。初代・広岡冨政の妻が西本願寺の女官に送った直筆の書状が平成27年(2015)に本願寺史料研究所で見つかっている。宝暦元年(1751)には西本願寺の教学研究機関「学林」の講堂修復を支援した。天明8年(1788)にも大火で「学林」が被害を受けると、再建に尽力している。

明治になって、浄土真宗各派が資金拠出してつくった生保会社「真宗生命」が経営に行き詰まり、西本願寺が加島屋に救済を要請した。加島屋は浅子の決断で経営権を取得し、生命保険業務に乗り出す。広岡家の西本願寺との連綿と続いた縁が大同生命誕生につながった。



2019年2月

宇澤俊記



 

≪取材協力≫
 ・大同生命保険株式会社
 ・神戸大学経済経営研究所准教授 高槻泰郎氏


≪参考文献≫
 ・廣岡家研究会『廣岡家文書と大同生命文書-大坂豪商・加島屋(廣岡家)の概容』(「三井文庫論叢第51号」2017・12)
 ・大同生命保険株式会社広報部『「大同生命文書」解題』(2013・7)
 ・高槻泰郎『大坂堂島米市場-江戸幕府vs市場経済』(講談社現代新書2018・7)
 ・高槻泰郎『近世中後期大坂金融市場における「館入」商人の機能』(「日本史研究」第619号、2014・3)
 ・新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史第3巻』(大阪市 1989・3)
 ・岩波講座『日本経済の歴史2 近世-16世紀末から19世紀後半』(岩波書店2017・8)
 ・宮本又次『大阪町人』(弘文堂アテネ新書1957・9)
 ・岩間香、服部麻衣『浪花のひな祭り』(摂南大学外国語学部・大阪くらしの今昔館2017・2)


≪施設情報≫
○ 大同生命大阪本社メモリアルホールと加島屋本家の碑
   大阪市西区江戸堀1–2–1
   アクセス:大阪メトロ四つ橋線「肥後橋駅」すぐ、京阪電鉄中之島線「渡辺橋駅」より南へ徒歩約5分

○ 大阪くらしの今昔館
   大阪市北区天神橋6–4–20
   アクセス:大阪メトロ谷町線・堺筋線、阪急電鉄「天神橋筋六丁目駅」3号出口より直結、JR大阪環状線「天満駅」より北へ徒歩約7分

○ 北御堂ミュージアム
   大阪市中央区本町4–1–3
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「本町駅」A階段2号出口よりすぐ

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association