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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第98話 藤澤東畡ふじさわとうがい (1794 〜 1864年)

江戸末期・大坂の代表的漢学塾を創設

藤澤東畡は寛政6年(1794)、讃岐・香川郡安原村(高松市塩江町安原)で、農家の長男として生まれた。名は甫(はじめ)、字は元発(もとのり)、東畡と号した。大坂で漢学塾「泊園書院」を開き、大坂を代表する学者・教育者となった。東畡の学統は長男の南岳(なんがく)(1842~1920)、孫の黃鵠(こうこく)(1874~1924)、黃坡(こうは)(1876~1948)と受け継がれて発展し、泊園書院は幕末から明治・大正・昭和と政界、官界、実業界、教育界、ジャーナリズム、学術、文芸など各方面で多彩な人物を輩出した。

東畡は9歳の時、横井村(高松市香南町横井)の儒学者・中山城山(1763~1837)に学んだ。中山城山は藤川東園(1739~1806)から医学と儒学を学び、家塾を開き、荻生徂徠(1666~1728)の古文辞学を教えた。藤川東園は大坂で菅甘谷(かんこく)(1691~1764)に師事した。菅甘谷は岸和田藩士。江戸藩邸に勤め、荻生徂徠から才能を認められて大坂に戻った。菅甘谷は大坂での徂徠学の祖と言われ、東畡は荻生徂徠、菅甘谷、藤川東園、中山城山の系譜を受け継いだ。

高松市南塩江町に建つ「藤澤東畡頌徳碑」に南岳が寄せた碑文によると、東畡は「幼時に弟たちと腰に鎌を挿して山の斜面の草刈りをしたが、ある時、鎌で土の上に文字を書いた。またある時は河原で石に文字を書き付けた。幾年にもわたって書き付けたので、河原の石にはほとんど文字の痕跡があったという。12~13歳で既に『文選』(注)を口ずさんだ」とある。

文政元年(1818)に長崎に向かい、「唐音」(中国語)を勉強し研鑽を積んだ。3年後に高松に帰り、「守泊庵」という塾を開く。文政8年(1825)、31歳の時、師・中山城山の朋友で、大坂の儒者・春田横塘(おうとう)(1768~1828)の勧めで来坂し、大坂・淡路町御霊筋西で「泊園塾」(のちの泊園書院)を開いた。

幕府が寛政2年(1790)に朱子学以外を禁止(「寛政異学の禁」)し、朱子学を批判した徂徠派は「異学」とされ、大坂でも漢学塾は朱子学が中心になっていた。懐徳堂は第4代学主の中井竹山(1730~1804)が朱子学を遵奉(じゅんぽう)して反徂徠の立場を鮮明に打ち出した。後継者も反徂徠の学風を守り、大坂の学問をリードしていた。

そんな中で開塾した東畡は、周囲との摩擦に留意しながら徂徠の古文辞学を基に柔軟な古典解釈を進めた。しかも「清倹寡約にして世に求むることなく、孜々(しし)として学び、諄々(じゅんじゅん)として教え、懈(おこた)らず倦(う)まず、純乎たる儒者の生活…」(石濱純太郎『浪華儒林伝』)で、詩文や書のほか琴の演奏も巧みな教養豊かな文人だった。東畡の人柄とその学風は徐々に浸透し、塾生が集まるようになった。

弘化2年(1845)、東畡は大坂の文化人名簿『新撰浪華名流記』に儒家として登場した。文人墨客を大坂の八百八橋に見立てた嘉永6年(1853)発行の番付表『浪華風流月旦評名橋長短録』では、東畡は行司役の懐徳堂の並河寒泉(1797~1879)と中井桐園(1823~1881)に次ぐ後見役として別格扱いになり、119間の巨大な難波橋に見立てられ、橋の長さでは懐徳堂を凌駕する勢いを示した。

東畡は嘉永4年(1851)、豊岡藩主・京極高厚(1829~1905)の賓師(藩主に師として礼遇され講義を行う学者)となり、翌年には郷里・高松藩から大坂在住のまま士分に取り立てられた。また、尼崎藩最後の藩主・松平忠興(1848~1895)も文久3年(1863)に入門している。

東畡は長崎留学をして海外事情にも明るく、勤王を唱えたため、若者にも慕われ、嘉永6年(1853)には長州藩士の吉田松陰(1830~1859)が訪ねている。学風が硬直化した懐徳堂と比べ、評判が評判を呼び、門人は3千人を超える大坂最大級の私塾となった。東畡は元治元年(1864)春、二条城で将軍家茂に謁見し、同年12月に亡くなった。



藤澤家3世4代の120年

泊園書院第2代院主・藤澤南岳は天保13年(1842)、讃岐国大川郡引田村の母親の実家で生まれた。通称は恒太郎、24歳で家督を継ぎ高松藩の儒官になった。高松藩は鳥羽伏見の戦いで幕府側として参戦、朝敵となった。高松藩追討令が出て、大坂、京都の藩邸は没収された。藩存亡の危機を前に南岳は「死を決して」(石濱純太郎『浪華儒林伝』)勤王の義を唱えた。藩では3昼夜にわたる激論となったが、家老二人が切腹して勤王に転換し、藩滅亡の危機を救った。その功で藩主の松平頼聡(1834~1903)から「南岳」の号を賜った。

南岳は維新後、明治政府から出仕の要請を受けたが、断って、明治6年(1873)に船場で一時期閉鎖されていた泊園書院を再興した。当時の学則「泊園塾則」では、塾生は学問水準に応じて1等級から7等級まで分けられ、3等級で「諸子」にある程度通じていることが求められている。「諸子」とは中国の春秋戦国時代に活躍した儒家、墨家などの思想家のことで、これらの文献を読みこなせるように鍛えた。

明治・大正時代に銀行の頭取や電力会社社長を務め、大阪経済界の重鎮となった永田仁助(1863~1927)は南岳の講義を「言説は優に門弟の心境を動かし、心身これ師の感動を受け激発せざるはなかった」と評し、学生が廊下に溢れ出たと書いている。当代随一の学匠として名声がとどろき、書院の黄金期を築いた。南岳時代、学んだ門人は5千人を超えるとされる。

また、南岳は友人の西村天囚(1865~1924)が進めた「重建懐徳堂」の開設に尽力した。西村は朝日新聞編集局長を務め、「天声人語」の名付け親。大正2年(1913)、財団法人懐徳堂記念会ができると、経済界で活躍する永田仁助を初代理事長に据え、自身は名誉会員として応援した。

泊園書院の第3代院主には南岳の引退にともない長男の黄鵠が就いた。黄鵠は父南岳の薫陶を受け、16歳で東京に出て共立学校に学んだ。その後、清国・南京に2年間留学して中国語を学ぶなど見聞を広げた。明治35年(1902)に書院経営を引き継ぎ、明治41年(1908)、衆議院議員に当選した。明治44年(1911)、歴史教科書の改訂をめぐり、桂太郎内閣に南北朝の扱いについて質問主意書を出した。皇室の正当性にかかわる問題に発展して世論が沸騰、黄鵠は衆議院本会議で演説して質問主意書を撤回し、その場で議員を辞職した。

大正9年(1920)、南岳が亡くなり、黄鵠も引退し、第4代院主として南岳の次男・黄坡が引き継いだ。黄坡は岡山の閑谷(しずたに)学校で学び、東京高等師範学校国語漢文専修科を卒業。岸和田中学教諭を務めたあと、南区竹屋町9番地(現中央区島之内1丁目)で書院の分院を主宰していた。ここが書院の本院となり、義弟の石濱純太郎(1888~1968)と協力して維持した。しかし、昭和20年(1945)6月の空襲で焼失し、昭和23年(1948)12月に黄坡が亡くなった。この結果、学校としての役割を終え、藤澤3世4代にわたる120年余の幕を閉じた。


門人・友人、人脈はきら星のごとく

泊園書院の門人は、砲術家・高島秋帆(1798~1866)、幕末の志士で初代大蔵次官の郷純造(1825~1910)、華岡青洲の弟・鹿城の子で幕末の名医・華岡積軒(1827~1872)、維新後は、永田をはじめ東京日日新聞主筆として活躍した岸田吟香(1833~1905)、明治政府の外務大臣になる陸奥宗光(1844~1897)、朝日新聞の主幹として創刊に参加し、「朝日」という題号を命名したという津田貞(1845~1882)、「仁丹」を創業した森下博(1869~1934)、道修町の薬種商を近代的な製薬会社に再生した5代目武田長兵衛(1870~1959)、伊藤忠、丸紅の創業者・伊藤忠兵衛(1842~1903)、NHK連続テレビ小説 『あさが来た』の主人公・広岡浅子の娘の亀子(1876~1973)ら多彩な顔ぶれが並ぶ。また、小説『新雪』などで関西を代表する作家となる藤澤桓夫(1904~1989)は黄坡の長男だ。


フィールドノート

関西大学のもう一つの源流


関西大学千里山キャンパスの法科大学院などが入る以文館北側に「泊園書院址」碑がある。戦後、藤澤桓夫が島之内の書院跡地に碑を建立したが、行方不明になっていた。平成22年(2010)8月、泊園記念会50周年記念国際シンポジウム「東アジアの伝統教育と泊園書院」の準備中に民家の中庭に残っているのが分かり、所有者から関西大学に寄贈された。同年10月23日、シンポジウム開催に合わせて披露された。

関西大学と泊園書院の関係は大正11年(1922)までさかのぼる。関西大学は大学令により大学(旧制)として認可され、黄坡はその予科の講師になった。昭和4年(1929)に専門部文学科教授に就任し、同13年(1938)に定年退職、同23年(1948)に関西大学初の名誉教授になっている。石濱純太郎も大正15年(1926)に専門部講師となり、昭和24年(1949)、文学部史学科開設にともなって教授に就いた。

藤澤桓夫と石濱は、昭和26年(1951)3月、藤澤家4代が120年にわたり収集した泊園書院の蔵書や収蔵品を関西大学に寄贈することにし、大学に「泊園文庫」が生まれた。文庫は1万7717点にのぼり、書籍を中心に院主の自筆稿本、印章、書画などの一大コレクション。泊園記念会会長で同大学の吾妻重二教授は「漢籍の宝庫であり、日本近世・近代の大阪文芸の縮図といえる」と話す。これが基になって文学部に東洋文学科(現・中国学専修)が生まれ、東西学術研究所が設けられた。また、同36年(1961)には泊園記念会が設立された。

関西大学は明治19年(1886)11月に大阪市西区京町堀の願宗寺で関西法律学校として設立された。大正期に泊園書院の伝統と学術が加わって泊園書院は同大学の「もう一つの源流」と言われるようになった。


道明寺天満宮と釈奠(せきてん)

平成30年(2018)5月13日、藤井寺市の道明寺天満宮の大成殿で、関西大学や地域の人びとが集まり、釈奠が催された。釈奠とは、儒学の祖・孔子(前551~前479)と弟子の顔回(前522ころ~前490ころ)ら十哲を祀る儀式。祭典に始まり、経書の講演、煎茶席・抹茶席や書画等の抽選、揮毫などが行われている。明治36年(1903)3月30日に始まり、戦時中も絶えることなく、建物改修で1回中止しただけで115回を数えた。

釈奠では年1回だけ孔子像がご開帳となる。この孔子像は小野篁(おののたかむら)作と言われ、栃木県の足利学校にあったのが、江戸時代に高松藩に移り、藩校で祀られていた。明治維新で藩校が廃止されたため、藤澤南岳が譲り受けた。泊園書院で学んだ道明寺天満宮の当時の宮司、南坊城良興(1865~1940)が南岳に協力して、孔子像を収める大成殿を建てることになった。菅原道真(845~903)には釈奠の漢詩があり道真が讃岐守のときには釈奠を執り行っている。南岳が撒いた種がいまも道明寺天満宮で継承されている。


通天閣と愛珠幼稚園


大阪のシンボル「通天閣」が海外からの観光客、インバウンドで賑わっている。入場者は一時期低迷していたが、近年は120万人にのぼり、うち4分の1を外国人が占めている。「Shinsekai and the Tsutenkaku Tower」と海外に紹介され、コテコテの大阪を象徴する観光スポットとなっている。

通天閣は明治45年(1912)、第5回内国勧業博覧会(1903年)の跡地に遊園地「ルナパーク」といっしょに建てられた。パリの凱旋門にエッフェル塔を乗せたような高さ74メートルの展望塔で、高さは日本一、大阪平野を一望し、はるか淡路、六甲が見晴らせた。藤澤南岳が「天に通じる高い建物」との意味で命名した。

初代通天閣は第2次世界大戦中、金属回収のため解体撤去されたが、戦後、地元の人たちが復興に立ち上がり、昭和31年(1956)に再建された。2代目通天閣は高さ103m、5階に展望台や足の裏をなでると幸運が訪れるというビリケン像などがある。平成29年(2017)に塔のネオンが全面的にリニューアルされ、月ごとに12色が違う色でライトアップされている。また、頂上のネオンは色の組み合わせで翌日の天気予報を流している。

大阪市中央区の愛珠(あいしゅ)幼稚園は明治13年(1880)に船場北部(現中央区平野町以北)の連合町会が開設した。日本で3番目に古い幼稚園で、南岳が愛珠と名付けた。珠を愛(め)でるように子供たちをいつくしむという意味である。現在の園舎は同34年(1901年)の竣工。天井は格天井で、中央に古風なシャンデリアがあり、船場商人の教育にかける意気込みが溢れ、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定された。同30年(2018)現在、3歳児から5歳児まで64人が通園している。

また、小豆島の名勝、寒霞渓は「浣花渓」といわれていたが、明治11年(1878)に南岳が「寒霞渓」と定めた。ほかに大阪淡路町の「森下南陽堂」が同38年(1905)に発売した常備薬「仁丹」は南岳と西村天囚の命名。南岳はほかにもいくつも学校の命名をしており、博覧多識を頼る人が絶えなかった。藤澤東畡、南岳、黃鵠、黄坡の墓は上町台地・生國魂神社南隣の齢延寺にある。



2019年2月

宇澤俊記



 

≪取材協力≫
 ・関西大学教授、泊園記念会会長 吾妻重二氏
 ・石濱純太郎の孫で泊園記念会会員 松本督氏


≪参考文献≫
 ・吾妻重二編著『泊園書院歴史資料集―泊園書院資料集成1』(関西大学東西学術研究所 2010・10)
 ・吾妻重二編著『泊園記念会創立50周年記念論文集』(関西大学東西学術研究所 2011・10)
 ・藪田貫、陶徳民編著『泊園書院と大正蘭亭会百周年』(関西大学出版部 2015・3)
 ・吾妻重二編著『泊園書院と漢学・大阪・近代日本の水脈』(関西大学東西学術研究所 2017・8)
 ・石濱純太郎『浪華儒林傳』(全國書房 1942・8)
 ・関西大学泊園記念会『泊園書院―なにわの学問所・関西大学のもう一つの源流』(2016・8)
 ・塩江町歴史資料館『藤澤東畡先生ものがたり』(安原文化の郷歴史保存会 2018・3)
 ・新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史第4巻』(大阪市 1990・3)


≪施設情報≫
○ 「泊園書院址」碑
大阪府吹田市山手町3–3–35 関西大学千里山キャンパス以文館北側
アクセス:阪急電鉄千里線「関大前駅」より徒歩約5分

○ 泊園書院跡
大阪市中央区淡路町1–5
(かつて石碑があったが、現在はプレートになっている)
アクセス:大阪メトロ堺筋線、京阪本線「北浜駅」より南東徒歩約5分

○ 齢延寺(藤澤東畡、南岳、黃鵠、黄坡の墓)
大阪市天王寺区生玉町13–31
アクセス:大阪メトロ谷町線、千日前線「谷町9丁目駅」より南西徒歩約7分

○ 通天閣
大阪市浪速区恵美須東1–18–6
アクセス:大阪メトロ堺筋線「恵美須町駅」より徒歩約4分、御堂筋線「動物園前駅」より徒歩約7分、JR 環状線「新今宮駅」より徒歩約7分、南海本線「新今宮駅」より徒歩約10分

○ 愛珠幼稚園
大阪市中央区今橋3–1–11
アクセス:大阪メトロ御堂筋線、京阪本線「淀屋橋駅」より徒歩約3分

○ 道明寺天満宮
大阪府藤井寺市道明寺1–16–40
アクセス:近鉄南大阪線「道明寺駅」より徒歩約3分

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