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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第84話 加賀屋甚兵衛
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第84話 加賀屋甚兵衛かがやじんべえ (1680 〜 1762年)

西大坂最大の新田を開発した一族の祖

加賀屋甚兵衛は延宝8年(1680)河内国石川郡喜志村(現在の大阪府富田林市喜志町)で生まれ、11歳のとき、大坂淡路町の両替商加賀屋嘉右衛門の店に奉公人として入った。加賀屋は天王寺屋、鍵屋、鴻池など十人両替と呼ばれる大店に次ぐランクの店であった。甚兵衛は35歳で暖簾分けを許され、加賀屋甚兵衛として新たに自分の店を持つ。

甚兵衛は商用で堺に行く途次、紀州街道の西に広がる大和川の浅瀬が新田開発に適していることを知り、新たな事業に投資すべく45歳の年に初めて新田開発に手を染めた。宝永元年(1704)に付け替え工事が完成した新しい大和川は、上流から運ばれる大量の土砂で河口に砂の堆積が進み、その結果、堺の港が機能を衰退させていった。そのような中、大坂の豪商が相次いで進出した北河内の旧大和川跡での新田開発は、木綿栽培を中心に概ね順調に推移していた。とくに大坂最大の両替商の鴻池は、新田開発でも成功を収めた豪商の一つである。同業者である甚兵衛もその流れに乗ることを決断する。

大和川付替え後、最も早く開発されたのは摂津住吉郡(現在の大阪府堺市)の南島(みなみじま)新田である。享保13年(1728)に計画され、河内国川辺村(現在の大阪市平野区)の惣左衛門ら4人が請け負ったものを甚兵衛ら2名が権利を譲り受けたもので、甚兵衛は新大和川を挟んで南北に二分した北側(後の北島新田)の開発を請け負った。

甚兵衛は開発工事の進捗に応じて検地を受け、延享3年(1746)には「会所幷(ならびに)借家」を建て、ほとんど常駐のかたちで同地に詰めた。翌年、家業を任せたものの不行跡を繰り返す婿養子を離縁、大坂淡路町にあった店をたたんで北島新田に居を移した。そのようなことがあっても、甚兵衛は前年の延享2年(1745)、北島新田の北西地続きの砂州を選定して後の加賀屋新田となる新規の開発事業に着手していた。その一方、北島新田は着工以来23年を経て、宝暦元年(1751)に完成する。

北島新田に転居後、甚兵衛はすでに工事を手掛けていた(加賀屋)新田開発に注力するも、資金が底をついたため、やむなく完成して間もない北島新田を堺の小山屋久兵衛に売却。そうした苦労の末、ようやく宝暦5年(1755)に6町歩余り(約6ha)の(加賀屋)新田が完成した。その前年には「加賀屋新田会所」(現在の大阪市住之江区南加賀屋)を建てており、甚兵衛はここを終(つい)の棲家(すみか)としたのである。大坂代官角倉与一の検地を受け「加賀屋新田」の村名を与えられた。苗字帯刀が許された甚兵衛は、出身地に因み櫻井姓を名乗ることとした。

宝暦7年(1757)、甚兵衛は二人目の婿養子の利兵衛に家督を譲った。翌年剃髪して圓信と改名、会所での静かな隠居生活を送ったが、宝暦12年(1762)83歳で没する。

初代甚兵衛没後、二代目の櫻井利兵衛、三代・四代目の櫻井甚兵衛らによって次々と新田開発が行われ、天保14年(1843)には加賀屋新田は105町歩余り(約104ha)の大新田となった。その後の拡張も含め、幕末には櫻井家(旧加賀屋)一族による新田開発総面積は住吉浦の過半を占め、西大坂随一の規模となった。
〈二代目は利兵衛と称し甚兵衛の名を継いでいない。三代目以降は櫻井甚兵衛〉


フィールドノート

豪商の気風を映す新田会所跡


現在、大阪では鴻池新田(東大阪市)、安中(やすなか)新田(八尾市)そして加賀屋新田の三つの新田会所の史跡が一般公開されている。これらが建てられた場所は、いずれも大和川付け替えが契機となって盛んに新田開発が行われた旧川筋跡や新川流域である。その開発拠点で年貢の徴収、年貢米の貯蔵、用水路の維持、代官への対応など、種々の新田管理業務を遂行した施設が会所である。

「加賀屋新田会所跡」は大阪市の有形文化財で、住宅街の中にあり、1400坪(約4600㎡)を超える広大な敷地は現在「加賀屋緑地」としても運営されている。

会所跡には、大坂の豪商の財力を示す数寄屋建築の書院、築山林泉回遊式の庭園、それを望む高床の茶室で京都大徳寺418代貫主松月宙寶(しょうげつちゅうほう)揮毫の額を掲げた「鳳鳴(ほうめい)亭」が優雅な佇まいをみせ、両替商であった甚兵衛の趣味・趣向や文化レベルの高さを物語っている。ちなみに松月宙寶は江戸中期の人で、大徳寺を代表する能書家であり「歴代住持中の名筆」と呼ばれた人物である。

庭園の築山の頂にはかつて「明霞亭」という茶室があり、そこからは新田が一望できただけでなく、淡路島、生駒山、金剛山まで見えたという。残念ながら茶室は大阪空襲で焼け落ち、今は黒ずんだ四隅の礎石が残っているだけであった。


加賀屋新田一帯を望む


大和川は国土交通省直轄の河川。今なお治水事業が継続しており、堤防の補強工事が河口近くまで行われている。堤防には遊歩道とサイクリングロードが設けられ、大阪府民の憩いのゾーンになっている。江戸中期以降、中甚兵衛による大和川付け替えやその後の加賀屋甚兵衛をはじめとする町人請負の新田開発によって、農業用地が次第に拡大していった。

阪堺大橋から大和川大橋の間の堤防を歩いてみた。大和川の終着点である大阪湾手前の北側(右岸)一帯こそが旧の北島新田・加賀屋新田であり、甚兵衛とその一族が明治になるまで開発を進めてきた地域である。もちろん今ではビルが林立し民家が立ち並ぶなど往時の姿をとどめてはいないが、それでも大和川大橋から北西を望めば260年前、民間が行った開発事業の規模の大きさをうかがい知ることができる。と同時に、大和川が運んだ圧倒的な砂の量を思わずにはいられない。


北加賀屋の今昔 ― 千島土地と名村造船所跡

甚兵衛とその後の一族が新田開発事業を行った領域は、大和川から北へ木津川河岸にまでおよぶ。その加賀屋新田の一部を買い取ったのが、幕末から明治にかけて大阪市内で唐小物商を営んでいた芝川又右衛門(初代)である。明治11年(1878)千歳(ちとせ)新田50町歩(約49ha)、翌明治12年(1879)加賀屋新田68町歩(約67ha)さらに明治19年(1886)千島(ちしま)新田62町歩(約61ha)を購入し土地経営事業に転じた。

又右衛門は堂島米商会所頭取の就任、大阪商業講習所(現大阪市立大学)草創期の寄付、西宮甲東園の土地購入(二代目又右衛門の果樹園経営を経て関西学院に譲渡)など、明治期を通じて関西・大阪の発展に寄与した。

明治44年(1911)、元加賀屋新田の地に名村造船所と佐野安(さのやす)造船所が創業し、翌年には芝川家により千島土地株式会社が設立された。さらに大正に入り藤永田(ふじながた)造船所が工場を開設した。甚兵衛一族のかつての農業用新田は、芝川家の土地事業によって造船を柱とした工業用地へと180度転換したのである。

戦後の昭和期、わが国は造船王国として世界に君臨したが昭和49年(1974)のオイルショックにより低迷、加えて船舶の大型化で木津川河岸の造船所の規模・規格では対応できず、名村造船所は佐賀県の伊万里工場完成を機に大阪工場を撤収、跡地は地主である千島土地に返還された。

その後長らく休眠状態であった造船所跡地は、平成16年(2004)に開催された『ナムラ アート ミーティング』のイベントと平成19年(2007)の経済産業省の「近代化産業遺産」選定を契機に再び脚光を浴びることとなった。目下、造船所跡の施設を運営するクリエイティブセンター大阪(CCO)と千島土地との連携によって、北加賀屋一帯をアートビレッジにする計画が進行中である。

工業地から文化村へ、甚兵衛の加賀屋新田は今3度目の変身を遂げようとしている。


高砂神社と高崎神社 ― 生まれ故郷喜志の産土神(うぶすなかみ)を勧請


甚兵衛は大和川と新田の安寧と繁栄を祈願するため、郷土の産土神を勧請し高砂神社と高崎神社の二つの神社を造営した。

住之江区北島3丁目には元文2年(1737)建立の高砂神社がある。ご神木の巨大な楠が傘を広げたように境内を覆っている。同社の由緒には、高い砂丘に建てられ、謡曲『高砂』の「はや住之江に着きにけり」にちなんで「高砂神社」と名付けられたと書かれている。

一方、住之江区南加賀屋4丁目にある高崎神社は、由緒によると宝暦5年(1755)、加賀屋新田完成の年に甚兵衛が故郷の美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)の水分神(みくまりのかみ)を勧請して大和川河口に祀り、その後天保10年(1839)に現在の地に移したとある。本殿の屋根は大和川堤防の遊歩道から眼下に見え、大和川が天井川であることを改めて知らされる。

境内の入口に氏子の名前を記した石柱がある。その中の一番大きな石柱に「櫻井民次郎」の刻名が見える。甚兵衛が苗字・帯刀を許されたとき「桜井甚兵衛」を名乗っており、おそらくその子孫の寄進によるものであろう。


生まれ故郷喜志村へ ― 美具久留御魂神社と明尊寺(みょうそんじ)


甚兵衛の生まれ故郷、大阪府富田林市喜志町を訪れた。甚兵衛は故郷の美具久留御魂神社の水分神を勧請し高崎神社を造営したが、その美具久留御魂神社は、近鉄長野線喜志駅から南へ約20分、170号線から右に入ったところにあった。規模の大きな神社である。拝殿から本殿までは100段余りの階段を登らなければならない。本殿の後は神体山、頂上付近に4基の古墳があるという。

社伝によれば崇神天皇の時代の創建で、楠木正成も神領寄進や社殿造営を行ったとある。また、天正年間(1573~1591)の秀吉の根来攻めで灰燼に帰したことも。幾多の歴史の荒波を超えてきた社である。

拝殿から鳥居越し東方に二上山(にじょうざん)が望まれる。二上山と喜志の間を流れる石川は大阪府柏原市で大和川と合流する。甚兵衛は付け替え後の新大和川に故郷と繋がる縁を感じたのかもしれない。

美具久留御魂神社のある富田林市宮町から同市桜井町にある明尊寺にも足を運んだ。明尊寺は蓮如の時代に創建された古い寺である。ご住職の巽氏にお話をうかがった。以前大阪市史編纂所の職員がやってきて同寺の過去帳を調べた結果、加賀屋甚兵衛の名が見つかったのだそうである。しかし、甚兵衛の墓はこの寺にはない。多分葬儀だけを甚兵衛の故郷で行ったと考えられるとのことだった。甚兵衛をはじめとする桜井家は明尊寺の檀家であったことは間違いないが、甚兵衛の出身地は桜井地区ではなく現在の富田林駅近くの大深(おうけ)という地区だったということであった。


櫻井家墓所

大阪市南加賀屋霊園の一画に櫻井家の墓所がある。中央に櫻井家之墓の墓碑があり、その周囲に累代甚兵衛の墓が並んでいた。初代加賀屋甚兵衛の墓は新旧2基あり、古い墓は累代の墓に比べるとまことに小さいものであった。

この霊園からさらに5分ほど南へ下れば大和川、そして大和川に沿って加賀屋新田会所跡、高砂、高崎の両神社が並ぶ。まさに草葉の陰から初代甚兵衛は自ら開発を手掛けた新田のその後を見守っているかのようである。



2019年2月

長谷川俊彦



 

≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・三善貞司『大阪人物辞典』(清文堂出版)
 ・近代化産業遺産を未来に活かす地域活性化実行委員会『北加賀屋レポート』(住之江区役所ホームページ)


≪施設情報≫
○ 加賀屋新田会所跡
   大阪市住之江区南加賀谷4–18
   アクセス:大阪メトロ四つ橋線「住之江公園駅」より徒歩約15分

○ クリエイティブセンター大阪・名村造船所跡
   大阪市住之江区北加賀谷4–1–55
   アクセス:大阪メトロ四つ橋線「北加賀屋駅」より徒歩約15分

○ 高砂神社
   大阪市住之江区北島3–14–12
   アクセス:大阪メトロ四つ橋線「住之江公園駅」より徒歩約20分

○ 高崎神社
   大阪市住之江区南加賀谷4–15–3
   アクセス:大阪メトロ四つ橋線「住之江公園駅」より徒歩約15分

○ 美具久留御魂神社
   大阪府富田林市宮町3–2053
   アクセス:近鉄長野線「喜志駅」より徒歩約20分

○ 明尊寺
   大阪府富田林市桜井町1–15–20
   アクセス:近鉄長野線「喜志駅」より徒歩約25分

○ 大阪市南加賀屋霊園
   大阪市住之江区新北島2
   アクセス:大阪メトロ四つ橋線「住之江公園駅」より徒歩約5分

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