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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第95話 橋本宗吉はしもとそうきち (1763 〜 1836年)

大坂蘭学の始祖にして日本の電気学の祖

橋本宗吉は阿波国の出身で、初名は鄭(てい)、号は曇斎(どんさい)。幼少の頃、父に従い大坂に出て北堀江(現在の大阪市西区)で傘の紋書き職人を生業としていた。

20歳を過ぎた頃には本業のかたわらエレキテル(静電気発生装置)の実験を試みるなど、西洋科学への好奇心と探究心は並々ならぬものがあった。医者の小石元俊(こいしげんしゅん)と質屋「十一屋(じゅういちや)」の主人で天文学者の間重富(はざましげとみ)の二人は、かねてから西洋の医学をはじめとする科学知識を採り入れるには漢訳の書物ではもの足りず、どうしてもオランダ語を知らなければ話にならないことを痛感、才能を有する若者を探し求めていた。そんなとき二人の前に現れたのが宗吉であった。

寛政2年(1790)、元俊と重富は自分たちの代わりにオランダ語を習得させるべく、万全の支援策を講じて江戸の蘭学者大槻玄沢(おおつきげんたく)の許へ宗吉を送った。願ってもない機会を与えられた宗吉は、玄沢の芝蘭堂(しらんどう)に学び、わずか4カ月でオランダ語4万語を覚えたという。

大坂に戻った宗吉は、専ら蘭学の翻訳に取り組み、寛政8年(1796)に世界地図『喎蘭(おらんだ)新訳地球全図』を翻訳・出版した。また、医者を開業するとともに大坂初となる蘭学塾「絲漢堂(しかんどう)」を開く。その後、この塾から緒方洪庵の師となる中天游(なかてんゆう)をはじめ多くの門下生を輩出、大坂の地に蘭学をしっかり根付かせたのである。

文化2年(1805)、宗吉はオランダ都市薬局方の一つ『ロッテルダム薬局方』第3版を翻訳した『三法方典(さんぽうほうてん)』を刊行した。『三法方典』の三法とは製薬、処方、治療の三つを指す。これにより宗吉の名声は高まった。

文化8年(1811)頃、宗吉は、オランダ人ボイスによる百科事典の電気に関する記述部分を翻訳した『エレキテル訳出』と、これまでの自身の静電気研究と実験をもとに『阿蘭陀始制(おらんだしせい)エレキテル究理原(きゅうりげん)』を著わした。こうして電気に関する西洋文献の翻訳や、日本で初めて電気を科学的実験の対象としたことにより、「日本の電気学の祖」と呼ばれている。

文政6年(1823)には『西洋医事集成』を翻訳、『西洋医事集成宝函(ほうかん)』(本草編・治療編全35巻)として出版した。

晩年は、蘭学の指導者であったがゆえに大坂で起こった切支丹事件への関与を疑われたり、後継者と目してきた中天游に先立たれたりと、極めて不遇のうちにこの世を去ったという。享年69であった。


フィールドノート

4カ月で覚えたオランダ語4万語 ― その驚異の頭脳

橋本宗吉が江戸の芝蘭堂で覚えたオランダ語は4万。この数字がどれだけインパクトがあるのかみてみよう。

安永3年(1774)に『解体新書』を世に出した著者の一人である前野良沢は、長崎に遊学し、オランダの原書や出島の通詞から必死になってオランダ語を覚えた。それでも身につけた語彙数は6~700語程度であったとされる。辞書がなかった蘭学黎明期の先駆者の苦労が容易に想像できる。それから22年後の寛政8年(1796)、ようやく日本で初となる海上随鷗(うながみずいおう)(稲村三伯(いなむらさんぱく)の号)編の蘭和辞書『波留麻和解(はるまわげ)』(いわゆる江戸ハルマ)が出版された。[その後文化7年(1810)、藤林元紀(普山)編による江戸ハルマの簡略版『訳鍵(やっけん)』が世に出た。また、長崎出島商館長であったヘンドリック・ドゥーフがフランソワ・ハルマの蘭仏辞典をベースに著わしたものを長崎の通詞たちが編纂し、天保4年(1833)に完成したのが蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』(いわゆる長崎ハルマ)である。さらにその30数年後、長崎ハルマの簡略版に当たる桂川甫周(かつらがわほしゅう)編『和蘭辞彙(オランダじい)』(全3冊)が安政2年(1855)に出版された。]

宗吉は江戸ハルマが出版される6年も前に江戸に留学し、しかもわずか4カ月の滞在であった。蘭和辞書がない状況の中で、宗吉が果たしてどのような書物を用いてオランダ語を暗記したかは定かではない。おそらく大槻玄沢をはじめ門下生が所有するあらゆるオランダ語辞書(蘭仏や蘭英)やオランダ語で書かれた書物を借りて読みあさり、手当たり次第に単語を覚えていったのではないか。それも水が砂にしみこむように。そうとしか考えられない。

ちなみに現代の難関大学の受験に必要とされる英単語数は約2千語、書店で販売されている三省堂『グランドコンサイス英和辞典』の見出し語は1万1千語である。辞書らしい辞書がなかった時代、しかも読み書きは一般の町人程度しかできなかったはずの男が、初めて接する他国語を理解し4万語も覚えたというのである。江戸の玄沢や門下の高弟たちの目には、大坂の紋書き職人を出自とする一介の町人にすぎない宗吉の姿がどのように映っていたか。開いた口がふさがらず、唯々見守るしかない―そんな情景を想像したとき、なんとなく沸き起こる爽快感は一体どこから来るのであろうか。

宗吉が蘭医学者の宇田川榛斎(うだがわしんさい)や海上随鷗、そして江戸期を代表する地理学者の山村昌永(やまむらまさなが)ら錚々たる学者と並び、芝蘭堂四天王の一人と称えられたのもむべなるかなである。


蘭医・科学書を翻訳出版 ― 大坂蘭学の開花

とはいえ、宗吉はエレキテルへの興味から物理現象に関心を抱いたことはあっても、オランダ語を覚えた以外に日本語・漢語はおろか正式な教育を受けたことはなかった。いかに単語の記憶力が優れていても、実際書物に書かれている文章や内容を理解するのは一段と質の高い修養が必要である。後見人である元俊も重富もそのことは重々承知していたであろう。二人は宗吉にそれぞれの分野の素養を身につけさせるため、手元に置いて熱心に指導したと考えられる。宗吉の方も江戸留学の恩と期待に報いるため、二人の手伝いをしながら医学・薬学・地理学・天文暦学などの知識の習得に努める一方、オランダ語の書物の翻訳に取り組んだ。宗吉が絲漢堂で医者を開業できたのは、元俊の指導を受け診察の見習いと手伝いをしたおかげである。宗吉が本業として医業を目指したかどうかはわからないが、オランダ語を通じて身に着けた西洋医学の知識は豊富で、それを活かすために治療の経験を積むにこしたことはなく、持ち前の器用さもあって医者が務まったのであろう。宗吉はとくに外科が得意であった。しかし、その腕の方はというと当時の医者の番付で見る限り、世間の評価はそう高くはなかったようである。

東西両半球を描いた『喎蘭新訳地球全図』に続いて出版した『三法方典』は全6巻からなる。大阪府立中之島図書館に所蔵されている『三法方典』を閲覧すると、宗吉の能力、パワーがひしひしと伝わってくる。同書の「例言」に「原書は西医ウヲウテルハンリスの著なり 我元文二年に当て和蘭の一都ロットルダムの地に於て版行す」と出典を紹介し、翻訳にあたっての決め事を詳細に述べている。たとえば「薬品漢名を先にし和蘭名を後にして蘭の一字を冠(かむ)らし羅甸(ラテン)名の亜で羅の一字を冠らす。漢名未詳ものは和名を先にす」として宗吉らしい工夫を凝らしている。逐語訳とはいえ難解な化学用語は余程の理解力と洞察力がないと翻訳は不可能である。その優れた力量は、『三法方典』冒頭の序文で江戸の師大槻玄沢が「浪華人間大業者」と宗吉を称賛していることからもうかがい知ることができる。

また、宗吉は『三法方典』の巻末で、これまでの翻訳の成果として『内景洞視』『ショメール竒法拾輯』『トーマス解体書』『西洋産育全書』『遠西雑爼』『西洋天話』などの著述があることを紹介している。


日本の蘭学の歴史

ここで日本の蘭学の歴史を振り返り、宗吉の位置付けを改めて確かめてみたい。

江戸幕府はキリスト教禁止と貿易統制を徹底するため、中国船とオランダ商館以外との貿易を制限した。寛永18年(1641)にこれらの規制策が確立して以降、海外の文物の移入は限られたものとなった。

8代将軍吉宗は、享保元年(1716)から始めた「享保の改革」の一環としてキリスト教に関連しない洋書の輸入を解禁し、儒学者青木昆陽や本草学者野呂元丈(のろげんじょう)に命じてオランダ語を学ばせ、海外の知識の導入を図った。この政策によって西洋の学問・学術がオランダの書物を通じて導入されるようになり、特に実用的な医学の分野がその先鋒となった。



蘭学隆盛の画期となったのは、安永3年(1774)の『解体新書』の翻訳・刊行である。杉田玄白らが江戸小塚原刑場での刑死者の腑分けに立ち会い、「和蘭図に照らし合わせ見しに、一つとしてその図に聊(いささ)かに違(たが)うことなき品々」(『蘭学事始』杉田玄白)であることに「みな人驚嘆せるのみなり」(同書)であった。そして一同は、持参した『ターヘル・アナトミア』の翻訳を決意したのである。しかし、「ターヘル・アナトミアにうち向ひしに、誠に艪舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、たヾあきれにあきれて居たるまでなり」(同書)。そのような心理状態から悪戦苦闘の末に翻訳書『解体新書』は誕生した。『解体新書』の刊行によって、日本人は医学における西洋の知識の質とレベルを知ることができ、蘭学熱は一段と高まったのである。

『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業の中心であった前野良沢は、最初青木昆陽に学びその後長崎でオランダ語の修得に励んだ。共著者玄白の弟子大槻玄沢は江戸に蘭学塾「芝蘭堂」を開き、数多くの蘭学者・蘭学医を育てた。当時、芝蘭堂は日本の蘭学のメッカとなった。宗吉はその芝蘭堂で四天王の一人として一躍名を挙げることとなる。

玄白はその著『蘭学事始』下之巻で、自分の支派分流(この場合は弟子大槻玄沢の門下生)から津山藩藩医宇田川玄随(うだがわげんずい)、京都の小石元俊の次に宗吉を挙げ、「大坂に橋本宗吉といふ男あり。傘屋の紋かくことを業として老親を養ひ、世を営めりと。(中略)僅かの逗留の間出精し、その大体を学び、帰坂の後も自ら勉めてその業大いに進み、後は医師となりて益々この業を唱へ、従遊の人も多く、漸く訳書もなし、五畿、七道、山陽、南海諸道の人を誘導し、今に於けるいよいよ盛んなりと聞けり」としてその活躍ぶりを紹介している。

蘭学の普及に伴い、医学のほかに本草学(薬学)、天文暦学、地学、物理学、化学など、オランダの書物の翻訳が盛んに行われ、西洋学問は日本全国に広がっていく。とくに好奇心や向上心の強い土壌をもつ大坂では、芝蘭堂に学んだ宗吉をはじめ中天游、斎藤方策、さらに緒方洪庵などが中心となって勢力を伸ばし、江戸蘭学と肩をならべるほどとなった。かくしてその系譜は、宗吉(絲漢堂)→中天游(思々斎塾)→緒方洪庵(適塾→大阪大学)→福沢諭吉(慶應義塾→慶應義塾大学)とつながっていくのである。


「日本の電気学の祖」と呼ばれる理由(わけ)

既に紹介したとおり、宗吉は傘の紋書き職人であった頃からエレキテルに異常なほどの関心を持っていた。そのきっかけになったと思われる店が、現在大阪で再現されている。「大阪くらしの今昔館」(大阪市北区)に「異国新渡竒品珍物類・蝙蝠堂(こうもりどう)」として展示されている伏見町の唐物屋疋田屋杢兵衛(ひきたやもくべえ)の店がそれで、「摂津名所図会」に描かれたイメージどおり店の中央にオランダ製のエレキテルがデンと置かれている。傘職人宗吉は、得意先への往き帰りにこの西洋の珍奇な品に興味を抱き、足を止めては何度も店の者を質問攻めにしたことであろう。

大阪府泉南郡熊取町に平安時代からの名家「中家」の住宅がある。現在の建物は江戸時代初期に建てられたもので、南面する表門から入ると茅葺で入母屋造りの主家が堂々と控えている。この主家の西の庭に、樹齢600年といわれた高さ30mの松の大木が昭和初期まであった。宗吉は門人でもあった中喜久太と中盛意の二人に協力してもらい、庭の松を利用して雷が静電気であることを実証する実験(落雷を通電して焼酎を燃やす)を行った。この様子を描いた画(天の火を取りたる図)が『阿蘭陀始制エレキテル究理原』に挿入されている。描いたのは泉州の望遠鏡製作人で天文学に詳しい岩橋善兵衛(いわはしぜんべえ)である。この善兵衛をはじめ中家一族などの泉州人と宗吉や間重富も含めた交流があったことがしのばれる。件の松は昭和初期に落雷で倒れ、その後残った部分も撤去されて今はないが、その場所に「橋本宗吉電気実験の地」の石碑が建っている。

オランダのエレキテルを復元して日本に紹介したのは平賀源内であるが、単なる見世物としての扱いに終始したといわれる。一方、宗吉は得意のオランダ語を駆使しオランダの書物を読破、自らエレキテルを製作してその構造や静電気発生のしくみを解明しただけでなく、数々の実証実験を行い電気の何たるかを徹底的に追究した。このような姿勢と学問的アプローチが「日本の電気学の祖」と称される所以であろう。

残念ながら『阿蘭陀始制エレキテル究理原』は出版されることがなかったが、その内容は高く評価され6種類ほどの書写本が作られた。大阪府立中之島図書館には写本の他に、大正年間に翻刻(ほんこく)(写本を底本として再製)されたものが「大阪図書館蔵本」として所蔵されている。


私塾「絲漢堂」― 門人輩出、流れは適塾へ

御堂筋「南船場3」から東へ、心斎橋筋の次の交差点近くのアクサリーリフォーム店の前に「橋本宗吉絲漢堂跡」碑が立っている。

宗吉が開いた私塾「絲漢堂」からは、蘭学者中天游のほかに儒者で漢医の大矢尚斎(おおやしょうさい)、小石元俊の門下生であった斉藤方策(さいとうほうさく)、漢医で『阿蘭陀始制エレキテル究理原』の序文を書いた伏屋素狄(ふせやそてき)、産医・骨格医学の各務文献(かがみぶんけん)、町医の娘婿藤田顕蔵(ふじたけんぞう)などが蘭医として巣立っていった。中天遊は、宗吉と同じく江戸の大槻玄沢の芝蘭堂で学んだ後絲漢堂に入門した逸材で、宗吉の指導を受けるかたわら私塾「思々斎塾」を主宰、後に適塾を開く緒方洪庵などの人材を育てた。

文政10年(1827)の大塩平八郎が関わった切支丹事件で門人藤田顕蔵が逮捕され、宗吉にも嫌疑がかかり絲漢堂は閉鎖のやむなきに至った。翌年シーボルト事件(オランダ商館付の医官シーボルトが、日本地図の国外持ち出しをはかり国禁を犯したとする事件)が発生、蘭学者への風当たりがことのほか厳しくなり、宗吉は一時広島竹原在住の婿養子の許へ身を寄せざるをえなかった。この間、種々の偏見や迫害に抗して大坂の蘭学の火を守っていたのは天游であった。数年後いずれの事件も落着し、宗吉はようやく大坂に戻ったがその天游が病死する。すると後を追うように宗吉もこの世を去ったのである。

宗吉の新しい墓は大正時代に再建された。今は大阪市天王寺区の念仏寺の墓地に建っている。墓は3基あり、右端が当初のものだが表面の剥離がひどく全く読めない。宗吉の功績に比してその墓はあまりに小さく寂しい佇まいであった。



2019年2月

長谷川俊彦



 

≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・杉田玄白『蘭学事始』(岩波文庫)
 ・谷沢永一『なにわ町人学者伝』(潮出版社)
 ・藤本篤『なにわ人物譜』(清文堂)
 ・中野操『大坂蘭学史話』(思文閣出版)
 ・柳田昭『大坂蘭学始祖橋本宗吉伝 負けてたまるか』(くもん出版)
 ・貝塚市立善兵衛ランド編『善兵衛ランド要覧』
 ・本渡章『大阪古地図 むかし案内』(創元社)


≪施設情報≫
○ 橋本宗吉絲漢堂跡碑
  大阪市中央区南船場3
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「心斎橋駅」より徒歩約5分

○ 念仏寺・橋本宗吉墓
  大阪市天王寺区上本町4–2–41
  アクセス:近鉄大阪線「大阪上本町駅」より徒歩約10分

○ 中家住宅
  大阪府泉南郡熊取町五門西1–11–18
  アクセス:JR阪和線「熊取駅」より東南へ徒歩約15分

○ 善兵衛ランド
  大阪府貝塚市三ツ松216
  アクセス:水間鉄道「三カ山口駅」より徒歩約10分)

○ 大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」
  大阪市北区天神橋6–4–20
  アクセス:大阪メトロ谷町線「天神橋6丁目駅」すぐ

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