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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第19話 井原西鶴いはらさいかく(1642-1693年)

日本初のベストセラー作家

井原西鶴は江戸時代前期を代表する俳諧師・浮世草子作者。寛永19年(1642)、大坂の裕福な商家に生まれる。15歳頃から俳諧を志し、談林派の西山宗因に師事。21歳頃には作品の優劣を判定する「点者」として門下を代表する俳諧師となる。

32歳の春、大坂の生國魂神社で西山門下の俳人百数十人を集めて俳句を詠む「万句俳諧」を盛大に興業。これを『生玉万句(いくたままんく)』として出版し、俳諧師宗匠として華々しいデビューを果たした。34歳で妻を亡くしたときには一日に1千句を詠む追善興行を行い、これも『俳諧独吟一日千句』として出版。西鶴はこのときから肖像画でよく知られるような法体(僧侶)の姿になった。その後も一昼夜で1600句、4千句を独吟するなど発句の数を競う「大矢数(おおやかず)」にのめり込み、その前衛的作風から「阿蘭陀西鶴」と呼ばれた。


西鶴は自筆の句に自ら描いた絵像を配した歌仙絵様式の俳書を次々に刊行した。42歳で俳諧と決別し浮世草子『好色一代男』を発表。たちまち評判を呼び、2年後には菱川師宣の挿絵付で江戸でも出版され全国的なベストセラーとなった。この菱川師宣の挿絵は後の浮世絵出現のきっかけになったと言われている。この後も『諸艶大鑑』『好色五人女』『好色一代女』などを次々と発表。西鶴の作品は大坂、京都、江戸の三都で同時出版され人気流行作家の地位を不動にした。また、日本で最初の経済小説ともいわれる『日本永代蔵』、町人の大晦日の1日を活写した『世間胸算用』などの名作を遺した。

元禄5年(1692)に盲目の一女を亡くす。失意のうちに、翌年の元禄6年、中秋の8月10日、絶筆となった『西鶴置土産』の刊行を待たず「人間五十年の究まり、それさえ我にはあまりたるに、ましてや浮世の月見過ごしにけり末二年」と辞世の句を遺し、大阪の錫屋町の草庵で52歳の生涯を終えた。


生國魂(いくくにたま)神社で1万句、一昼夜で1600句!

地元では「生玉(いくたま)さん」の愛称で親しまれている生国魂神社は、大阪最古の神社である。江戸時代には大いに賑わいを見せ、安政年間に書かれた『摂津名所図会大成』には、その様子が絵と文で伝えられている。「茶屋軒を列ねて賑わしく傍邊の貸食屋(りょうりや)には荷葉飯を焚て進む去る程に遊客の手拍子きねが鼓の音に混じ三絃のしらべ神前の鈴の音に合して四時ともに繁盛なる」。この賑わいに見世物や落語の小屋などが軒を連ね、数々の興行が行われていた。

西鶴は延宝元年(1673)、32歳の時、神社の南坊で宗因門下の俳諧師150人余りを集め12日間にわたって万句俳諧興行を行った。その後も延宝5年(1677)には一昼夜に一人で1600句独吟興行を、延宝8年(1680)には4千句独吟を行い『西鶴大矢数』として出版した。西鶴を中心とした談林派の俳諧は、ショー的要素を取り入れてエンターテイメント性を高め、折からの大坂の出版業の発展もあいまって興行と出版の連携、現代で言う「メディアミックス」によって西鶴は人気俳諧師としての地位を確実なものとした。

境内を案内していただいた権禰宜・中村文隆氏は、「天下太平の江戸初期に大坂はわが国の物流の中心地、天下の台所と呼ばれて発展し、町衆が力をつけ 始め、その中から次々に新しい文化・芸能が生まれた。その最大の集積地が“生玉さん”の境内で、西鶴や上方落語の始祖・米沢彦八など多種多様な人材が活躍し、上方の文化・芸能が花開く舞台となった」と話された。鎮守の森に囲まれた境内の南坊跡には西鶴の像や織田作之助の銅像、米沢彦八の顕彰碑があり、生國魂神社と上方文化との密接なつながりをうかがい知ることができる。


上方に出版プロデューサーが続々出現

西鶴が俳諧や浮世草子の作家として世に出たのは、その才能に目を付けた書肆(しょし:出版社兼印刷所兼書店)が目覚しい経済発展を遂げる大坂に次々と誕生し、町民向けの絵入り仮名混じりの娯楽系出版物を中心に刊行したことや、製版技術の進歩や書籍の流通網整備を抜いては語れない。また、その背景には「大坂冬の陣」から50年余りを経て世の中が落ち着き、寺子屋や私塾の発達で上方の町人たちの文学的教養が高まったことも見逃せない。こうしたなか、軽妙洒脱で風俗詩的俳句をもって上方俳壇に登場した西鶴に、新しい売れる作家を求めていた大坂の書肆たちが注目したのである。新興の書肆・阿波座堀板本安兵衛は、西鶴が興行した万句俳諧を『生玉万句』として刊行。西鶴の連吟を武器とした自由奔放な俳句と洒脱な自筆の絵を取り入れた歌仙形式の絵発句集を次々に出版していった。

天和2年(1682)、42歳の西鶴は「射て見たが何も根もない大矢数」と、俳諧の世界から小説の世界に転身する。全く無名の書肆「思案橋荒砥屋孫兵衛可心」を版元に『好色一代男』を発表。これが浮世草子時代の開幕を告げる記念碑的作品となり、娯楽としての読者層の獲得と書籍の全国流通網整備を促し、貸本業という新しいビジネスを生んだ。

この時代の書籍は、作家の「清刷り」を版下にして、熟練した職人の彫師が製版を作り,刷師が刷り上げ和綴じ製本をして仕上げるもので、一度の版で100〜200部程度と大量生産はできず、値段も現在の価格でおよそ8千円程度と高価だった。つまり、書肆たちは出版にかかる獏大な初期投資を回収するために本の価格を高く設定し、貸本屋でその費用を回収するというシステムを構築したのだ。これには現在の映画産業とレンタルビデオショップの関係を見て取ることができる。道頓堀や心斎橋には40〜50軒もの書林(本屋)が軒を連ね、貸本業から自社出版以外の本や古本、浄瑠璃本、錦絵、役者絵、歌舞伎や文楽の興行のお知らせなどを陳列して人々を集め、情報発信基地としての役割を果たしていた。ベストセラー作家、西鶴の浮世草子は「阿波座堀板本安兵衛」を始め「思案橋荒砥屋孫兵衛可心」「深江屋太郎兵衛」など複数の書肆から出版され、本屋の店頭に並べられた。この頃になると大坂には本を担いで宅配する貸本屋も現れ、庶民の間で読書が娯楽として定着していった。

また道頓堀には人形浄瑠璃の芝居小屋が立ち並んだ。西鶴は京都の宇治加賀掾の道頓堀旗揚げのために『暦』『凱陣八島』を書いた。これに対して竹本義太夫は新進の作家・近松門左衛門と組んで『賢女の手習並びに新暦』『出世景清』を上演、〝道頓堀世紀の競演〟と評判を呼んだ。


これぞ大坂、これぞ町人を活写

西鶴は毎年のように書肆の求めで好色本を書き続ける一方、元禄元年(1688)、北は山形県庄内の酒田から南は九州長崎まで、日本中の豪商を取材した日本で最初の経済小説『日本永代蔵』を発表。大坂、京都、江戸の三都で同時発売され、ベストセラーとなり増版を重ねた。その一節。現在の中之島での、米相場の描写である。

「難波橋より西、見渡しの百景。数千軒の問丸、甍を並べ、白土、雪のあけぼのを奪う。杉ばへの俵物、山もさながらに動きて、人馬に付けおくれば、大道とどろき地雷のごとし。上荷・茶船、かぎりもなく川浪に浮びしは、秋の柳にことならず。米さしの先をあらそひ、若ひ者の勢い、虎ふす竹の林と見え、大帳、雲をひるがへし、そろばん、あられを走らせ、天秤、二六時中の鐘にひびきまさって、その家の風、暖簾吹き返しぬ」。歯切れよく勢いのある言葉で風景を活写し、読者をぐいぐいと引き込んでいく。

一方、こちらは元禄年5年(1692)発表の、大晦日の町人たちの悲喜こもごもを描いた『世間胸算用』からの一節。

「けふの一日、鉄(かね)のわらんじを破り、世界を韋駄天の駆け回る如く、商人は勢いひとつの物ぞかし」。商人、町人、貧乏長屋まで、切羽詰まった年越しの金のやりくりや質屋との駆け引きを、金に翻弄される哀れさとともに、それを面白がりつつ温かい共感を寄せて描いている。

この『世間胸算用』の翌年、西鶴は52歳でこの世を去る。まさに韋駄天の如く、詠みに詠み、書きに書いて走り抜けた人生だった。西鶴亡き後、弟子の北条団水により、『西鶴置土産』『西鶴織留(おりどめ)』『西鶴俗つれづれ』『西鶴万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)』『西鶴名残の友』などの遺稿集が次々と出版された。明治以降、西鶴文学は幸田露伴や尾崎紅葉、樋口一葉や織田作之助などに影響を与えた。毎年、命日の8月10日には菩提寺の誓願寺で研究者やファンが集い、西鶴忌が行われている。


2016年5月
(2017年11月改訂)

橋山英二



[井原西鶴の主な作品]

▉ 俳書

『生玉万句(いくたままんく)』寛文13年(1673)刊(3月頃に行われた万句俳諧)
『哥仙大坂俳諧師(かせんおおさかはいかいし)』延宝元年(1673)刊
    (36人の俳諧師の発句に西鶴の絵を配した独特の絵俳書)
『誹諧独吟一日千句(はいかいどくぎんいちにちせんく)』延宝3年(1675)刊
    (亡くなった妻の追善独吟千句に師友弟子などの追善発句を加えたもの)
『古今誹諧師手鑑(ここんはいかいしてかがみ)』延宝4年(1676)刊
    (貞門談林の俳人の短冊を網羅して模刻したもの)
『西鶴大矢数(さいかくおおやかず)』延宝9年(1681)刊(4000句独吟)
『俳諧女哥仙(はいかいにょかせん)』貞享元年(1684)刊
    (女俳諧師三十六人を選びその句と姿と小伝)


▉ 好色物

『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』天和2年(1682)刊
    (版下は西吟、挿絵は西鶴)
『諸艶大鏡(しょえんおおかがみ)』貞亨元年(1684)刊
    (書名に「好色二代男」の肩書。版下挿絵も西鶴だが、異説も)
『椀久一世の物語(わんきゅういっせいのものがたり)』貞享2年(1685)刊
    (唯一伝存した版本は関東大震災で焼失)
『好色五人女(こうしょくごにんおんな)』貞享3年(1686)刊
    (西鶴作と明記したものは一つもないが、西鶴作品として扱われている)
『好色一代女(こうしょくいちだいおんな)』貞享3年(1686)刊
    (作者の記載はないが、西鶴の著作として挙げられている)
『男色大鑑(なんしょくおおかがみ)』貞享4年(1687)刊
    (副題「本朝若風俗」。署名のない序文に「鶴永」「松寿」の二印)
『好色盛衰記(こうしょくせいすいき)』貞享5年(1688)刊
『西鶴置土産(さいかくおきみやげ)』元禄6年(1693)刊
    (門人北条団水によって整理された遺稿)


▉ 武家物

『武道伝来記(ぶどうでんらいき)』貞享4年(1687)刊
    (署名のない序文に「鶴永」「松寿」の二印)
『武家義理物語(ぶけぎりものがたり)』元禄元年(1688)刊
    (署名のない序文に「鶴永」「松寿」の二印)
『新可笑記(しんかしょうき)』元禄元年(1688)刊
    (「難波俳林西鵬」の署名、序文には「松寿」の印)


▉ 町人物

『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』元禄元年(1688)刊
    (『織留(おりどめ)』の序文に西鶴作として載る)
『胸算用(むなざんよう)』元禄5年(1692)刊
    (『世間胸算用(せけんむなざんよう)』目次の面にはただ「胸算用」とある)
『西鶴織留(さいかくおりどめ)』元禄7年(1694)刊
    (門人北条団水によって整理された遺稿)


▉ その他

『難波(なにわ)のかおは伊勢(いせ)の白粉(おしろい)』天和元年(1681)刊
    (役者評判記、挿絵は西鶴)
『凱陣八島(がいじんやしま)』貞享2年(1685)刊(浄瑠璃)
『暦(こよみ)』貞享2年(1685)刊(浄瑠璃)
『大下馬(おおげば)』貞享2年(1685)刊
    (『西鶴諸国はなし』とあるが目次の項には『大下馬』とある)
『本朝二十不孝(ほんちょうにじゅうふこう)』貞享3年(1686)刊
    (署名のない序文に「鶴永」「松寿」の二印)
『懐硯(ふところすずり)』貞享4年(1687)刊
    (作者の記載はないが、西鶴作品として扱われている)
『本朝桜陰比事(ほんちょうおういんひじ)』元禄2年(1689)刊
    (裁判物。作者の記載はないが、西鶴作品として扱われている)
『一目玉鉾(ひとめたまぼこ)』元禄2年(1689)刊(絵入地誌)
『万の文反古(よろずのふみほうぐ)』元禄9年(1696)刊
    (書簡体小説。門人北条団水によって整理された遺稿)
『西鶴名残の友(さいかくなごりのとも)』 元禄12年(1699)刊(遺稿。版下西鶴)


≪参考文献≫
 ・生國魂神社『摂津名所図絵大成』
 ・本屋安兵衛店引札『浪花繁昌記』
 ・歌仙大坂俳諧師『定本西鶴全集第十巻』
 ・井原西鶴『好色一代男』
 ・井原西鶴『日本永代蔵』
 ・『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』朗文堂刊
    (江戸の印刷メディア手法、ジャンル、市場 鈴木俊幸著述部分)
 ・P.F.ドラッカー『明日を支配するもの』ダイヤモンド社刊
 ・塩原哲司『ベストセラー作家誕生』(株)インフォルム



≪施設情報≫
○ 生國魂神社
   大阪市天王寺区生玉町13-9
   電:06−6771−0002
   アクセス:地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」より徒歩3分

○ 誓願寺
   大阪市中央区上本町西4−1−21
   電:06−6761−6318
   アクセス:地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」7番出口より徒歩約5分
       近鉄大阪線「大阪上本町」駅8番出口より徒歩約5分

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