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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第86話 中村歌右衛門(初代)
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第86話 中村歌右衛門なかむらうたえもん(初代) (1714 〜 1791年)

上方歌舞伎で敵役(かたきやく)の第一人者

初代中村歌右衛門は、正徳4年(1714)加賀国(現在の石川県)金沢で医者大関俊庵の次男として生れる。本名は大関榮蔵、屋号は加賀屋。若いころから芸事に秀で、地方の旅芝居一座に加わって実力をつけた。29歳のとき京の早雲座の舞台に立ったのをきっかけに、それまで名乗っていた中村歌之助から中村歌右衛門に名を改める。

寛保2年(1742)に大坂へ出てから次第に人気を博し、宝暦3年(1753)大西芝居で歌舞伎作家並木正三(なみきしょうぞう)の作品『けいせい天羽衣(あまのはごろも)』に山名宗全(やまなそうぜん)の役で出演、これが敵役役者としての出世作となる。また、正三が考案した、歌舞伎史上初めて舞台がセリ上がる大道具が使用されたのもこの作品である。

大きな目や高い鼻を持った歌右衛門の独特の容姿が、正三のお家騒動作品に登場する敵役にぴったりとはまり、その後も正三の代表作に数多く出演した。上方において敵役で地位を築いた最初の役者は、元禄から宝永にかけて活躍した初代片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)であるが、歌右衛門は宝暦期敵役の第一人者として認められ「悪の開山」とも呼ばれた。

宝暦7年(1757)、江戸に下り市村座に出演するなど大いに活躍し、京・大坂・江戸三都の人気役者となる。また共演が縁となり同じ敵役で実悪を得意とした四代目市川團十郎との交流が長く続いた。

天明2年(1782)、弟子の中村東蔵(とうぞう)に名を譲り、自らは中村歌七(かしち)を名乗って歌舞伎作者として創作に励む傍ら舞台にも精力的に出演していたが、寛政3年(1791)77歳で没する。

歌右衛門亡き後、上方歌舞伎の大名跡は初代の実子であらゆる役をこなし上方・江戸交流の要となった三代目歌右衛門、明治後期から昭和初期にかけての代表的女形で歌舞伎界の重鎮であった五代目歌右衛門、そして戦後に至り五代目の次男で不世出の女形、若くして天覧舞台出演、芸術院会員、文化勲章受章の栄に輝くなど文化・芸能界の頂点を極めた六代目歌右衛門へと引き継がれた。


フィールドノート

上方歌舞伎界の仕組み


江戸時代の歌舞伎界の仕組みは、大坂と江戸では大きく違っていた。江戸では官許を得た三座(中村座・市村座・森田座)を「大芝居(おおしばい)」、官許がなく櫓(やぐら)も花道も禁止され寺社の境内で興行する宮地芝居(みやちしばい)などを「小芝居(こしばい)」としてはっきり区別していた。大芝居に属する役者は小芝居には出演せず、その逆も同様であった。

一方大坂では、町奉行の官許を得た興行主(名代(なだい))が櫓を上げて興行する「大芝居」(道頓堀の芝居小屋では中之芝居(なかのしばい)・角之芝居(かどのしばい)・大西芝居(おおにししばい))、寺社境内で興行する「中芝居(ちゅうしばい)」と「子供芝居」の3層の構造になっていた。さらに構造だけでなく「実力を重んじる上方では、子供芝居から出発して中芝居へ進み、修行を重ねてやがて大芝居へ、という過程を踏むことが多かった。大芝居へ進んでも人気が落ちれば中芝居へ逆戻りするし、大芝居との契約がうまく成立しなければ、あえて中芝居へ出演する役者もいた」(『上方歌舞伎と浮世絵』北川博子)という。しかも、「名門の子息であっても子供芝居から中芝居を経て大芝居へと進むのが基本だった」(前同)のである。

幕府のお膝元である江戸は格式重視の武家中心の社会である。一方、上方は町人中心の社会で歌舞伎も創造性、実力、人気そして努力次第で千両役者に昇りつめる(もちろんその逆もあるが)ことが可能な開放的な仕組みを持っていたといえよう。三代目歌右衛門も、この上方の独自の3層構造のシステムを経て大芝居に上り、大坂のみならず江戸でも大人気の役者になったのである。


ファンが支えた上方歌舞伎 ― 贔屓連中(ひいきれんちゅう)・貼込帖(はりこみちょう)・役者絵

江戸時代のある時期、大坂では「笹瀬(ささせ)連中」「大手(おおて)連中」「藤石(ふじいし)連中」などといった歌舞伎熱愛者で作られた贔屓連中と呼ばれる集団があり、顔見世を中心に芝居の興行前後の諸行事に参画したという。

江戸や京都の役者の船乗り込みから始まる顔見世(役者が交代し新しい顔ぶれで興行をスタートさせるイベント)の一連の行事に加わりその運営を支援した。たとえば、限られた四つの連中が座付引合(ざつきひきあい)(顔見世に出演する新しい役者や座本を紹介する行事)に参加し、役者に祝辞や祝い品を贈る手打(てうち)を行った。また、中之芝居と角之大芝居の舞台の大幕は笹瀬と大手の二つの連中だけが贈ることになっており、それ以外の連中は桟敷の紅白幕や櫓にかける幕、さらには浜側の茶屋に吊るす箱提灯などを競うようにして贈り、物心両面にわたり上方歌舞伎(芝居小屋・役者)を支えた。

連中が歌舞伎に対して使う費用は膨大で、「並みの経済力では連中の一員たることは不可能」だったという。近松研究の泰斗・松平進(1933~2000)は、「観客」という新たな分野で演劇研究の幅を広げるべきとして『ひいき連中について―道頓堀一七八九~一八二九』を著わし、以上のような熱烈贔屓連中グループの存在を紹介している。

ところで、江戸と上方の歌舞伎界の仕組みが異なるように、歌舞伎愛好者の個々の行動や役者絵にも上方独特のものがあった。上方の熱心な歌舞伎ファンは、贔屓の役者に関する番付をはじめ役者絵、摺物、肉筆画、本の切り抜き、織物の端切れなどあらゆる資料を一定の大きさに切り分けて「貼込帖」なる帖面に貼り付けて大切に保存したのである。早稲田大学演劇博物館や関西大学図書館に所蔵されている『許多脚色帖(きょたきゃくしょくじょう)』もその例で、いずれも上方歌舞伎の頂点に立った三代目歌右衛門関係の資料が数多く貼り込まれている。これらの貼込帖がファンの間で回覧され、贔屓役者に寄せる共通の思いを増幅させていくという、大坂ならではの歌舞伎を支える文化活動が盛んであったようだ。

大坂の絵師は、役者絵や美人画、武者絵など、なんでもこなす江戸の浮世絵師とはかなり異なっていた。大坂の絵師は自分自身が歌舞伎に傾倒し、贔屓の役者を描くことだけに専念していたのである。制作方法も江戸のような木版画ではなく、柿の渋紙や桐油紙(とうゆがみ)で型紙を作って刷るという手法(合羽摺(かっぱずり))を用いた。

大坂の浮世絵といえば役者絵であり、技量は別にして形式美から離れ写実的で役者の人間性が生々しく描かれており、江戸浮世絵とは異質の特性を持つ。そのため海外からは「OSAKA PRINT(大坂絵)」とも呼ばれている。

貼込帖、役者絵の存在とそれらの背景を見るにつけ、上方歌舞伎は数多くの目の肥えた市井の歌舞伎ファンに支えられながら独自の歌舞伎文化を育んできた歴史を思い知らされる。

大阪難波の法善寺の手前に、「上方浮世絵館」の看板を掲げた小さな美術館がある。館長の高野征子さんは平成13年(2001)、自身がかつて喫茶店を営業していた場所に、かねて思い描いていたこの美術館を開館した。高野さんは、小さいからこそ来館者にアットホームで心地よい鑑賞空間を提供することに加え、その昔、千両役者が行き交ったなにわ大坂のエンターテイメントのすべてを満喫できる立地にあって、他の美術館にはない独自性(持ち味)を強調する。三代目歌右衛門の気風(きっぷ)にぞっこんの高野さんは、集めた役者絵を通して上方歌舞伎の粋を今に伝えようと奮闘している。


「芝翫香(しかんこう)」 ― 大阪の地位と富の象徴



初代歌右衛門の実子の三代目歌右衛門は、上方歌舞伎のトップスターともいうべき存在だった。絵も俳句もものにし、才覚に長けた彼は舞台で使う鬢付(びんづ)け油や帯留め、簪(かんざし)、煙管(きせる)などの小物を販売する店「芝翫香」を心斎橋の大丸前に出店した。とくに、自分の俳名で晩年の僅かな期間名跡として使った「芝翫」をとって「芝翫香」と名付けた鬢付け油は、高級・高額品にもかかわらず飛ぶように売れたという。現代でいえば、人気タレントのブランドショップといったところだろう。

その後、歌右衛門が活動の拠点を一時江戸に移すにあたり、番頭の熊五郎に店を譲った。時代が下り、大阪は近代日本の商工業の中心となる。それらの担い手である資本家や経営層が執り行う結納の場には、「芝翫香」の名入りの箱に納めた高価な品々が並んだという。その光景はまさに地位と富の象徴とされた。上方が育んだ芝翫=歌右衛門の人気と格式がそのような評価を生んだといえよう。

現在の「芝翫香」は、当時の番頭であった木下金助の代から木下家が経営に携わっている。同家と歌舞伎界との縁は続いており、木下家当主は七代目中村芝翫の後援会長を務め、その七代目亡き後も中村勘三郎(故人)を筆頭とした「成駒屋」一門と親戚同様のお付き合いをしていると聞く。

以上、同社の沿革について芝翫香の武藤取締役からお聞きした。この日は大晦日まで1週間足らずのクリスマス当日であったが、外の喧騒とは打って変わり静かで淡々と話されたその内容は、まことに濃密で興味深いものであった。毎年新入社員に前述の「芝翫香名入りの結納の話」を必ずするそうで、それが芝翫香という会社のアイデンティティを理解してもらえる最も効果的な教育方法だという。

大坂出身の三代目歌右衛門(芝翫)となにわ商人の切っても切れない縁が現代にまで繋がっているという、なんとも爽快でうれしい話ではないか。その芝翫であるが、平成28年(2016)10月、人気役者・中村橋之助が父の名跡を継ぎ八代目芝翫を襲名した。芝翫香の社員の皆さんのモチベーションは大いに上がったことであろう。


船乗り込みで始まる大阪「七月大歌舞伎」


道頓堀「大阪松竹座」恒例の「七月大歌舞伎」は水都大阪らしく船乗り込みで始まる。

江戸時代、京都や江戸から来た歌舞伎役者が大坂で興行を打つにあたって、顔見せを兼ねて一種の儀式として行われていた。なかでも、三代目歌右衛門が大坂に戻ったときの船乗り込みの歓迎と賑わいぶりは天神祭りの船渡御をはるかに凌いだほどで、今でも語り草になっているという。船乗り込みはその後長らく途絶えていたが、昭和54年(1979)5月、「関西で歌舞伎を育てる会(現『関西・歌舞伎を愛する会』)」の公演を機に復活した。初夏の大阪の風物詩として定着し、東京の人気役者ばかりでなく関西出身の役者にも注目が集まる恒例イベントとなっている。

平成26年(2014)6月29日、好天の下、坂田藤十郎をはじめ役者たちは船に分乗して天満の八軒家浜を出発した(筆者も同乗の機会を得た)。大川、東横堀川そして道頓堀川を航行、約1時間後、橋上や両岸の鈴なりとなった大勢のファンが待つ戎橋に到着。歓声と拍手で辺り一帯は歓迎ムード一色となった。船を降りて参加役者全員が松竹座前で記念の手拭撒きを行い、最後は手締めで船乗り込みの行事を締めくくった。道頓堀川や松竹座前を包んだこの日のただならぬ熱気と歓声は、上方歌舞伎復活を願う大阪市民の応援コールのようであった。


三代目と四代目の墓


大阪市中央区、谷町9丁目交差点の北東側にある日蓮宗正法寺に三代目中村歌右衛門(初代中村芝翫)の墓碑が建つ。三代目中村翫雀(初代中村鴈治郎の父)の建立によるもの。墓石には「歌唄院宗讃日徳初信士」の戒名が刻まれている。初代は、加賀国の出身であったため、墓は六代目歌右衛門によって金沢市に建立されているという。

正法寺筋向かいの日蓮宗常国寺には四代目歌右衛門(二代目中村芝翫)の墓碑が建ち、その左隣に初代中村鴈治郎の墓が並んで建っている。四代目歌右衛門は嘉永5年(1852)没、初代鴈治郎は万延元年(1860)生れであるので両者は互いに顔は知らない。

初代鴈治郎は、四代目歌右衛門の養子となった三代目翫雀の子である。明治後期から昭和初期にかけて大阪で絶大の人気を誇った鴈治郎は、五代目歌右衛門をつぐチャンスもあったが、先に名乗りをあげた東京の五代目中村芝翫が襲名することで決着したというエピソードも伝わっている。

平成25年(2013)、六代目没後空席となっていた歌右衛門の名跡を中村福助が襲名することが発表された。しかし直後に本人が病に倒れた。5年近い療養を経て、平成30年(2018)9月、福助は漸く舞台復帰を果たした。七代目歌右衛門の誕生は、福助の完全復活にかかっている。



2019年2月

長谷川俊彦



 

≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・今尾哲也『歌舞伎の歴史』(岩波新書)
 ・松平進『ひいき連中について―道頓堀一七八九~一八二九』(『近世文芸』30号・日本近世文学会)
 ・北川博子『上方歌舞伎と浮世絵』(清文堂出版)
 ・中村歌右衛門・山川静雄『歌右衛門の六十年』(岩波新書)
 ・演劇界臨時増刊号『歌舞伎の四百年』(演劇出版社)
 ・大阪歴史博物館・早稲田大学坪内博士演劇博物館編図録『日英交流 大坂歌舞伎展―上方役者絵と都市文化―』


≪施設情報≫
○ 上方浮世絵館
   大阪市中央区難波1–6–4
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線・四つ橋線・千日前線「難波駅」より徒歩約10分

○ 芝翫香本店
   大阪市中央区南船場4–3–2
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「心斎橋駅」より徒歩約2分

○ 大阪松竹座
   大阪市中央区道頓堀1–9–19
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線・四つ橋線・千日前線「難波駅」より徒歩約1分

○ 正法寺・三代目中村歌右衛門墓
   大阪市中央区中寺2–4–27
   アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町九丁目駅」より徒歩約3分

○ 常国寺・四代目中村歌右衛門墓
   大阪市中央区中寺2–2–15 
   アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町九丁目駅」より徒歩約3分

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