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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第68話 小野妹子おののいもこ (生没年不詳)

大陸から文化や制度をもたらした外交大使

現在の滋賀県の豪族出身。飛鳥時代推古朝(593~628)の遣隋使として2度派遣される。和珥氏(わにうじ)の一族。史書での初出は「『日本書紀』推古15年(607)7月3日、大礼小野臣妹子を大唐(隋)に遣わされた」とある。聖徳太子の命で国書を持ち隋に渡った。隋での呼び名は字音から「蘇因高」と呼ばれる。そのときの冠位は大礼であった。

『隋書』によれば、「日出処の天子、書を日没処の天子に致す。恙(つつが)なきや」という有名な国書を携えた。隋の2代皇帝・煬帝はその無礼に激怒したという記録が残る。怒りの理由について、かつては「日出処・日没処」に、倭が隋に対して優越か対等の関係にあるというメッセージを込めたためと理解されることが多かったが、現在は、煬帝を怒らせたのは「日出処」ではなく、大王(天皇)を「天子」と表現したから、という異説が広がっている。

翌、推古天皇16年(608)、隋使の裴世清(はいせいせい)らを伴って帰国する。帰途、隋の国書を百済人に奪われたと報告したが、国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたので、自ら破棄したともいわれる。そのため群臣は妹子の責任を問い、流罪に処すべきだとしたが、天皇は「軽々に処罰してはならぬ。大唐の客人への聞こえもよくない」と、これを許した。

翌年、裴世清の帰国に際し、ふたたび大使となり唐に渡った。僧旻(みん)、高向玄理(たかむくのくろまろ)、南淵請安(みなみぶちじょうあん)らの学問僧、留学生ら8人が同行した。翌年、小野妹子は大礼から大徳冠に昇進したらしい。

その後の、消息は不明。これほどの業績と地位がありながら史書から消えたとは不思議の一言につきる。

小野妹子が隋から日本にもたらしたものには、国を律す国制だけではなく、冠位を表す礼制を始め、楽器を演奏することや、庶民の生活では、手食から箸や匙を使う文化、花を活けるという習慣であった。これらは、深く、長く、今日までつながっている。


フィールドノート

小野妹子がもたらしたこと

取材を進めるうち、史書から消えた小野妹子は、大阪をはじめ京都、滋賀では今も私たちの生活の間近に生き続けていることが確認できた。このことは、妹子という人間はいかに偉大で、政治の場からは消えても存在を消すことはできないということを教えてくれる。


最古にして最大の華道の流派「池坊」

― 六角堂最初の住職は小野妹子 ―

六角堂の正式名称は紫雲山頂法寺。587年に聖徳太子が建立し、初代住職は遣隋使で知られる小野妹子といわれている。


「聖徳太子が、大阪の四天王寺を建てるのに材木が必要だとのことで、山背盆地にこられました。その時に家臣の小野妹子が付き従っていたのです。奈良の方から北上して、この辺りに来られたときに、泉が湧き出て池になっていて、太子が身を清めようとその池に入られたのです。が、常に持ち歩いていた観音様の像を池の畔の木に架けて池に入られたのですが、観音様はその木から離れなくなってしまったのです。そして、観音様からこの場所にとどまって人々を救いたい、とのお告げがあったため、ここにお堂を建てました。これが六角堂の始まりといいます。太子はずっとここにいるわけにはいかないので、臣下の小野妹子が出家して寺の主になりお守りしたのです。今風にいえば初代住職になったのですね。ここで始まった華道が、池坊の起源です。ですから池坊では妹子のことを道祖といっています。その時の僧侶として付けた名は『専務』です。以後、池坊の家元は、代々『専』の字に一文字加えた名前となっています。今の家元は、45世です」。池坊中央研究所の主任研究員・細川武稔さんは話す。


大阪にも有力な門弟がいた

池坊には、妹子の仏に仕える精神が華道という形に昇華し、現代に受け継がれているが、大阪にも有力な門弟がいた。細川さんは、「今から320年も前の江戸時代のことです。元禄4年(1691)に奈良東大寺大仏の修理が完成しました。翌年の大仏開眼供養には、京都と大阪の門弟から立花一対が左右それぞれに献花されています。大仏の前に大きな花瓶がありまして、今は銅製の造花が入っていますが、法要のときには高さ9m以上もある松が使われています。大阪の方は藤掛似水(ふじかけじすい)といい、花瓶の蝶をデザインした耳が付けられているところに「藤掛似水門葉」という銘があり、当時の最有力門弟でした。ですからこういう大事な役を担ったのです」。

「仏に花を供えるということは古 くからインドにあった風習です。それに、花は仏の慈悲の心を表すものといわれています。そして、一番有名なお経に法華経というお経があります。また華厳経もあります。もともと仏教と花は関係が深いということになりますね」と続ける。

現在、京都市内にある西国三十三所・第18番札所の六角堂は、都会のオアシスとして、華道を目指す人々のみならず市民の憩いの場となっている。


小野妹子の八男が開祖の願泉寺

小野妹子は正史にその名が出てくる以外は謎だらけだが、取材を通してその子供は8人以上いたことが見えてきた。

代々小野妹子の子孫が住職と伝わる大阪市浪速区大国町の願泉寺は、妹子の八男多嘉麿(たかまろ)(『浪速区史』には多嘉丸)義持(よしもち)が開祖という。

現住職の44世小野真龍氏に話をうかがった。

「願泉寺の住職を代々受け継ぐ小野家は、妹子の血統をずっと継いできたといわれています。寺は幾度もの火災に遭い、系譜図自体は焼けてなくなってはいるものの、傍証する記録などは役所や、本願寺に残っています。そして、何よりも既成事実が積み重なってきている。ここに庫裏を構えているという事実が情況証拠であると思います」。

そして、寺の歴史へと話は移る。

「今から1400年も前のことです。義持は聖徳太子に奉仕して、物部守屋討伐に際してしばしば大きな手柄を立て、その賞として河内国日下(くさか)の荘に、田地七百代(たい)を賜って、難波の海浜に住まいしていました。推古天皇元年(593)10月、荒陵(あらはか)の山に四天王が建てられるとき、諸国から海をとおって運ばれてきた材木が義持の館の近くに集積されたのです。いまの「木津」という地名の起りです。その時に太子の命で義持が、集積した材木を管理・運搬するといった土木長官みたいな役を担っていたようです。しかし、巨木を荒陵の山へ運搬することは大難事でした。ある夜、鼬(いたち)が夢にあらわれて、『我はこの地に永く住まうもの、わが足跡にそって掘割を作るように』とのお告げがあり、鼬川をひらいて木材を運ぶことができたといいます」。

鼬川は後世、難波、木津の市場の発展とともに子守歌「ねんねんころりよ…大根をそろえて船につむ。船につんだらどこまで行きやる、木津や難波の橋の下…」と歌われるまで有名になった。

「義持はその功績があったので、太子より無量寿院という寺号をいただき庵をはじめた。これがこの寺の開基です」。

当初の境内は現在地より西北数百m、古い字名でいえば「堂西」のところにあった。

「鎌倉時代初期の話ですが、21世秀意のとき、師事した天台座主(ざす)の慈円和尚が当寺を訪れて、遠く西の方に見える播磨や淡路の景色を眺めて、『高きに登らずして遠く眺望を恣(ほしいまま)にするには、独りこの勝地にあり』とほめたたえ、山号を木津山と揮毫したといいます」。

その後、願泉寺は天台宗から浄土真宗の流れをくむ寺になった。27世乗教は、京都東山にて本願寺第8世蓮如上人に会い、難行の聖道(しょうどう)を捨てて易行他力の念仏の大道に入ることを決心する。そして29世乗空のとき、応仁の乱の兵火をうけて寺は焼失。境内を元あった「堂西」から現在の地「大国2丁目」に移し堂宇を再建した。


石山法難と日下(くさか)山願泉寺


前後11年にわたる石山法難の経緯は史上稀に見るものであったが、31世定龍は現在の大阪城の地にあった石山本願寺に定衆として仕え、武勇に秀で、石山合戦において手柄をあげる。

「定龍は、木津、高津の門徒の面々をひきいて、本願寺第11世顕如上人の危急を救い、兵糧を運び、上人が紀州へ下向されるに際しては、身辺の警護にあたるなど、その活躍に目覚ましいものがありました。その手柄を賞して、本願寺次世准如上人のとき、本願寺の「願」の字を許され、寺号を願泉寺と改め、また由緒深い日下の姓を山号とするように仰せられ、その後は「日下山願泉寺」と称するようになったのです」。

その後も幾度か火災にあいながらも、名勝庭園の指定を受けて、一躍大阪の名所となった庭園のみが旧態を残し、現在の本堂は昭和22年(1947)に再建したものである。


雅楽も妹子の因縁

小野住職は、願泉寺以外で妹子の子孫であると考えられるものの一つに、天王寺舞楽があるという。

風雅の流れは、かねて武野紹鷗や千利休とも親交があって、風雅を解した31世定龍のときにはじまるようだ。が、その伝統は後の住職にも受け継がれ、36世降龍は聖護院門跡盈仁(えいにん)法親王が願泉寺に滞在したとき、天王寺楽人を招いて共に管絃を奏し、また自ら横笛を製作するなどして法親王より「紫舟」の命を賜るなど風雅の道に没頭する余り、寺務職を次弟にゆずる。

「注目すべきは私の曾祖父41世経龍。16歳という若さで住職を継ぐのですが、明治初年以来の時流の変転に処して寺の近代化を図り、寺の大修理をして面目を一新したのです。そのかたわら、降龍以来の雅楽に堪能で、『樟蔭』と号して明治のはじめに天王寺舞楽再興を志し、仲間と共に大阪雅亮会(がりょうかい)を組織して多くの門弟を育成したのです」。

しかし、第2次世界大戦の戦火によって雅亮会も大きな打撃を受け、再び天王寺舞楽継承の危機に見舞われる。その子、42世摂龍は先代の遺志を継ぎ、戦後の雅亮会の復興に取り組む。幼少から父樟蔭に雅楽の手ほどきを受けて育ち、大学在学中にはオーケストラでチェロを担当、東洋、西洋どちらの音楽にも通じた音楽家だったようだ。

現在雅亮会は正式名を「天王寺楽所(がくそ)雅亮会」とし、事務所を願泉寺に置き、現44世住職の真龍氏がその伝承を受け継いでいる。


「小野家が天王寺舞楽の中心に位置づけられ、いまだに大きな影響を与えているということも、ここに天王寺楽所の事務所があることも四天王寺に縁の深い妹子がいたから。この寺と天王寺舞楽、妹子の因縁を感じます」。

そして、「妹子のことは、歴史を習いだした小学生のときには気になり出しましたが、その血統だということを知ったのは高校生のとき。このことは、その後の私の運命に大きく関わってくるのです。それは1300年以上も前から、代々仏教をやってきたということ」。

真龍氏は、大学で法律を学び、卒業すると法律家になりたかったという。しかし一方では、寺を守っていくことも大事だという感覚がずっとあり、後に宗教研究者の道に。

「この寺も私の運命も妹子が聖徳太子に仕えた時点で決まっていたということですから。それが仏教と切り離せない話になったのだと思うと、めまいを覚えます」。

小野家のご長男は現在大学生。既に僧侶の資格も取得し、平成30年(2018)4月から雅楽の後継者育成機関である伝習所に入門した。

小野妹子がその道を歩んだように、小野家にはその血統が脈々と生き続けているようだ。


わが国最初の出家者は女性だった

敏達天皇13年(584)9月、鹿深臣(かふかのおみ)が百済から持ち帰った弥勒石像1体と、同じく佐伯連(さえきのむらじ)が持ちかえった仏像1体を馬子が請い受けた。

馬子は継体朝に渡来した司馬達等(しめたつと)の娘で当時11才の嶋を出家させた。善信尼である。さらに善信尼の弟子二人も出家した。漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘の豊女(とよめ)(禅蔵尼)と錦織壺(にしこりのつふ)の娘の石女(いしめ)(恵善尼)である。

3人はいずれも渡来系氏族の出身で、また、わが国最初の出家者である。これが、正史にある話であるが、これになぞらえた話が以下の二つの寺に伝わる。


西方院に祀られている三尼の一人が妹子の娘・禅蔵尼

聖徳太子の墓所とされる叡福寺の山門の道をへだてた石段を上がった所に、こじんまりとした清楚な寺西方院がある。寺伝によれば、聖徳太子の乳母として、また、養育に務めた蘇我馬子の娘月益姫・小野妹子の娘日益姫・物部守屋の娘玉照姫の三姫は、推古天皇30年(622)に太子が薨去したあと剃髪し尼となった。その名も善信尼・禅蔵尼・恵善尼といった。

三尼は太子の菩提追福のために太子廟の前に一宇(西方院)を建立し、ひたすら阿弥陀の西方浄土を欣求したとある。乳飲み子だった太子をあたかも我が子のように慈しんだ三尼の御廟は、太子の御廟を見守るように西方院墓地内に建つ。


宝泉寺にも祀られている妹子の娘は善信尼

宝泉寺は大阪市中央区谷町6丁目の交差点から東北東のビルの狭間にひっそりとある。四天王寺の境外支院の一つで、ここにも小野妹子の娘が三尼の一人として祀られている。

寺史としては、最も古いものと思われる元禄14年(1701)刊行の地誌『摂陽群談』によると、この寺は聖徳太子の乳母であり日本の比丘尼(びくに)(尼僧)の開祖とされる月益、日益、玉照の3人の尼が、四天王寺の引声堂の南に結んだ草堂が端緒とある。

その他の聖徳太子の乳母の記載は『聖徳太子伝暦』に、聖徳太子の3人の乳母を定めたとあるが、乳母の名前は記されていない。また、『天王寺誌』の「人物誌」には、月増(益)姫は蘇我馬子の娘、日増(益)姫は小野妹子の娘、玉照姫は大伴金村の娘とされ、3人は太子の乳母にあたり、後に出家し引声堂に住んだとある。

『日本書紀』に記されているわが国最初の三尼僧の話とよく似ているが、このことについて、宝泉寺の廣瀬善重住職は「いろんな説のあるのが歴史。三尼僧については信仰の対象として伝わっているのです。当寺は、伝承が正しいか、間違いかは問いません。寺伝と正史が違っていてもかまわない。寺伝として守り伝えていくのが勤めです。3人の尼の名は、聖徳太子に深く関わりがあった人の娘を侍女(乳母)などに見立て、身近におくことに深い意味があったのでしょう。大きな政治の力関係を表しているのかもしれません」と話す。


妹子の墓と推定される2つの墓


妹子のものとされる一つ目の墓が大阪府南河内郡太子町の王家(王陵)の谷にある。山田集落の東南端に位置する式内社・科長(しなが)神社の南約100mにある塚である。竹内街道歴史資料館元館長の上野勝巳著『河内と近江 二つの妹子塚』によれば、地元ではこの地域で梅鉢御陵といわれる敏達、用明、推古、孝徳各天皇陵と聖徳太子廟の全てが、例えば、「敏達さん」、「お太子さん」のように「〇〇さん」と敬愛の念を込めて呼ばれてきたという。天皇陵以外の多数ある古墳の中で、唯一個人名で呼ばれているのが「妹子さん」である。「妹子さん」とは当然、小野妹子であることはいうまでもない。

妹子の墓についてさらに詳しく知るため著者宅を訪れ、話をうかがった。それによると、妹子の塚が資料に現れるのは、1千年以上も後の江戸時代後期の享和元年(1801)に秋里籬嶋(あきさとりとう)が著した『河内名所図会』が最初という。そこに「妹子大臣塚 同所(※山田村東條)科長の神社の南壱町斗にあり」と書かれてあるように、図会を見れば、科長神社の南一町(約100m)とする所在地・方向・距離からみて、図会に掲載された妹子塚は現状と完全に一致するという。

その後発行された『大阪府史跡名勝天然記念物 第一冊・昭和2年(1927)』にも、「小野妹子墓(略)山田村大字東條を南に距る一町余り、字普野に在り(略)周囲約二十余間許りの、建石を燒らしたる塚にして、幅約二間、長七間の封土を有する古墳なり。今は既に原型を損したれども、所謂後期式円墳なり(略)其の此地に葬りし事は史に微證なし」とあり、現在までこの内容で継承されている。

「いずれにせよ、妹子の墓とする初見資料は、妹子の時代から約1200年も後のことなので実のところ本当のことは分からない。けれど、古墳は池坊の所有になり、池坊によって陵自体も天皇陵のように玉垣をめぐらし整備され、手入れがいきとどいている。周辺に散在する無名の古墳とは明らかに形状が異なっている」と、上野勝巳さんは調査内容を語る。


華道家元池坊が行う墓前祭

この塚の整備については、参道を登り切った所に建立された石碑の正面に「芳権最在慈悲手/済度十万世界花/大正十一年季三月 為道祖墳墓修築竣成記念/小野妹子後裔華道家元四十三世池坊專啓㊞」とある。また裏面に「大正十年七月起工/大正十年十二月竣成・・・」とあり、この文面から華道池坊は、小野妹子が祖先で、華道の道祖と考えて妹子塚を現状のように修築したことを教えてくれる。

大正13年(1924)の『池坊由来記』には、華道の池坊は小野妹子によって始まったとある。このことから修築以後、池坊は小野妹子の命日を6月30日とし、毎年この日に妹子塚へ集まり墓前祭を行っている。平成28年(2016)に筆者が取材に訪れたときの参加者は、家元をはじめ全国各地の支部代表や関係者400人ほど。塚前広場は立錐の余地もないくらいだった。

まず宮司によって厳かに祭祀が進行。始祖妹子への供養として池坊の流儀に従い、二人の献花者により黄菊と白菊の生花が青竹の寸胴に活けられ、墓前に奉納された。最後に参加者全員が墓前に玉ぐしをささげて、祭りは終った。

普段は薄暗い墓前もこの日ばかりは着物姿の女性が列をなし、華やかさと厳粛さが漂い、いかにも華道の祖にふさわしい供養祭となった。


もう一つの妹子塚 ― 近江の唐臼山古墳 ―


大津の小野妹子の墓とされる唐臼山古墳は、琵琶湖西岸の滋賀県大津市小野の琵琶湖を一望できる丘陵上にあり、「小野妹子神社」も祀られている。現在は「小野妹子公園」として整備されていて、周囲を電鉄会社が開発した住宅地が取り囲む。

この古墳は土が流出していて、巨大な箱型石棺状の石室が露出している。このような形式の古墳は、天皇や一部の貴族・官人層に限られているらしく、唐臼山古墳の被葬者も有力な官人ではなかったか、といわれている。かなり古くに、この古墳を小野妹子の墓とする所伝がうまれたようだが、明確な根拠はない。

小野村と小野妹子の関わりについては平安時代はじめの書物『新撰姓氏録』の「左京皇別下」の小野朝臣条に小野妹子が近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)に住んでいたとあることから妹子の塚説が有力になったとみられる。しかし、妹子の墓所については全く記されていない。が、その可能性は皆無ではなさそうであると、『小野妹子・毛人・毛野』の著者大橋信弥氏は述べている。

公園の周辺には小野神社、小野篁神社、小野道風神社と小野氏ゆかりの神社が一筆でつながる一画があり、いかにも小野の郷を思わせる。

現在は、湖西道路の道の駅も「妹子の郷」と名付けられ、関連の展示コーナーも設けられるなど、町おこしの一翼を担っている。

2019年2月

中田紀子



≪参考文献≫
 ・宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀 下』(講談社学術文庫)
 ・上野勝巳『河内と近江 二つの妹子塚』(科長歴史会)
 ・大橋信弥『小野妹子・毛人・毛野』(ミネルヴァ書房)
 ・溝口逸夫『小野妹子』(サンブライト出版)
 ・山岸良二『小野妹子』(ミネルヴァ書房)
 ・『週刊再現日本史』(講談社)
 ・『池坊歴史紀行』第三回東大寺・第二十一回大阪(池坊中央研究所)
 ・鈴木靖民『遣隋使と礼制・仏教』国立歴史民俗博物館研究報告
 ・『密教関係の仏教美術の保存と活用事業調査報告書宝泉寺について』(大阪密教美術保存会)
 ・日下山願泉寺『願泉寺史伝 木の津の遺跡』
 ・浪速区創設三十周年記念事業委員会『浪速区史』


≪施設情報≫
○ 頂法寺六角堂
   京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町
   アクセス:京都市営地下鉄烏丸線・東西線「烏丸御池駅」より徒歩約3分

○ 願泉寺
   大阪市浪速区大国2–2–27
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「大国町駅」より徒歩約4分

○ 西方院
   大阪府南河内郡太子町太子1663
   アクセス:近鉄河内長野線「喜志駅」より金剛バス「太子前」下車すぐ

○ 宝泉寺
   大阪市中央区安堂寺町1丁目4
   アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町6丁目駅」より徒歩約3分

○ 小野妹子墓
   大阪府南河内郡太子町山田
   アクセス:近鉄河内長野線「喜志駅」より金剛バス「御陵前」下車、東へ徒歩約15分

○ 小野妹子公園唐臼山古墳(小野妹子の墓・小野妹子神社)
   滋賀県大津市小野水明1丁目
   アクセス:JR湖西線「小野駅」より徒歩約15分

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