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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第76話 楠木正成(大楠公)くすのきまさしげ(だいなんこう) (1294? 〜 1336年)

南北朝時代の名将・後醍醐天皇の無二の忠臣

河内の一豪族ながら、学問(朱子学)に親しみ、宗教心も篤く(観心寺で仏典を学ぶ)、百姓、庶民と共に理想社会を築こうとした見識・人格共に優れた人物である。それ以前の武将は腕力を誇るのみであって主君に弓を引く下剋上や返り忠もあったが、正成は、教養を積み江戸時代に花開く「義」を重んじる「武士道」の先駆者であった。水戸光圀の尊崇を受け、幕末の尊皇の志士、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛等の精神的拠り所となった。明治天皇の崇敬も篤く、第2次世界大戦終戦までは歴史上最大の英雄の一人であった。ちなみに明治天皇の佩刀(はいとう)は楠木正成が所有していた刀である。

楠木氏の出自について太平記には「敏達天王四代の孫、井出左大臣橘諸兄公の後胤たりといえども民間に下って年久し」の記述があり、正成、嫡男正行(まさつら)それぞれ橘朝臣正成、左衛門少尉橘正行と自署したものが残っている。ただ橘諸兄から楠木正成まで系図をたどることは困難で、当時任官するには、源、平、藤、橘のいずれかの姓が必要とされていたので正成が兵衛尉に任官するため橘氏を借りたのではないだろうかと推測される。正成は、大局観を持つ戦略家であり、優れた戦術家でもあった。

元弘元年(1331)正成は後醍醐天皇の討幕計画に応じ500余の軍勢で下赤坂城(現在の大阪府千早赤阪村)に兵を挙げた。数万の幕府軍との最初の攻防では奇策を用いて奮戦するが、兵糧攻めに遭ったため城に火を放ち脱出する(自殺偽装)。1年後、四天王寺を占拠するが、いち早く逃げ出し、そのあとを占領した敵軍を夜間周辺の民を動員して毎晩松明で脅かし、わずか4日後に戦わずして退却させる。翌年、千早城(現在の大阪府千早赤阪村)に1千人の兵士と立て籠もり幕府の大軍8万を迎えて再び兵糧攻めに遭うが、逆に幕府軍は8万の兵糧を賄えず総崩れとなる。

元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府滅亡。翌年1月「建武」と改元、後醍醐天皇の親政建武中興が始まる。

建武2年(1335)11月、足利尊氏が謀反の兵を挙げると正成は天皇方の武士として立ち上がり、尊氏は一時九州へ敗走する。その後、尊氏が大軍を率いて東上するとの報に、公家達は朝廷の軍議において正成の建議を取り上げず、正成は尊氏・直義兄弟をくいとめるべく兵庫に向かう。途上桜井の駅にてわが子正行に河内へ戻れと命じる。唱歌にうたわれた「桜井の別れ」である。正成は摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区)で迎え討ったが(湊川の戦い)敗れ、弟正季(まさすえ)と七生滅賊を誓い刺し違えて殉節する。同地には明治5年(1872)、明治天皇の勅命により別格官幣大社「湊川神社」が創建された。


戦後の再評価

第2次世界大戦後、保田与重郎(1910〜1981)、植村清二(1901〜1987)、網野善彦(1928〜2004)らの研究により、正成の出自や在世中の身分などの見直しが進められた。それによると、出生地は河内ではなく駿河の入江荘楠木村の説が出され、身分も御家人でありながら悪党あるいは散所の大夫だったと言われ、鎌倉幕府に対する反体制新興武士団のリーダーであったということである。


フィールドノート

各地に残る正成の足跡


生誕ゆかりの極楽寺(大阪市住吉区)

正成の父経成が子宝祈願を行い、正成を授かったとされる極楽寺。正成は同寺に石灯篭(重要文化財)や楠木を寄進した。


後醍醐天皇に討幕を誓った笠置寺(後醍醐天皇行在所・京都府相楽郡)

元弘元年(1331)、倒幕計画に失敗した後醍醐天皇は京都を脱出し、笠置寺(現在の京都府相楽郡笠置町)に逃れた。後醍醐天皇の見られた夢により召された正成は、笠置寺にて拝謁、挙兵を誓い河内に戻った。天皇は同寺で倒幕の狼煙を上げるが、寺は1カ月におよぶ攻防の末に焼亡した。現在はその一部が復元されている。


正成が牙城にした千早城ほか(大阪府千早赤阪村)



大阪府千早赤阪村には、正成が挙兵、籠城した千早城(千剣破城)の跡がある。かつて同城は海抜673mの独立した弧峰にあり、楠木城から約10㎞にある詰城とされる。その千早城の第一関門として築かれた山城が赤坂城(別名・下赤坂城)である。元弘元年(1331)、正成が笠置寺で後醍醐天皇に拝謁した後、急ぎ帰り築いたもので、幕府の攻撃を受けた際には城中より熱湯をかけて応戦するなど、さまざまな戦術を駆使ししたと伝えられている。

楠木城(別名・上赤坂城、東條城)は赤坂城の東南2㎞にあり、金剛山を背景に展開する城郭群の中枢で、標高350mに本丸を置き、三方を谷に囲まれ河内平野を一望できる要害であった。現在、千早城、赤坂城、楠木城の遺構はなく、跡地を示す碑が建てられ国指定の史跡になっている(千早城の本丸跡には千早神社がある)。

正成は赤坂・千早の合戦の後、戦死者の冥福を祈り五輪塔を建てた。寄手(よせて)塚(182㎝)と身方塚(137㎝)である。身方(味方)より死者の多かった敵方の五輪を大きくしたところに、正成公の奥ゆかしさが表れている。赤坂城から約500m、楠木城から約2㎞のところに正成の館跡があり、ここに「楠公誕生地碑」が建てられている。

千早赤坂村水分には、金剛山鎮守で楠木家氏神である建水分(たけみくまり)神社(通称・水分(すいぶん)神社)があり、同社の境内摂社には、正成公を祀る南木(なぎ)神社〔延元2年(1337)創祀〕がある。南木神社の創祀は後醍醐天皇説と後村上天皇説の2説ある。


軍事拠点となった四天王寺(大阪市天王寺区)

元弘2年(1332)8月、正成は四天王寺で『聖徳太子未来記(太子の予言書)』を読み、「隠岐に配流された後醍醐天皇が再び帝位に就き、鎌倉幕府を滅亡に導くであろう」という啓示を受けたとされている(『太平記第1巻第6』正成天王寺未来記披見事)。同年に正成が、正平2年(1347)に子・正行(まさつら)が合戦の舞台にした四天王寺は、聖徳太子創建の霊場であると同時に、上町台地における重要な軍事拠点であり、楠木の本拠地・楠木城から京へと向かう前進基地にもなった。


父子が今生の別れをした桜井の駅(大阪府三島郡島本町)


正成は、死を覚悟して足利尊氏との「湊川の戦い」に赴く途上、まだ11歳の嫡男正行を陣中「桜井の駅」(現在のJR東海道本線「島本駅」あたり)に呼び寄せ、父と共に最期を迎えたいとすがる正行に対し、「自分は死を覚悟しているが、お前は故郷(河内)に帰って天皇に仕え、いつの日か朝敵を倒すのだ」と諭して今生の別れを告げた。

この逸話を題材に、明治期に能の演目『桜井の駅(金剛流)』や『楠の露(観世流)』が創作された。『楠の露』は、松尾芭蕉の句「なでしこにかかる涙や楠の露」に由来する。また、唱歌『桜井の訣別』にもなり、戦前の国語や修身の教科書にも載った。「桜井の別れ」の舞台となった桜井の駅には多くの人たちが訪れるようになり、それに伴って土産品屋が軒を連ね「楠公焼(陶器)」が売られたりもした。


正成殉節の地「湊川神社」(兵庫県神戸市)

湊川の戦いに敗れた正成は、弟正季と七生滅賊を誓い刺し違えて殉節した。同地には明治5年(1872)、明治天皇の勅命により別格官幣大社「湊川神社」が創建され、楠木正成公および正行、正季、大楠公夫人らが祀られている。同社の創建に携わったのは、兵庫県の初代知事・伊藤博文である。境内には「楠木正成戦没地」の碑や大楠公墓所に徳川光圀公直筆の墓碑「鳴呼忠臣楠氏之墓」がある。また、同社の近隣には、「多聞通」(幼名多聞丸)「楠町」「橘通」(先祖名)「菊水町」の地名がある。


正成の菩提寺「観心寺」(大阪府河内長野市)


観心寺は、役小角(えんのおずぬ)(修験道の開祖)の開創で、初め雲心寺と称したが、後に弘法大師が観心寺と改称した。本尊如意輪観音菩薩像および金堂はともに国宝。境内には、正成が建武新政の無事を願って三重塔を建立しようとしたが、湊川の役で討死したため建立を中断した「建掛塔(たてかけのとう)(重要文化財)」がある。

観心寺は正成の菩提寺であり、足利尊氏が京都の川原でさらし首にされていた正成の首を当寺に届けたと伝えられている。境内には正成の首塚がある。また、同寺の塔頭寺院である中院は、正成が8〜15歳まで僧・瀧覚(りゅうかく)に就いて修学したところとされている。


楠木正成の旗印


正成の旗印にある「非理法権天」は、老子、孔子の教えを凌ぐといわれた黄石公(こうせきこう)の教え(非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たない)を意味している。菊水は、上部に天皇の菊の御紋をいただき天の道の覆わざるなきを表現し、下部は水が万物を養う本源にして、天下の欲するところの徳に通ずることを象ったものである。


楠木久子が眠る楠妣庵(現楠妣庵観音寺内)

正平19年〜応永32年(1364〜1425)、久子は河内国赤坂に近い甘南備矢作利(かんなびやさり)(大阪府富田林市)の豪族南江正忠の妹で、両親に早く死なれ兄に育てられたという。20歳で正成の妻となり(正成30歳)、二人の間に、正行を筆頭に男子ばかり4人の子をもうける。戦前は国民的英雄であった正成と共に軍国女性の鑑とうたわれた。33歳で未亡人となった久子は、終始天皇に忠であった夫の遺志をつぎ、一族郎党を励まし4人の子を育てた。

10年後、正行、正時の兄弟は楠木軍の将として高師直(こうのもろなお)軍と戦うが、敗れて兄弟刺し違えて戦死する。その報せを聞いた久子は出家して敗鏡尼(はいきょうに)と称し、甘南備峰條山(かんなびみねしょうざん)の中腹にある小さな草庵にこもり、夫や子供はじめ一族郎党の菩提を弔った。



2019年2月

江並一嘉



 

≪参考文献≫
 ・植村清二『楠木正成』(中公文庫)
 ・『太平記 1~3日本古典文学大系』(岩波書店)
 ・『増鏡 1~3日本古典文学大系』」(岩波書店)
 ・吉川英治『私本太平記』(講談社)
 ・千早赤阪村史編さん委員会『千早赤阪村誌 本文編』(千早赤阪村)
 ・島本町史編纂委員会『島本町史』(島本町)
 ・新井孝重『楠木正成』(吉川弘文館)
 ・家村和幸『真説 楠木正成の生涯』(宝島社新書)
 ・生駒孝臣『実像に迫る「楠木正成・正行」』(戎光祥出版)
 ・関口敏子『河内の花 楠公夫人の生きざま』(近代文藝社)
 ・後藤久子『「楠木正成」子供のための伝記シリーズ6』(新教育者連盟)
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史 第3巻』(大阪府)
 ・保田与重郎『太平記と大楠公』(昭和43年湊川神社発行の『大楠公』に所収)


≪施設情報≫
○ 笠置寺
   京都府相楽郡笠置町笠置29
   アクセス:JR関西本線「笠置駅」より徒歩約40分

○ 観心寺
   大阪府河内長野市寺元475
   アクセス:近鉄長野線、南海高野線「河内長野駅」より南海バス「観心寺」停留所前

○ 建水分神社
   大阪府南河内郡千早赤坂村大字水分357
   アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス「水分神社口」停留所前

○ 赤坂城址(下赤坂城)碑
   大阪府南河内郡千早赤阪村大字東阪25(千早赤阪村立中学校校舎西側)
   アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス「赤阪中学校前」停留所前

○ 楠木城址(上赤坂城、東條城)
   大阪府南河内郡千早赤坂村桐山
   アクセス:下赤坂城より約2㎞

○ 千早城址
   大阪府南河内郡千早赤坂村千早
   アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス「金剛山登山口」より徒歩約20分

○ 四天王寺
   大阪市天王寺区四天王寺1–11–18
   アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約7分

○ 桜井の駅
   大阪府三島郡島本町桜井1丁目
   アクセス:JR京都線「島本駅」前

○ 湊川神社
   兵庫県神戸市中央区多門通3丁目1–1
   アクセス:山陽電鉄「高速神戸駅」前

○ 寄手塚・身方塚
   大阪府南河内郡千早赤阪村森屋(一般の墓地内にあります)
   アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス「森屋西口」下車徒歩約10分

○ 極楽寺
   大阪市住吉区遠里小野5–11–2
   アクセス:南海高野線「我孫子前駅」西出口より徒歩約3分

○ 楠木久子の墓所(楠妣庵観音寺)
   大阪府富田林市甘南備1103
   アクセス:近鉄長野線「富田林駅」より金剛バス東条線「甘南備」下車徒歩約10分

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