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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第56話

三好長慶みよしながよし

(1522 – 1564年)

信長に先駆けて天下人になった男

三好長慶が織田信長に先駆けて天下人であったことはあまり知られていない。18世紀前半にオランダで発行された『歴史地図帳』に記載の日本の統治者の変遷には「MIOXINDONO(三好殿)」「NABUNANGA(信長)」とあり、ヨーロッパでは信長の前に長慶が日本の統治者であったことが知られていた。江戸時代に松平忠明が編纂したとされる『当代記』でも、長慶を「天下を保つ事二十年余に及び、歌道を好む風流人であった」と評している。しかし明治になると、長慶は信長英雄史観の陰に隠されてしまう。そして「下克上を許した凡庸な人物」というイメージが定着した。近年は天野忠幸氏(天理大学文学部准教授)などの研究によって長慶の再評価が進み、そのイメージが大きく変わりつつある。

三好長慶は大永2年(1522)、阿波国守護代・三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれた。少年時代、畿内に進出した父・元長に従い堺に移り住む。享禄5年(1532)、元長は細川晴元の策謀で一向一揆衆に攻められ、堺の顕本寺(けんぽんじ)において自害。11歳だった長慶は、阿波国に逃れ一命を取り留めた。12歳で家督を継いだ長慶は、父の仇ともいうべき晴元に仕え、雌伏の時を過ごすことになる。やがて晴元を凌ぐほどの武将に成長した長慶の力が認められ、天文8年(1539)、摂津守護代に任ぜられ越水城(現在の西宮市)の城主となった。

長慶は阿波の三好実休(みよしじっきゅう)、淡路水軍を率いる安宅冬康(あたぎふゆやす)、讃岐の十河一存(そごうかずまさ)の兄弟4人で力を合わせ、畿内で戦を勝ち抜き、大坂湾の物流拠点・兵庫津から尼崎、堺に至る港を支配し力を蓄えていった。天文17年(1548)、27歳の長慶は主君細川晴元と対立。翌、天文18年(1549)、「江口の戦い」(現在の大阪市東淀川区)で細川晴元を破り、摂津国のほとんどを支配下におく。この戦は6月の農繁期から始められており、すでに兵農分離策を行っていたと思われる。

天文22年(1553)には、「霊山城の戦い」(京都清水寺付近の山城)で将軍足利義輝に勝利。義輝を近江に追放すると越水城を松永久秀に譲り、自身は芥川山城(現在の高槻市)に居城を移し、将軍を擁立しない京都支配を実現した。この後、義輝と何度か争いと和睦を繰り返すが、弘治4年(1558)、正親町天皇は長慶と相談して元号を弘治から永禄に改元、長慶は足利将軍に代わる支配者となる。この時期、長慶の勢力圏は畿内9カ国と伊予、播磨,若狭、丹後の4カ国におよび、まさに天下人であった。

そして河内、大和を平定した長慶は、永禄3年(1560)、芥川山城を嫡子・義興(よしおき)に譲り、飯盛山(現在の大東市・四條畷市)へ居城を移した。政治の中心は飯盛山城に、経済の中心は堺に、京の支配は芥川城の義興にと、支配体制を確立したのである。翌年には天皇から桐御紋の使用を許可され、将軍と同等の家格になるなど長慶の絶頂期にあった。


しかし、永禄4年(1561)3月、弟の十河一存の急死、翌5年には「久米田の戦い」で三好実休が戦死、永禄6年(1563)には義興が22歳の若さで病死するなど不幸が続き、長慶は病いに伏し、永禄7年(1564)7月4日、飯盛山城において亡くなった。享年43。長慶の死は混乱を避けるため三回忌の直前まで伏せられた。永禄9年(1566)6月、三好家の後を継いだ三好義継(十河一存の長男)によって八尾の真観寺で荼毘に臥され、京の大徳寺の僧・笑嶺宗訴(しょうれいそうきん)を導師に迎え葬儀が行われた。翌7月、堺の南宗寺で三回忌が執り行われ「諸人之を仰ぐこと北斗泰山」と讃えられた。そして義継は、大徳寺に聚光院(長慶の法名)を建立して長慶の菩提を弔った。聚光院には、長慶と同じ年に生まれ共に南宗寺で禅と茶の湯を学び大徳寺の笑嶺宗訴に帰依した縁で、利休の墓所もある。


フィールドノート

三好一族武者行列

堺で三好長慶はヒーローである。毎年10月に行われる「堺まつり」の武者行列「三好一族と堺幕府」では、堺観光ボランティア協会をはじめ徳島の三好長慶会や高槻の三好芥川城の会、それに大阪の阿波踊りの連も参加する華やかな行列に大喝采。堺での三好一族の人気の高さが窺われる。

堺の町衆文化の中心 南宗寺

堺には臨済宗南宗寺をはじめ、法華宗顕本寺、日蓮宗妙國寺など三好一族ゆかりの名刹が多い。堺市堺区南旅篭町東にある南宗寺は、顕本寺で非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うため、長慶が大徳寺の禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)を招き開山した禅寺である。大林宗套の元には長慶をはじめ一族の武将や堺の商人が参禅し茶禅一味の茶の湯を大成させた。境内には国の重要文化財の仏殿や唐門、古田織部作と伝えられる国指定の名勝「枯山水の庭」などが中世の堺の歴史を今に伝える。

方丈の南には三好一族の供養塔をはじめ、堺の文化を先導した千利休一門や津田家一族の供養塔、武野紹鴎、牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)などの墓がある。平成26年(2014)には、長慶没後450年に合わせて甘露門の傍に「三好長慶公像」が建立された。これまでどこにもなかった天下人・長慶の銅像を是非とも南宗寺にという「堺・ちくちく会」の呼びかけで寄付を募り、地元堺の彫刻家岡村哲伸氏(故人)に依頼して制作したもの。烏帽子に直垂姿の長慶は、戦国武将というより文人と言った風情である。


南宗禅寺連歌会「花の下連歌会」


「武士(もののふ)も 笑まふや今日の 花の下」の発句に田島硯慶住職の「弥生の風に 急ぎな散りそ」と続き、春爛漫の平成29年(2017)4月6日、三好長慶公像の前で野点を楽しみながらの南宗禅寺連歌会主催の「花の下連歌会」が催された。同会は、連歌を好んだ長慶を偲び「堺・ちくちく会」竹内魁成代表世話人の発案で平成28年(2016)3月に発足した。関西の連歌会の第一人者、帝塚山学院大学名誉教授の鶴崎裕雄氏の指導のもと、地元堺をはじめ大阪や奈良から、およそ20名の連歌愛好家が月に一度、南宗寺の方丈に集い連歌を楽しんでいる。


堺に幕府があった


ここで少し長慶の父・元長の時代に遡ってみる。堺市堺区宿院にある顕本寺の正門の横に「顕本寺と堺幕府」とイラストが描かれたプレートが建っている。「堺には歴史に記されていない堺幕府という政権がありました・・・」とある。この堺幕府とは昭和48年(1973)に歴史家今谷明氏(現帝京大学特任教授)が京都大学の『史林』『細川・三好体制研究序説』で発表された堺幕府論に始まる。

大永7年(1527)2月、幕府方の管領・細川高国は「桂川の戦い」で阿波の守護・細川晴元、柳本賢治連合軍に敗北し12代将軍・足利義晴を擁し幕府の役人共々京を脱出し近江に逃れた。そこで、空白となった京の幕府に代わって、阿波から義晴の弟・足利義継を擁して三好元長が堺に進出し、京を支配するようになる。同年7月13日、朝廷は義継を従五位下左馬頭に任じ、義継は堺公方と呼ばれるようになった。そして数々の公文書を発給した記録から、堺に幕府が存在したとされている。しかし享禄5年(1532)、細川晴元が足利義晴側に付くという裏切りによって元長は10万の一向宗門徒に包囲され堺の顕本寺で自害。僅か5年の堺幕府は崩壊した。この政権を幕府と呼べるかどうか異論はあるが、堺市史には「存在した」と記されている。


海船政所とは?

南海本線七道駅から南に100mほど行ったところの小さなお地蔵さまの社の傍に、「海船政所跡」と刻まれた石碑が建っている。案内板によると、「永正元年(1504)長慶の曽祖父三好之長が四国阿波から畿内に進出し、この地に海船館を築き始め、大永元年(1521)「海船政所」の号をもらった」と書いてある。今谷明氏は著書『戦国三好一族』のエピローグで、「この遺跡こそ、三好政権の畿内に於ける兵站基地となっていた戦国期の堺の位置を最も象徴的に物語る」と記している。江戸期に書かれた『全堺詳志』には元長が亡くなった後も長慶、義興、義継の阿波の三好一族はここを拠点にしていたことが記されている。


青年武将・長慶が天下を夢見た越水城


長慶が18歳の時、最初の居城とした越水城址を訪ねてみた。阪急神戸線「夙川駅」から北東に15分ほど歩くと、閑静な住宅地にある西宮市立大社小学校の南東の角に「越水城址」と刻まれた石碑がある。慶長10年(1605)に描かれた『慶長十年摂津国絵図』には「古城」と記されている。

越水城は西国街道と四国・淡路島への海路の交通の要衝にあり、度々戦国武将たちの争奪戦の舞台となった。長慶はここを拠点に天下取りの階段を上っていったのである。天文22年(1553)に芥川山城へ居城を移した後、越水城は信長の城割りにより廃城となった。


長慶最後の居城 河内飯盛山城

JR学研都市線野崎駅を出ると、東側にお椀を伏せたような飯盛山が目の前に迫ってくる。長慶の最後の居城・飯盛山城である。



平成27年(2015)12月、摂河泉地域文化研究所主催の飯盛山城見学会に参加した。野崎観音(慈眼寺)に集合してハイキングコースとして整備された山道を歩くこと一時間あまり、標高314mの飯盛山の山頂に着く。山頂からの眺望はまさに絶景である。北は比叡山から京都、西は北摂から淡路島、四国を、眼下には大阪平野、南は堺までと長慶が支配した領国が一望できる。長慶は永禄3年(1560)、飯盛山城に入城すると首都機能をここに移し、城の大改修を行った。当時ヨーロッパで作成されたファン・ラングレンの『東アジア図』にはSAQUAY(堺)やIMORIS(飯盛)などの地名が記され、飯盛山城はヨーロッパにも知られていた。飯盛山城は生駒山系の北端に位置しその規模は南北650m東西400mの巨大な山城であった。山頂の本丸と呼ばれる高櫓郭から北に尾根沿いに歩くと、堀切の跡や自然石を積み上げた石垣が所々に残る。何故か山頂には楠木正行〔くすのきまさつら:小楠公(しょうなんこう)〕の大きな銅像が建っている。これは昭和12年(1937)に戦意高揚のために建立されたもので、この時代、正行は朝廷に尽くし、四條畷の戦いで敗れ自刃した戦国時代の悲劇の武将として讃えられ、飯盛山城主の長慶が軽んじられたことを象徴する遺物といえる。

長慶が移り住んだ当時、飯盛山の麓では京へ通じる東高野街道と大和へ通じる清滝街道が交差し、西に広がる深野池からは大阪湾まで水路が開けるなど交通の要衝で情報と物資が集積する所であったと思われる。飯盛山城の長慶のもとには宣教師や京から公家や連歌師が訪れ、度々連歌の会が催されたと記録に残る。布教のため京に上った宣教師ガスパル・ヴィレラも、仏教勢力の反発で堺に戻り、宗教に寛容だった長慶を頼った。長慶が飯盛山城で最後の政治的決断を下したのは、領内でのキリスト教の布教許可であった。早くから南蛮交易の経済効果を熟知していた長慶の狙いは、彼らの情報や西洋の技術だったかも知れないが、布教を許可し宣教師たちを保護した。


河内キリシタン誕生

宣教師ガスパル・ヴィレラと日本人修道士ロレンソ了斎は、永禄6年(1563)、飯盛山城に赴き、長慶の家臣73名をキリスト教に改宗させたと『フロイスの日本史』に記されている。このとき、三箇城主の三箇頼照、阿波出身の三木半太夫、高山友照(右近の父)などの武将も改宗した。キリシタン武将の第一世代である。また、高山右近や小西行長、黒田官兵衛などの第二世代は、信長・秀吉政権のテクノクラートとして活躍し、時代を進める役割を果すことになる。麓の三箇(大東市)や岡山(四條畷市)には教会が築かれ、多くの領民がキリスト教に改宗したといわれている。その数は6千人と『フロイスの日本史』に記され、河内はキリシタンの一大拠点となった。しかしながら、慶長元年(1596)豊臣秀吉のバテレン追放令や同17年(1612)の江戸幕府の禁教令により教会は悉く破壊され、信者たちは棄教を迫られ隠れキリシタンとして姿を消した。東大阪市若江には「大臼(だいうす:ゼウス)」や「クルス」といった旧字(あざ)名があることから、この地に教会があったことをうかがわせる。


平成14年(2002)、四條畷市の千光寺跡から田原礼幡の墓碑が発掘され大きなニュースとなった。墓碑には「天正9年」と刻まれており、現段階では日本最古のキリシタン墓碑といわれている。河内キリシタンの遺物はこの田原礼幡の墓碑と八尾で発掘された八尾マンショの墓碑2基以外にはない。平成20年(2008)、河内キリシタンの研究家で野崎キリスト教会の神田宏大牧師(故人)は、『野崎観音の謎~隠れキリシタンの寺か?~』を上梓して大いに話題となった。大東市と四條畷市では飯盛山城の国史跡指定を目指した取り組みも始まった。河内平野にはまだまだ私たちが知らない戦国期の歴史が埋もれているような気がする。さらなる発掘調査や史料の発見、研究の結果に期待をしたい。平成29年(2017)10月には大東市役所の正面前に三好長慶公の銅像が設置され、除幕式が行われた。大東・三好長慶会や堺・ちくちく会など三好ネットワークでは、2022年の三好長慶生誕500年に向け「三好長慶をNHK大河ドラマに」と呼びかけるポスターやチラシを作成するなど市民運動も始まった。

2017年11月

(橋山英二)



≪参考文献≫
 ・天野忠幸『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』 
 ・天野忠幸、高橋恵『三好長慶 河内飯盛城より天下を制す』(風媒社)
 ・福島克彦『関西の山城研究と飯盛山城』(大山崎町歴史資料館)
 ・『大阪春秋(平成29年新年号)』
 ・吉田豊『堺幕府はどこにあったのかー中世都市の空間構造』(堺市博物館研究報告書)



≪施設情報≫
○ 南宗寺
   堺市堺区南旅篭町東3-1-2
   アクセス:阪堺電車「御陵前駅」より徒歩約5分
   電  話:072-232-1654

○ 顕本寺
   堺市堺区宿院東4-1-30
   アクセス:阪堺電車「宿院駅」より徒歩約3分
   電  話:072-232-3964

○ 海船政所跡
   堺市堺区桜之町西3丁
   アクセス:南海本線「七道駅」より徒歩約5分

○ 大徳寺聚光院
   京都市北区紫野大徳寺町58
   アクセス:京都市バス「大徳寺前」より徒歩約10分
   電  話:075-491-0019

○ 真観寺
   八尾市北亀井町2-7-20
   アクセス:JR「久宝寺駅」より徒歩約15分
   電  話:072-994-1685

○ 越水城址
   西宮市桜台町9
   アクセス:阪急神戸線「夙川駅」より徒歩約15分

○ 飯盛山城跡
   四條畷市南野
   アクセス:JR学園都市線「四條畷駅」より徒歩約40分

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