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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第16話 成安道頓なりやすどうとん(生年不詳-1615年)

ミナミの名所「道頓堀」を造った男

大阪・ミナミの代表的な繁華街・道頓堀。ここに流れる「道頓堀川」は江戸時代に造られた人工の川で、成安道頓はその名の由来となった人物である。

道頓は、大坂平野郷( 現在の平野区) の上層階級である七名家(しちみょうけ)の一つ、成安家の出身である。七名家は代々惣年寄(町奉行の差配を受けて町政を司る役職)を担い、道頓は豊臣政権下の慶長17年(1612)、新川(現在の道頓堀川)奉行に任命された。そこで八尾・久宝寺出身の安井治兵衛や平野出身の平野藤次郎らの助けを得て、開削工事を指揮したのである。

工事の目的は、舟運の便を開くことであった。さらには田畑への用水や飲料水の確保に加え、開削土を利用して周辺の湿地帯を造成し、新たな町を開発することであった。ところが着工翌年に安井治兵衛が病死し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発。工事は中断し、豊臣家に従軍した道頓は、同年5月7日に大坂城中で戦死してしまった。その後、戦後復興を任された松平忠明(摂津大坂藩主)は、安井九兵衛(道卜:どうぼく)や平野藤次郎たちに工事の再開を命じ、同年11月にようやく完成したのである。

忠明は道頓を悼み、新川を「道頓堀川」に改名する沙汰を出したといわれている。とはいえ、徳川方の敵にあたる道頓の名をあえてつけたのはなぜか。作家の司馬遼太郎(1923〜1996年)は小説『けろりの道頓』の中で、「江戸から来た忠明にすれば、大坂町人の人気を得るために、それがいちばん効果的だと考えたのであろうか」と述べている。


フィールドノート

成安家発祥の地を訪ねて

成安道頓が道頓堀の開削を指揮した中心人物であることは分かったが、その人物像や事績について記した資料は皆目見つからなかった。そこで出身地である平野区で、成安家の足跡を訪ねることにした。


まずは同区平野本町にある光源寺。ここには七名家の縁戚と思われる末吉家や三上家の墓がたくさんあり、その中に「成安道壽之墓」がある。住職に聞けば、成安姓はこの一基だけとのこと。60〜70cmの墓は、長い年月を経て傷みが激しい。裏には「元文二年(1737)巳歳六月一二日」とだけ刻まれており、道頓の縁者であるかどうかは不明。そこで、この墓を守る成安家のご子孫を訪ねて伺ってみたところ、「道頓堀の開削を手がけたのはご先祖の道頓だと聞いているが、代々当家では文書などを残しておらず確証はない」とのことであった。また、「杭全神社の手水場はうちが寄付したものだと聞いている」と伺い、それを見るため同神社へ向かった。

それは鳥居をくぐってすぐ左にあった。1.5mほどの沃盥(よくかん:手水場)の正面に、「奉 寛永十□ 年三月吉□ 寄進 成安善兵衛( □ は読めず)」と刻まれている。寛永10年であれば1633年のことである。


この杭全神社には、「日本に唯一現存する連歌のための建物」といわれる連歌所があり、天正13年(1585)6月8日には、成安清頓(せいとん)を追善する「為清頓追善名号之連歌」が催された。また、12畳の主室にある花台は、享保13年(1728)に成安栄信(えいしん)という人が寄進したものだという。

成安栄信は、平野につくられた大阪初の学問所「含翠堂(がんすいどう:1717年)」の設立メンバーの一人でもあった。道壽、善兵衛、清頓、栄信と、成安家のゆかりを訪ね歩いたが、肝心の「道頓」には辿りつけなかった。


江戸時代の雰囲気が残る風景

平野の町を歩きながら、道頓がすぐそこにいるような不思議な感覚がずっとあった。しばらくして、それはこの町の佇まいにあると気がついた。

平野区の宮町、市町、上町など旧環濠地域では、元和2年(1616)の町割りが現在も継承されており、江戸時代を彷彿させる板塀の建物や土蔵、地蔵堂などが修復されて残っている。寛永年間の創業という和菓子店(亀乃饅頭福本商店)も周囲と違和感なく佇んでいて、そうした風景に気持ちが癒された。



残念石で建立された道頓堀紀功碑

道頓の足跡探しを諦めきれず、平野を後にして道頓堀へと向かう。やってきたのは日本橋の北詰。ここに道頓堀開削の功労者を讃える大きな紀功碑が建っている

紀功碑建立のきっかけは、大正3年(1914)に天皇陛下が大阪を行幸された際のこと。行幸地にゆかりのある人物に贈位が行われるのが慣例で、このときも南北朝時代の武将・楠木正季(くすのきまさすえ)や楠木正時(まさとき)、別子銅山を発見した住友家中興の祖・住友友芳(すみともともよし)らと共に、大坂南組の惣年寄・安井道卜にも従五位(じゅごい)が贈られた。その記念として、翌4年(1915)に道頓堀の近くに石碑が建立されることになったのである。発起人は明治維新の元勲・大久保利通の三男で大阪府知事であった大久保利武。紀功碑の顕彰文は大阪朝日新聞の主筆でコラム『天声人語』の名付け親として知られる西村天囚(てんしゅう)によるもので、多くの碑文を手がけた天囚のものでも、とりわけ美文であるといわれている。

平成25年(2013)、大阪市は紀功碑が老朽化して崩落する危険があるとして撤去を決めたが、地元の商店会や町会が保存運動を展開して修復された。同26年(2014)7月12日の修復記念除幕式には、上方落語や国立文楽劇場の重鎮に加え、大阪ミナミ400年祭実行委員会や道頓堀商店会などの関係者が参加し、修復・保存を喜びあった。

紀功碑は3m近くある大きなもので、大坂城の「残念石」が使われている。残念石とは、大坂城築城の際に西日本各地から巨石が運ばれたが、当時の輸送技術が未熟であったために、大坂にたどりつくことができなかった石である。


「成安説」を決定づけた道頓堀裁判

安井道卜とともに日本橋の紀功碑に刻まれているのは、同じ道頓でも成安道頓ではなく「安井道頓」の名前である。このため長らく道頓堀川の名の由来は安井道頓であるとされてきた。しかしこれが覆ったのが、昭和40年(1965)から同51年(1976)まで11年もの長期にわたって争われた、いわゆる「道頓堀川裁判」によってである。

当時、道頓堀川には周辺の飲食店などからの汚水・雑排水が流れ込んで激しく汚濁し、悪臭を放っていた。加えて地盤沈下や高潮時による浸水も危惧されることから、大阪市はその対策に大規模な下水道整備と道頓堀川の改修工事を計画。莫大な整備費用は、道頓堀川の両岸を埋め立てて分譲することで捻出することとした。これに対して安井道卜の子孫が、道頓堀川は先祖が自分の土地に自分の資金でつくったものであると、川底の所有権を主張。道頓堀川の河川敷地の現状変更を禁止するよう求めたのである。

審理の過程で「道頓」が安井姓であったかどうかが争われ、それを明らかにするため安井家に伝わる古文書が証拠書類とされた。その鑑定人となった佐古慶三(元大阪商業大学教授・1898〜1989年)が、安井家だけでなく平野七名家の古文書や系図などを精査した結果、安井家の文書には史実の裏付けがなかったり、「成安道頓」という別姓の実名を認める記述などがあることから、道頓は安井姓ではなく成安姓であると結論づけたのである。この鑑定結果は極めて確度が高かった。歴史学者の脇田修氏(大阪大学名誉教授)もこの鑑定に基づく成安説が正しいとし、「道頓の遺志を継いで、安井九兵衛らが堀の開削を進めた話が代々語り伝えられる中で、いつしか成安姓が安井姓にすりかわってしまったんでしょう(大阪人 第55号・2001年8月)」と述べている。

道頓堀の開削に着手した成安道頓の志を受け、完成させた安井道卜は、南船場にあった芝居町を堀の南側に移転させることで、浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の「道頓堀五座」誕生の契機をつくった。さらには、近松門左衛門が竹本義太夫とコンビを組んだ心中物で大人気を博した人形浄瑠璃の竹本座〔貞享元年(1684)〕などがしのぎをけずり、芝居見物の客の胃袋を満たす料理屋も建ち並ぶ一大歓楽街へと発展したのである。原告の安井家の請求は棄却されたが、裁判官は安井道卜一族の努力によって道頓堀が完成に導かれたことを認め、道頓堀繁栄の礎を築いた功績はまことに大きいと評価した。その言葉に原告は、「お金ではなく、先祖の功績が認められて満足です」と語り、控訴を取り止めた。


トリイホール館長・弘昌寺住職
鳥居弘昌氏に聞く

道頓堀の「トリイホール」館長の鳥居弘昌氏は、大阪で芸能に携わる人々を小さいころから見続けてきた。実家は道頓堀五座の一つ角座の裏で旅館「上方」を営業し、松本幸四郎、桂米朝や立川談志など歌舞伎や落語などの芸人がよく利用していたという。

道頓堀の歴史を調べてみるとさまざまな発見があると、鳥居氏は語る。大坂の陣の後に千日前に建立された竹林寺の当時の過去帳に記された名前には、元キリシタンであることを示す記述が多くあったという。多くのキリシタンが大坂城に入城し豊臣方に味方した可能性がある。また、西洋の土木技術を持つ隠れキリシタンたちが、道頓堀開削などの難工事に活躍したかもしれないと鳥居氏は推測している。

調査研究だけでなく、鳥居氏は道頓堀の文化や伝統を守ることにも取り組んでいる。桂米朝氏の「若手落語家を育てる場をつくってほしい」との声に応えて、平成3年(1991)に旅館「上方」をトリイホールとして生まれ変わらせた。落語や漫才、コントなど、さまざまな芸能を発信するホールとして活用している。安井一族がここに芝居小屋を集め、人形浄瑠璃を完成させた道頓堀こそが、日本文化の原点という思いがある。平成18年(2006)には、道頓堀の芸能の発展を願いトリイホールの敷地内に町の総意をとりつけ、芸能の神である弁才天を勧請、南乃福寿弁才天を建立した。

さらに近年、竹林寺などの道頓堀に古くからある寺が移転廃寺されている現状を目の当たりにした鳥居氏は、道頓堀開削の難工事の犠牲者や刑場で散った人々の霊を慰めるために、出家することを決意。平成24年(2012)には、千日前に弘昌寺を建立した。


道頓もびっくり、架空の「道頓関」

日本橋東側の広場は、長い間放置され、鳩のフン害もあって薄汚い姿をさらしてきた。そのため紀功碑という大きなランドマークがあるにもかかわらず、寄り付く人はほとんどいなかった。

ところが平成27年(2015)4月、紀功碑のすぐ近くに3階建てガラス張りの免税ショップ「DOTON PLAZA大阪」が誕生し、これに伴って日本橋の広場が見違えるほど美しく整備された。そして突如登場したのが、大きな力士の像である。その名は「道頓関」。DOTON PLAZA大阪に来た外国人旅行者はこれを珍しがり、道頓関の土俵入りのポーズを真似て写真に収めて帰る。それをインスタグラムにアップする人も多く、今や「DOTON」の名は世界中に発信されている。

それにしても、なぜここに力士像を設置して、〝道頓〟という四股名をつけたのか。DOTON PLAZA大阪を経営する株式会社JTC(本社・福岡市博多区)に聞いてみたところ、「訪日旅行者向けに、大阪観光の目玉になるものを考え、日本を代表する文化である〝相撲〟に着目した。道頓関という名はDOTON PLAZA大阪にちなんで付けたもので、そういう名の力士がいたかどうかは知らない(総務課担当者)」とのことであった。


〝道頓関〟とは気になる。「タニマチ」という言葉が大阪発祥であるように、大阪は相撲と古い関わりをもつ。江戸時代から昭和のはじめまで「大阪相撲」が行われ、そこに道頓という名の力士がいても不思議ではない。

大阪で最初に相撲興行が行われたのは、日本橋から西へ歩いて30〜40分、地下鉄桜川駅の近くにある「南堀江公園(大阪市西区)」あたりだといわれている。平成7年(1995)、大阪市がここに「勧進相撲興行の地」の碑を建て、説明板に元禄期の番付を載せた。そこには堺や尼崎、平野出身の力士の名前があるが「道頓」という名はない。念のため一駅先(西長堀駅)の大阪市立中央図書館に行き、『大相撲人物大事典(ベースボールマガジン社)』に掲載されている古今の大坂相撲の力士の中から探してみたが、やはり見当たらなかった。架空の道頓関登場に、成安道頓は草葉の陰でさぞびっくりしていることだろう。


2017年11月

(木下昌輝・三上祥弘)



≪参考文献≫
 ・平野区誌刊行委員会『平野区誌』(2005年5月)
 ・杭全神社『平野郷惣社 杭全神社』
 ・佐古慶三『新堀奉行 成安道頓伝』(大阪春秋第4号・1974年9月)
 ・中村浩『安井道頓は実在せず – 道頓堀川と道頓』(大阪春秋第19号)
 ・宮本又次『大阪町人』(アテネ新書・1957年)
 ・脇田修『近世大坂の町と人』(人文書院・1986年10月)
 ・司馬遼太郎『けろりの道頓(新装版 おれは権現 より)』(講談社・2006年3月)
 ・牧英正『道頓堀裁判』(岩波書店・1993年7月)
 ・橋爪紳也監修『大阪の教科書』(創元社・2009年4月)
 ・田中貞和『道頓堀川(道頓堀訴訟)』(交通新聞社・2008年4月)
 ・ベースボールマガジン社『大相撲人物大事典』(2001年4月)
 ・大阪都市協会『大阪人 第55号 特集 平野郷を遊ぶ』
 ・大阪都市協会『大阪人 第59号 特集 川をめぐる旅』



≪施設情報≫
○ 光源寺
   大阪市平野区平野本町4–11–5
   電  話:06−6791−0456
   アクセス:地下鉄谷町線「平野駅」より徒歩約7分

○ 杭全神社
   大阪市平野区平野宮町2丁目1–67
   電  話:06−6791−0208
   アクセス:JR関西本線「平野駅」より徒歩約6分

○ TORII HALL(トリイホール)、南乃福寿弁才天
   大阪市中央区千日前1–7–11上方ビル4F
   電  話:06−6211−2506
   アクセス:地下鉄御堂筋線「なんば駅」・なんばウォークB20出口より徒歩約2分

○ 千日山弘昌寺
   大阪市中央区千日前1–7–7
   電  話:06−6211−7819
   アクセス:地下鉄御堂筋線「なんば駅」・なんばウォークB20出口より徒歩約2分

○ 贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑
   大阪市中央区日本橋北詰
   アクセス:地下鉄堺筋線「日本橋駅」2番出口より徒歩約3分

○ 「勧進相撲興行の地」の碑
   大阪市西区南堀江2–8・南堀江公園
   アクセス:地下鉄千日前線「桜川駅」より徒歩約10分

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