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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第93話 草間直方くさまなおかた (1753 〜 1831年)

実学に基づく金融・経済論で諸藩の財政改革を促す

草間直方は、京都綾小路烏丸の商人・桝屋唯右衛門の子として生まれた。幼名を仲我、その後文次郎といい、宝暦3年(1753)10歳で商家の慣例として鴻池の京都店山中家に奉公に出され、翌年鴻池家が経営する鴻池新田会所勤務となった。

文次郎は同会所で能力が高く評価され、安永3年(1774)21歳で大坂今橋の鴻池本家勤務となり、大坂一を誇る両替商で金融実務のスタートを切る。そして同年、当時22家あった鴻池別家の一つ草間家の女婿(じょせい)となり、名を直方に改め鴻池屋伊助と称した。

寛政3年(1791)別家を仰せつかるが、引き続き鴻池本家の業務管理に従事した。文化6年(1809)56歳になった直方は本家勤務を免除され独立、自ら両替商を開業する。

独立開業後、肥後熊本藩をはじめ豊後府内藩、播州山崎藩、讃岐多度津藩などの諸藩や御三卿のひとつ田安家などと取引(大名貸し)を行う一方、借財(借銀)の意義は領国の殖産興業とその結果としての安定的な領国経営実現にあると説き、各藩の財政改革を促した。

直方は若い頃大坂の学問所「懐徳堂」に学び、学主中井竹山をはじめ山片蟠桃(やまがたばんとう)など同業・異業の人々との交流を通じて家業経営の学問的基礎を培った。このことが後年、経済史や文化史の検証と継承に深く心を寄せることにもつながる。直方は、鴻池新田会所の事績を『新田開発事略』として著したほか、隠居後に集大成した『三貨図彙(さんかずい)』は日本の貨幣史・金融史・物価史の金字塔であり、維新後明治政府が編纂した『大日本貨幣史』はこの書を参考にしたといわれる。また最晩年の著作『茶器名物図彙』は鴻池の風雅の流れを汲み、その名のとおり古今東西の名物を絵入りで詳細に解説している。天保2年(1831)79歳でこの世を去った。


フィールドノート

鴻池新田会所時代の直方



直方は新田会所に起居しながら業務に従事した。当時、鴻池新田の規模は200町歩(約198ha・阪神甲子園球場約52個分)、小作人は42軒306人であった。

会所の業務は広範に及んでいた。新田の小作人から小作料や年貢・肥料代(綿花と相性のよい干鰯が使用されていた)の徴収、新田内の道路・橋・水路・家屋等の維持・補修管理、現代の住民票にあたる人別帳(にんべつちょう)や宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)の作成のほか、新田の決まり事の違反やもめごとの裁判など、事業経営に加えて新田内の行政まで担っていたのである。そして会所の1年間の収支成績は、算用帳(さんようちょう)という決算簿をもって支配人(番頭格)から鴻池本店に報告された。

会所建物の構造に目を向けると、接待や会議に使う来客用座敷と日常の仕事をする居間とが峻別されていることが見て取れる。座敷(会所本屋写真右側)には式台があり、襖は無地の紙張りであるが、仕事場になる居間(同写真左側)には式台はなく襖は板張りである。便所や風呂も来客用と使用人用に分けられており、仕事本位、質素倹約の考え方は徹底している。

直方は、こうした中で鴻池の事業精神をたたき込まれた。同時に支配人や手代の行動をつぶさに見ながら、経営のありようをしっかりと体で覚えていったことは容易に想像できる。


井路(いじ)・船運でつながる鴻池新田会所と大坂



ところで鴻池新田が開発された場所は、もともと大和川の支流が注いでいた新開池(しんかいいけ)という溜池の底地であった。そのため新田一帯はいくつかの井路(水路)が縦横に張り巡らされ、増水時の排水(洪水対策)や灌漑用水の取り入れのほか、綿などの農産物や人の船運に利用されていた。井路の主役は井路船。剣先船(けんさきぶね)(大和川で使用された舳先の細い船)を小型化した底の浅い船で、昭和の戦後まで現役で活躍していたという。

数多くの井路の中に鴻池新田の基幹水路「鴻池井路」があった。新田会所の北側にあり、鴻池新田と徳庵(とくあん)(現在の大阪府東大阪市)の間の水運を担う重要な水路であったが、平成16年(2004)、一部を人工水路として残して埋め立てられ、現在は「鴻池四季彩々とおり」という名前で地元市民の遊歩道に生まれ変わっている。

この鴻池井路や徳庵井路(現在は寝屋川の一部)は、徳庵から先は淀川に繋がっていた。その淀川を経て大川に入ると、そのまま大坂・今橋近辺の岸に着く。その間およそ10㎞、半日もあれば会所と大坂の中心部今橋の鴻池本家を往復できる距離である。

直方ら会所勤務者が今橋の鴻池本家との往来に頻繁に利用したのはこの経路で、当時徳庵は淀川水運の要衝でもあった。寝屋川に沿って流れる井路は、洪水対策のため数々の改修を経て現在は寝屋川に一本化されている。寝屋川に架かる徳庵橋からは、西方に大阪ビジネスパーク(OBP・大阪市中央区)の高層ビル群を望むことができる。


今橋鴻池本家時代の直方





新田会所勤務の10年後、鴻池本家は直方の才を見抜き今橋の店に呼びよせた。鴻池の本業である金融業務に本格的に取り組むことになるのである。

鴻池本家は今橋2丁目(大阪市中央区、現在の大阪美術倶楽部あたり)にあり、周辺は鴻池の分家・別家をはじめとする有力両替商が軒をつらね、大坂の富豪の居宅が集まる地区でもあった。土佐堀川と堂島川にはさまれた中之島や堂島一帯に蔵屋敷が並び、天保年間にはその数125に達して西国の藩が大半を占めたという。鴻池の雇い人から別家に、そして独立し確固たる地位を築いた後も直方は、取引先訪問のためこのゾーンを頻繁に行き来したことであろう。

参勤交代の出費や江戸屋敷の維持管理、幕府の臨時御用など諸藩の財政は逼迫し慢性的赤字は解消されず、そのため大名貸の需要は一段と高まるものの、踏み倒しのリスクはそれ以上に拡大した。確実に返済利子が受け取れるようにするにはどうすればよいか、直方は常にこの命題を背負って貸付案件を審理し、対応策を検討しそして交渉に臨んだ。経験を重ね、そこから見えてくる事象や着想を書き留めていった。それらの記録は『草間直方諸聞書』などの草間家資料に残されている。

直方の居宅は今橋(現在の大阪市中央区今橋4丁目、鶴屋八幡本店あたり)にあったようだ。直方が日々鴻池本家へ通う今橋の通りには、山片蟠桃の屋敷[明治5年(1872)この跡地に小学校が建てられ、その後、愛日(あいじつ)小学校と改称するも平成2年(1990)に閉校となった]や懐徳堂、銅座の建物が並んでいた。

学問以外に直方に大きな影響を与えたのは、鴻池家の風雅を楽しむ家風であった。とくに4代宗貞(むねさだ)、5代宗益(むねます)そして分家の鴻池道億(どうおく)は表千家の茶人として名をとどめた人たちで、茶道具の蒐集が鴻池の伝統の一つとなった。戦前から戦後にかけてそれら秘蔵品が競売に出されとき、世間が驚く名器ぞろいであったという。直方は、豪商の風雅を楽しむという別の側面を肌で感じ取りながら、持ち前の探求心で茶器の研究にも取り組み目を肥やしていったのであろう。その成果は最晩年に絵入りの95冊の大著『茶器名物図彙』として結実する。



直方の思想

直方の著作『三貨図彙』は大別して「三貨の部」「物価の部」「付録の部」「遺考の部」に分かれ、原本は全44冊におよぶ大著である。絵入りで銭(銅)、金貨、銀貨の貨幣史を扱った「三貨の部」が半分近くを占めるが、本家勤務から独立、鴻池伊助として両替商に携りながら蓄積・錬成されていった直方の経済思想と経営哲学は、とくに「物価の部」の随所にみられるという。

例えば米価(物価)の変動について直方は、「米価ノ高下モ金銀ノ融通モ、天理ノ自然ニテ人力ノ儘ニハ成リ難シ、然レバ士民恒ニ其覚悟アル可キ事ニテ、米価の高下ハ捨テ置テモ可ナラン」(『三貨図彙―物価之部』)(米価の変動も金(カネ)の貸し借りも、天然・自然の作用であり人の力で動かすことはできない。武士も町人も常にそういうものだという覚悟をもってしかるべきで、米価の変動には手を下すべきではないのではないか)と指摘している。直方は、物価の上がり下がりは市場の自然な成行きに任せるべきであると主張する。幕府の米価への介入が、物価の自然な動きに対していらぬ憶測を生むとして警鐘を鳴らす。

また、「借財」すなわち借金については、「借金ノ事モ、天下金銀ノ融通ナレバ、大借トテ屈スルニ足ラズ、経済ト云フハ其大借ヲ国家再興ノ用ニ活ケテ用ヒルカ、又死物ニスル歟、死活ノ仕法ハ、其司ドル者ノ智略ニアリ」(『三貨図彙―物価之部』(借金はこの世の中の金銀の融通であるから、大きな借金をしたからといって懸念することはない。経済というものは、多額の借金を国家再興に用いるか、借金を死なす使い方をするかのいずれかにかかっている。借金を生かすか殺すかは借金を運用する者の智略によるのだ)と述べている。

両替商の直方が「借金は悪」という一般の通念を是としないのは当然である。当事者が借金の目的(財政建直し)と使用方法(殖産興業などの財政健全化策)を明確にして実践すれば、借金を活用して興す事業が新たな利益をうむことにもつながるではないか。その結果利子や元本の返済が可能となり、両替商はまた借金に応じることができる。

直方の取引先である肥後熊本藩細川家は、「前々からけしからぬお家柄」で貸付けをした町人が「多額のこげつきでつぶれた」(『町人考見録』三井高房著・現代語訳・鈴木昭一)という札付きの藩であったが、その担当者に直方は次のような書簡を送っている。

「借財は倹約の守本尊(まもりほんぞん)でございます。借財を利用して得た利益を用に役立てるようにすれば、是又大きな利益でございます。借銭は借銭しないための借銭という金言は、この意味でございます。ですから借財を怖れる必要はすこしもありません」(『寛政のビジネス・エリート』新保博)

直方は借金=倹約という考えをベースに、借金運用者の智略と努力によるこういった好循環を期待し、また、分限に応じ華美を排した倹約をも勧めるのである。藩財政の建直しは、直方ら大坂の両替商(金融資本)の存立基盤の維持に直結する。つい最近まで日本が陥っていたデフレ不況期において、赤字に陥った融資先企業にコストカットやリストラ、「事業の選択と集中」などを求める金融機関の不良債権対策に相通じるものがある。

直方の主要な取引先である肥後熊本藩の大坂蔵屋敷は、現在のリーガロイヤルホテルの敷地にあった。明治8年(1875)にわが国で初めて洋紙がこの地で生産され、その歴史を示す石碑が建っておりその中にこの地が旧肥後藩蔵屋敷跡であるとの一文が刻字されている。


塙保己一(はなわほきいち)と直方


堅実に自分家業に精励する直方であったが、日本の古代から江戸時代初期にいたるまでの国文学や歴史書を網羅した一大叢書『群書類従』を編纂した塙保己一の事業を財政面でバックアップしたことはあまり知られていない。『三貨図彙』や『茶器名物図彙』の大著を著わした直方であったからこそ『群書類従』発刊の意義を理解し、保己一が取り組んだ膨大な史料の蒐集や整理・編集の労苦を身近に感じ取ることができたのかもしれない。

保己一は出版用の版木の製作(開板(かいばん))や版木の保管用倉庫の建設のため、多額の資金を必要とした。大名貸しの利子は平均月8朱(年利換算約6%)であったというこの時代、直方は低利の貸し付けを行って出版事業を支援した。保己一の死後、息子の塙次郎に宛てた直方の書簡に貸し付けの明細があり、5件総額で1350両(1両を10万円に換算して約1億3500万円)で、内900両は無利子、その他4件の内の3件は各100両でそれぞれ月5朱の利子(年利換算約3.7%)などとなっている[『塙保己一記念論文集 塙検校の借財について』太田善麿(換算額・利率は筆者の試算による)]。

直方の『三貨図彙』には懐徳堂学主中井竹山とともに保己一も序文を寄せている。このことからも学問的事業を互いに評価し合う直方と保己一の信頼関係の濃密さがうかがえる。ちなみに保己一の生涯をかけた大業は、出版決意から41年後の文政2年(1819)に完成した。貴重な1万7224枚の版木は昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定され、現在公益社団法人温故学会で保管、一般公開も行われている。はるか大坂から江戸の保己一を支援した直方の隠れた業績として記憶にとどめたいと思う。


草間家のその後と現在




三男の直諒に家督を譲った直方は、随筆『篭耳集(かごみみしゅう)』や家訓集『家訓闇(やみ)の磔(はりつけ)』を残したが、繁忙極める仕事の合間を縫って『三貨図彙』の執筆を続けたのは家業に必要な銭貨の歴史や経済知識そして商人として当然わきまえておくべき実践哲学を草間家の後継者に伝えるためのものであったという。

直方の墓所は当初大阪天満の大鏡寺(だいきょうじ)に設けられた。後に寺とともに吹田市内に移り現在は草間家一族の墓と並んで静かに眠っている。

家業は2代直諒、3代直堅と引き継がれたが明治維新後両替商としての家業は閉じた。直堅の子貞太郎は鴻池家の一員として明治10年(1877)創設の第十三国立銀行初代支配人にまた明治22年(1889)創設の日本生命保険相互会社の取締役となった。4代目を引き継いだ貞太郎の弟繁蔵も鴻池銀行に勤務したが草間家の金融とのかかわりはこの繁蔵の代で終わる。

5代目貫吉(1897~1993)は技術系の道を歩み日本のアマチュア無線黎明期の昭和2年(1927)にわが国初の個人の短波私設無線電信無線電話実験局の許可を受けた人物である。結婚後養子として6代目を継いだ敏夫(1931~2017)も技術系であった。

現7代目当主草間章氏は重電関係の分野に歩んでいる。章氏によれば、草間家には大阪府立中之島図書館に寄託した直方の著作原本のほかにまだ多くの文書類が蔵されているとのこと、また女婿の方が草間直方に関して大変興味をお持ちのようでまことに心強い限りである。他日これらの資料に大坂商人ひいては日本の経済思想研究の光がさらにあてられることを願わずにはいられない。なぜなら膨大な債務を抱え財政再建がわが国の急務となっている今日、直方ならどんな処方箋を出すのか、ひょっとして貴重なヒントがまだ眠っているかもしれないからだ。



2019年2月

長谷川俊彦



 

≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・草間直方著、解題作道洋太郎『三貨図彙』復刻版(文献出版)
 ・三井高房著、鈴木昭一翻訳、原本現代訳『町人考見録』(教育社)
 ・作道洋太郎『懐徳堂と大坂町人の学問』大阪春秋第31号(新風書房)
 ・作道洋太郎『草間直方と大坂町人学』大阪春秋第70号(新風書房)
 ・新保博『寛政のビジネス・エリート』(PHP研究所)
 ・中部よし子『近世都市社会経済史研究』(晃洋書房)
 ・宮本又次『大阪町人論』(ミネルヴァ書房)
 ・宮本又次『人物叢書―鴻池善右衛門』(吉川弘文館)
 ・宮本又次『北浜界隈由来記』大阪春秋第3号(新風書房)
 ・大阪府農地部農地課『大阪府農地改革史』(大阪府農地研究会)
 ・大阪歴史博物館『豪商鴻池―その暮らしと文化』図録(東方出版)
 ・『史跡・重要文化財鴻池新田会所』リーフレット


≪施設情報≫
○ 鴻池新田会所
  大阪府東大阪市鴻池元町2–30
  アクセス:JR学研都市線「鴻池新田駅」より南東へ徒歩約5分

○ 鴻池四季彩々とおり
  大阪府東大阪市中鴻池町2–1
  アクセス:JR学研都市線「鴻池新田駅」より南へ徒歩約10分

○ 徳庵橋・徳庵揚水機場
  大阪市鶴見区今津北5–1
  アクセス:JR学研都市線「徳庵駅」から北東へ徒歩約5分

○ 旧鴻池本宅跡碑
  大阪市中央区今橋2–4–5 大阪美術倶楽部
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より東へ徒歩約5分

○ 草間直方旧宅跡地
  大阪市中央区今橋4–4–9 鶴屋八幡本店付近
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より西へ徒歩約5分

○ 近代製紙業発祥の地碑(旧肥後熊本藩大坂蔵屋敷跡地)
  大阪市北区中之島5–3–20 リーガロイヤルホテル
  アクセス:京阪中之島線「中之島駅」すぐ

○ 大鏡寺・草間直方墓
  大阪府吹田市五月が丘南23–1
  アクセス:阪急千里線「南千里駅」より阪急バスで約10分「佐井寺」下車、南へ徒歩約2分

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