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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第83話 竹田出雲(初代)
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第83話 竹田出雲たけだいずも(初代) (生年不詳 〜 1747年)

義太夫・近松と組み、人形浄瑠璃最盛期をプロデュース

初代竹田出雲は阿波国(現在の徳島県)の生まれという。父は、ぜんまい仕掛けや水を使って人形などを動かす「竹田からくり(竹田の芝居)」の創始者・竹田近江(おうみ)で、寛文2年(1662年)、大坂道頓堀でこれを興業した。出雲はこの竹田からくりを浄瑠璃に取り入れ、「人形浄瑠璃」としてさらなる演劇性・娯楽性を高めるとともに、その興業者としての経営感覚を磨いた。

若くして出雲は道頓堀の芝居小屋経営の実力者として頭角を現わした。『曽根崎心中』で大ヒットを放ったものの竹本座の経営に疲れて引退した竹本義太夫(筑後掾(ちくごのじょう))を舞台復帰させ、義太夫から「竹本座」の座本(劇場の所有者)を引き継ぐ。そして近松門左衛門を座付作者として迎え入れ、宝永2年(1705年)に近松作『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんのかがみ)』を上演。近松は初代出雲の意向を汲み、同作をスペクタクルな筋書きに仕上げた。人形の衣装や道具は豪華になり、太夫を御簾(みす)の外に出す「出語(でがた)り」を採用、出雲が繰り出す新機軸は人形浄瑠璃の歴史を塗り変えるものであった。また、近松が書いた『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』は、正徳5年(1715)から17カ月連続公演の大当たりとなり、後に歌舞伎の演目にもなった。竹本座の快進撃は、出雲の座本としての力量を見せつけた。

義太夫の死後、出雲は座本業の傍ら近松に師事し、浄瑠璃作品の執筆に励む。近松との合作で『大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』を書き、続いて単独で『諸葛孔明鼎軍談(しょかつこうめいかなえぐんだん)』などを発表し、「ぷつぷつと智恵の吹出雲(ふきいずも)」との評判を得る。

享保9年(1724)に近松が没すると、出雲は座本と作者の二役に一層拍車をかけた。しかし長くは続かず、二代目出雲らとの合作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の上演を最後に、延享4年(1747)にその生涯を終えた。

二代目出雲を継いだ実子の清定は「親方(おやかた)出雲」とも呼ばれ、初代出雲と同様に座本兼浄瑠璃作者として活躍、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』や『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』など、今なお人気の高い名作を遺した。人形浄瑠璃最盛期を演出した初代出雲(大出雲(おおいずも))、その子二代目出雲は、近江とともに大阪市天王寺区の青蓮寺(せいれんじ)の竹田家一族の墓所に眠っている。


フィールドノート

大坂名物「竹田のからくり」




初代出雲の父近江は、元は和時計職人であったらしく、子供の砂遊びから発想を得て砂時計を作ったともいわれる。また、朝廷にからくり人形を献上し、「近江掾(おうみのじょう)」の名乗りを許された。

からくり人形を使った「竹田の芝居」は、朝8時から始まり夕方の5時に打ち出しとなるまでいくつものからくりが登場、珍しいもの好きな大坂人の間で評判となり、一躍大坂の名物となった。たとえば「天王寺番匠尊像(てんのうじばんじょうのそんぞう)」のからくりは、四天王寺の大工(番匠)の道具箱から大工道具が出てきて最後に聖徳太子の木像に変身するというもので観客をあっと言わせた。摂津名所図会にもからくり芝居を見物するオランダ人の様子が描かれ、人々から「竹田のからくりを見ないと大坂へ来た甲斐がない」ともいわれた。

この「竹田の芝居」こそ、出雲が父近江の人形からくりから創造力を学びまた座本に求められる小屋の経営感覚を磨いた原点であったといえる。しかし、「竹田の芝居」を上演していた小屋は、江戸後期には歌舞伎を上演するようになった。その後明治初期に火災に遭い、再建後は「弁天座」に改称。大正期には主に新国劇を上演するようになった。昭和20年(1945)戦災で焼失、戦後再建されその後「道頓堀文楽座」、「朝日座」と名称が変わった。そして昭和59年(1984)、国立文楽劇場(大阪市中央区)の開設に伴い閉館した。


浄瑠璃と歌舞伎

浄瑠璃と歌舞伎は江戸時代のほぼ同時期に誕生した民衆芸能で、互いに影響しあいながら300年の時を経て今日に至っている。両者を繋いだのは近松門左衛門や初代出雲、二代目出雲らの浄瑠璃作家で、彼らのヒット作『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』は歌舞伎でも三大演目とされ、今なお絶大な人気を保っている。

浄瑠璃では登場人物のセリフや状況説明などを全て太夫が語るため、これを歌舞伎に置き換えるには、浄瑠璃の「丸本(まるほん)」という台本を書きなおす必要があった。その結果、登場人物のセリフは役者に割り振り、場面の状況や登場人物の心理の動きを義太夫節(歌舞伎では「竹本(たけもと)」という)で語る「丸本歌舞伎(義太夫狂言)」と呼ばれる様式ができた。

一方、歌舞伎から人形浄瑠璃の演目に加えられたものに『勧進帳(かんじんちょう)』がある。『勧進帳』は、天保11年(1840)に能の『安宅(あたか)』を歌舞伎に採り入れたもので、その後明治28年(1895)に人形浄瑠璃として初演され、現在も人気狂言の一つとなっている。


唯一残る竹田家ゆかりの品 ― 青蓮寺


生國魂神社には明治まで法案寺(南坊と呼称される)という神宮寺(神社に付属して建てられた寺院)があった。ここには本坊と塔頭(たっちゅう)(寺院の中にある個別の坊)合わせて10の坊があり、「生玉十坊(いくたまじゅうぼう)」と呼ばれていた。明治初頭の神仏分離によって十坊に属する遍照院と医王院が合併、真言宗青蓮寺として竹田家一族の墓とともに生國魂神社境内の蓮池近辺から現在の地に移った。

大阪夕陽丘学園高校近くにある青蓮寺の墓所を訪ね、住職の玉島興雅氏から、竹田家と同家の菩提寺であった遍照院のゆかりを聞いた。その中で玉島氏は、竹田家から寄進された『絹本著色三宝荒神画像』の掛け軸を示し、「当寺には二代目出雲から奉納された西国三十三所観音像があったが、大阪大空襲で全て焼けてしまい竹田家ゆかりの品はこれだけとなってしまった」と語った。

焼失を免れた同寺の所蔵物の中には、近世大坂の信仰の様子を伝える貴重な絵画があり、一部は市の有形文化財に指定されている。玉島氏はそれらの修復にも熱心に取り組み、平成26年(2014)秋、竹田家寄進の掛け軸を含む密教画を中心としたコレクション展を大阪芸術大学スカイキャンパス(あべのハルカス内)のギャラリーで初公開した。


戯曲創作の情報源 ― 蓮体(れんたい)和尚

河内長野の真言宗延命寺(えんめいじ)という寺に、蓮体という和尚がいた。(蓮体は延命寺を再興した初世浄厳(じょうごん)の甥で弟子でもあった。浄厳の後、二世として寺を継ぐ。浄厳は江戸期の仏教界の革新者で将軍綱吉の帰依を受け江戸湯島に霊雲寺を建立したという高僧であった)。蓮体と二代目出雲とは親しい間柄で、二代目が遍照院に奉納した例の西国三十三所観音像の開眼供養の際には蓮体が大坂へ足を運び導師を務めるほどであった。

蓮体は布教活動に熱心で全国を行脚したが、訪れた地方の説話を集めそれに自分の創作も加えて『地蔵講釈集』という庶民にも分かりやすい本を出版した。出雲は、機会があれば蓮体から様々な旅の話を聞き戯曲創作に活かしたそうで、『菅原伝授手習鑑 寺小屋の段』の一部のくだりにはその要素が入っているともいわれている。

『菅原伝授手習鑑』の「寺小屋の段」のあらすじの一部を紹介する。

武部源蔵(たけべげんぞう)〔菅原道真(菅丞相(かんしょうじょう))の元部下で丞相に勘当され今は寺小屋で書道を教える〕は、菅秀才(かんしゅうさい)(丞相の子)の身代わりに松王丸〔丞相の政敵藤原時平(しへい)の舎人(とねり)(貴人の使用人)〕の子・小太郎を討つ。しかし、丞相にひそかに心を寄せていた松王丸はこのことを予測し、あらかじめわが子を寺小屋に遣わしていたのだった。かくして菅丞相の子・菅秀才は命を救われる。

ここからは筆者の想像の域に入る。

実は、これに似た子供の首を刎ねる逸話が兵庫県川西市に残っている。満願寺(まんがんじ)の「美女丸(びじょまる)伝説」がそれである。多田源氏の棟梁源満仲には美女丸という末子がいた。満仲は、素行が悪く人の忠告を聞こうとしない美女丸を僧とすべく寺に預け修業させた。

時が流れ、あるとき満仲は修業を積んでさぞかし立派な僧に成長したであろうとわが子美女丸を呼び寄せた。期待に反し美女丸は和歌はおろか経文さえも読めなかった。怒った満仲は家来の藤原仲光(ふじわらのなかみつ)に美女丸の首を刎ねるよう命じたのである。悩みにくれる仲光に、その子幸寿丸(こうじゅまる)は自ら「私を身代わりに」と名乗り出た。仲光は断腸の思いで幸寿丸の首を刎ね満仲に差し出した。そして美女丸をひそかに逃がした。後にそのことを知った美女丸は改心して比叡山で修業を積みやがて源賢阿闍梨(げんけんあじゃり)という高僧になった。この美女丸伝説は能「仲光」や歌舞伎十八番「仲光」として今もなお語り継がれている。

地方を行脚していた蓮体和尚がこの説話に接したかどうかわからない。しかし、似たような話は結構日本の各地にあったのではないか。武士の主従関係と倫理観はかくも厳しくその世界に生きる人間の葛藤の凄まじさはいかばかりであろうか。蓮体和尚のように仏法を説く者としても目をつむることは許されないだろうし、浄瑠璃作者として人々の心を揺さぶるテーマであり書かずにはいられない格好の話材ではなかったか。

満願寺は、多田源氏・源満仲の取材でそれまでに訪れていた寺、境内の「三廟」に仲光、美女丸、幸寿丸の3人が祀られていたのを思い起こしつつ、ついそんな想像が働いてしまった次第である。

閑話休題。「蓮体和尚は、二代目出雲にとって貴重な情報源であり、当時の庶民の関心事がどこにあるのかを知る手掛かりにもなったのではないか」と玉島氏は語る。

秋10月も半ばを過ぎた頃、蓮体和尚ゆかりの2寺を訪れた。延命寺は紅葉の名所としてことに有名で、弘法大師手植えの古木「延命寺の夕照もみじ」は大阪府指定の天然記念物となっており樹齢800年以上と伝えられている。シーズンを前に境内では植え込みや木々の手入れが佳境に入っていた。

元禄4年(1691)、蓮体は荒廃した生まれ故郷清水村(現在の河内長野市)の地蔵寺を再興した。四季折々、花が咲き鳥の声が飛び交うそんな風情を心行くまで楽しめる寺ともいわれている。南海高野線千早口駅から歩いて10分ほどの山間の高台に寺坊は静かに佇んでいた。


竹田家累代の墓碑群

青蓮寺の墓地には背中合わせに竹田家一族の墓が8基あり、入口に近い方から元祖出雲(諦相院濬哲奚疑居士)、二代目出雲(文明院岑松立顕居士)、反対側右から3番目に元祖近江(願舟院観月江清居士霊)の墓が並ぶ。

玉島氏によれば、墓は砂岩でできていたため傷みが激しく、平成20年(2008)に修復し、現在の姿になったとのこと。修復記念法要は国立文楽劇場、松竹座、新歌舞伎座の人形浄瑠璃・歌舞伎の関係者の参列のもとで行ったそうである。また、墓地の周囲には、お寺には珍しく赤レンガで隣地との仕切り塀が建っていた。このレンガ塀は生國魂神社から当地へ移転してきた際に設けられたもので、150年近く経っているという。大阪市からも「貴重な明治初期の建築遺産なので大切にお願いしたい」といわれているとのことであった。玉島住職は壁の面倒までも頼まれている。歴史文化遺産の保全・保護は我々が思っている以上に当事者にとって苦労が多いことを痛感させられた。



2019年2月

長谷川俊彦



 

≪参考文献≫
 ・倉田喜弘『文楽の歴史』(岩波現代文庫)
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・三善貞司『大阪人物辞典』(清文堂出版)


≪施設情報≫
○ 弁天座跡(朝日座跡)
   大阪市中央区道頓堀1–4–27
   アクセス:近鉄奈良線「近鉄日本橋」駅より東へ徒歩約5分

○ 竹本座跡碑
   大阪市中央区道頓堀1–8–22・道頓堀ゼロゲート
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「なんば駅」より北へ約270m

○ 国立文楽劇場
   大阪市中央区日本橋1–12–10
   アクセス:大阪メトロ堺筋線、千日前線「日本橋駅」、近鉄奈良線「近鉄日本橋駅」駅より徒歩約3分

○ 生國魂神社・浄瑠璃神社
   大阪市天王寺区生玉町13–9
   アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町九丁目駅」より徒歩約3分

○ 青蓮寺
   大阪市天王寺区生玉寺町3–19
   アクセス:大阪市メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘」駅より谷町筋を北東へ徒歩約10分。大阪夕陽丘学園高校向い

○ 延命寺
   大阪府河内長野市神ガ丘492
   アクセス:南海高野線「美加の台駅」南海バスで約10分「延命寺口」下車徒歩約20分

○ 地蔵寺
   大阪府河内長野市清水111
   アクセス:南海高野線「千早口駅」より徒歩約10分

○ 満願寺
   兵庫県川西市満願寺町7–1
   アクセス:阪急宝塚線「雲雀丘花屋敷駅」阪急バスで約10分「満願寺前」下車徒歩約3分

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