JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 情報公開
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人
なにわ大坂100人イメージベース画像
なにわ大坂100人イメージ画像
書籍広告画像
アマゾンリンク画像

第90話 上田秋成うえだあきなり (1734 〜 1809年)

多芸多才な近世日本文学の代表的文人

「背中から冷や水を浴びせられるほどの戦慄を受けた」と江戸の戯作界の大御所・大田南畝(おおたなんぽ)(註①)に言わしめた名文家・上田秋成。その『雨月物語』の「菊花の約(ちぎり)」は高等学校の古文の教科書に採用されるなど、近世日本文学を代表する小説家として知られるが、国学者、歌人、茶人と多彩な顔をもつ文人である。幼名仙次郎、通称東作、号は秋成、無腸など。享保19年(1734)、大坂・曽根崎新地で、大和国樋野村(現在の奈良県御所市)出身の未婚の母・サキの子として生まれる。父は小堀遠州直系の旗本・小堀政報(まさつぐ)といわれるが、謎に包まれたままである。4歳のとき、堂島永来町(えらまち)で紙油商を営む「嶋屋」上田茂助の養子となる。5歳の時、重い疱瘡に罹り生死をさまよったが、養父・茂助の加島稲荷への祈願により一命は取り留めたものの、両手の指に後遺症が残った。

仙次郎(秋成)は実直な養父と優しい養母に嶋屋の跡取りとして大事に育てられた。10代後半から俳諧に熱中し浮浪子(のらもの)的生活をおくるが、町人の学問所・懐徳堂で五井蘭洲に国学を学んだと思われる。宝暦10年(1760)27歳の時、京都出身の植山たまと結婚。後の瑚璉尼(これんに)である。翌年、養父が亡くなり嶋屋を継ぐ。商家の若旦那の仙次郎は商売には身が入らず、酒こそ飲まなかったが遊蕩に耽り、やがて浮世草子に筆を染め、明和3年(1766)33歳のとき、気質物(かたぎもの)の掉尾の佳作といわれる『諸道聴耳世間狙(しょどうききみみせけんさる)』、翌年には『世間妾形気(せけんてかけかたぎ)』を和訳太郎の名で刊行。明和5年(1768)には、中国の白話小説(註②)を翻案した知的で思想性に満ちた怪談小説集『雨月物語』を自虐的なペンネーム・剪枝崎人(せんしきじん)の名で書きあげた〔刊行は8年後の安永5年(1776)〕。

明和8年(1771)、堂島を襲った大火で嶋屋が類焼し、一切の財産と書物を失う。秋成は商売を諦め医者で生計を立てることにし、2年ほど大坂天満の儒医・都賀庭鐘(つがていしょう)(註③)に医術を学ぶ。安永2年(1773)、加島稲荷の神職・藤家英の好意で境内に寓居を構え医者を始める。賀茂真淵の高弟加藤宇万伎(かとううまき)(註④)に師事し、国学に傾倒していくのはこの頃である。安永5年(1776)には大坂尼崎(現在の中央区高麗橋)に戻り、医者として開業した。医業の傍ら木村兼葭堂の煎茶のサロンを介して蕪村や高井几董(たかいきとう)、大田南畝などの文人と盛んに交流し、益々国学に魅入られていった。本居宣長との間で古代の音韻の使い方や日の神(天照大神)の解釈についての論争を行ったのはこの頃である。

天明7年(1787)4月、14年に及ぶ医者を辞め、大坂近郊の淡路庄村(東淀川区西淡路3丁目)に移り隠遁生活に入る。そして吉野や京都など旅をするなど、のんびり過ごしながら古典の研究や小説の創作に専念する。煎茶の指南書『清風瑣言(せいふうさげん)』〔刊行は寛政6年(1794)〕、伊勢物語をもじった風刺小説『癇物談(くせものがたり)』などを書きあげる(刊行は没後)。57歳の時、そこひ(白内障)を患った秋成は左目の視力を失う。寛政5年(1793)、還暦を迎えた秋成は、6年余りの田舎暮らしを引き揚げて京都の知恩院前袋町へ移り住む。この後、南禅寺山内や東桐院四条の長屋など転々としながら村瀬栲亭(むらせこうてい)、画家の松村呉春、歌人の小沢蘆庵(おざわろあん)たちとの交遊を深め、国学の研究と歌文三昧の日々を送る。

寛政9年(1797)、妻の瑚璉尼が亡くなり、翌年には右目も失明し全盲状態になったが、大坂の眼科医谷川良順のもとに度々通い左目の視力が回復する。このあと、国学者として古典の注釈や、歌人として短冊や色紙への揮毫を生活の糧としながら精力的に筆をとり、古代史論『遠駝延五登(おだえごと)』や、万葉集の注釈本『金砂(こがねいさご)』、700首あまりの自選の和歌を収めた歌文集『藤簍冊子(つづらぶみ)』、日本書記の解説『神代がたり』と次々に執筆した。

最晩年の文化5年(1808)、秋成75歳のとき、『雨月物語』から実に40年ぶりに短編小説集『春雨物語』を書きあげる。しかし、自筆本や幾種類かの写本が残ったが刊行されることはなかった。『胆大小心録(たんだいしょうしんろく)』に「もう何も出来ぬゆえに、煎茶を飲んで死をきわめている事じゃ」と書き遺し、文化6年(1809年)6月27日、和歌の門人・羽倉信美の屋敷で76歳の生涯を閉じた。そして、生前に用意した南禅寺門前の西福寺の奥庭の蟹の台座の下に埋葬された。

註①
大田南畝…江戸後期を代表する文人、狂歌師、戯作者。幕府の官僚として大坂銅座に赴任。
註②
白話小説…中国宗代に庶民の間に流行した娯楽的要素の高い口語体で書かれた小説。『三国志』『水滸伝』『西遊記』など。
註③
都賀庭鐘…医者であり儒学者、煎茶道にも通じ大坂を代表する文人。『英草紙』『繁野話(しげしげやわ)』など読本の作者。
註④
加藤宇万伎…大坂城や京都二条城に詰める大番与力という役職の幕臣。国学者。

フィールドノート

秋成の原点「堂島新地」を歩く




晩年、自伝『自像筥記(じぞうきょき)』に記しているように、秋成は、出生の秘密や生母に捨てられたという思いが生涯心のキズとして残った。秋成の探訪は北新地から始めよう。北新地の探訪は夜がいい。東西500m・南北250mの間に3千軒を超えるバーやクラブ、料理屋が軒を連ねる大阪一の歓楽街。その北新地の真ん中に、曽根崎川跡の解説碑と蜆橋が刻まれた銅版のレリーフが建っている。つい100年前まで、ここには曽根崎川(蜆川)が流れていた。北が曽根崎新地。南が堂島新地。川畔には茶屋や遊郭が軒を連ねる遊所であった。秋成が生まれたのは曽根崎新地というからこの辺り。養子に行った油紙商嶋屋は堂島新地永来(えら)町、現在の堂島1丁目。堂島アバンサの近く「元櫻橋南詰」と刻まれた石碑が建つ辺りと思われる。ゆっくり歩いても3分もかからない距離である。堂島は何度も大火に見舞われた。特に明治42年(1909)の大火「天神焼け」は、堂島川の北側を焼き尽くし福島まで燃え広がったという。そして、蜆川はその瓦礫の捨て場となり埋め立てられ、大正13年(1924)には姿を消し北新地が誕生した。その名残として緑橋、桜橋、浄正橋など現在も地名として残る。

当時の堂島新地は各藩の蔵屋敷が立ち並び、百万石を越える年貢米が運び込まれ米市が立つ経済の中心地。裕福な商家の若旦那嶋屋仙次郎は曽根崎新地で俳人、画家、歌舞伎役者、三味線弾き、書肆など「雅俗入り乱れ混沌とした大坂文化壇の中にどっぷり浸かり」(長島弘明著『秋成研究』)、ときにはジャーナルな話題や尾ひれのついたゴシップをもとに『諸道聴耳世間猿』や『世間妾形気』『雨月物語』を著した。物知りになろうと和漢の古典を耽読したのもここ堂島。堂島は秋成の原点である。ここで生まれ育った生粋のなにわっ子、秋成の文学碑もあってもいいかなと思いつつ北新地をあとにした。


加島稲荷(香具波志神社)



秋成の生涯は加島稲荷抜きには語れない。68歳を迎えた秋成が68首の和歌を奉納したときの添え書きに「余、幼稺(ようち)にして悪痘を患う、医云はく、生路無しと。先考悲泣(せんこうひきゅう)に堪えず、此の神詞(かみごと)に走り,丹誠を以って助命を乞う」とある。養父・茂助はどうして近くの坐摩神社や天満宮に行かずに川を越え加島まで走ったのかは、ここでは触れないが疑問は残る。以後、秋成は生涯にわたって加島稲荷(現在の香具波志神社)への参詣を欠かさなかったという。ちなみに同社は天徳3年(959)創建の古い神社で、戦国武将・三好長慶が戦勝祈願をしたという記録も残る。平安時代から淀川右岸の江口や加島、神崎は、京都から西国や南海への交通の要衝として繁栄していた。

JR東西線「加島駅」を出ると頭の上に山陽新幹線の高架橋が走り、東には阪神高速道路が目に飛び込んでくる。北に8分ほど歩くと住宅や工場が密集した中に鎮守の森と赤い鳥居が現れる。香具波志神社だ。秋成は、安永2年(1773)から3年ほど、ここの寓居で医者の修業をしながら国学の研究に励み、神職・家英の息子家時、家孝に「古今和歌集」などの古典の講義をしていたことが記録に残る。境内には上田秋成寓居跡と加島鋳銭所跡と刻まれた石碑が建っている。この石碑は昭和35年(1960)、大阪市が建てたもので、神社の北に寛永の銅銭を鋳造する加島銭座があったことから併記されたとのこと。いかにもお役所仕事といった感じだ。

また、神社の北側の民家と工場の塀に囲まれるように神官の藤家代々の墓所があり、その片隅に60㎝程の自然石に上田秋成先生の墓と刻まれた墓碑が建っている。この墓碑は、神職の藤家孝が秋成を偲び三回忌のときに建てたものと伝えられている。『春雨物語』の『宮木が塚』の最後は。「むかし、我この川の南の岸のかん島という里に、物学びのために、三とせ庵むすびて住みたりける。この塚あるを問まどひて、ややいたりぬ。しるしの石は、わずかに扇打ち開きたるばかりにて、塚というべき跡は、ありやなし。いとあわれにて、歌なんよみて、たむけたりける。(長歌略)今はあとさへなきと聞く。歌よみしは、三十年のむかし事也」と結ばれている。秋成が語り手として宮木の塚を探し歩いた事を回想して物語は終わる。3年余りの加島での暮らしは秋成にとっては忘れ難いものだったかも知れない。

帰りはちょっと遠回りになるが神崎川を眺めたくてスマホの地図を頼りに北へ向かう。3分も歩くと神崎川に架かる「もすりん橋」という奇妙な名前の橋の南詰に出る。コンクリートに固められた神崎川はこの南で猪名川と合流する。川幅は意外に広い。遊女塚のある対岸の神崎はかすんで見える。川に架かる高架を新幹線がヒューと通過。川面が僅かに揺らいだが間もなく川は静かになった。平安時代に書かれた大江匡房(おおえまさふさ)の『遊女記』には、「洲には葦が生い茂り波は花のごとし、釣り舟や酒食を商う舟、遊女の舟など水面も見えぬほどの賑わい、天下一の楽地だ」と記している。今日は一隻も船は通らない。


上田秋成と木村兼葭堂


気難しい秋成が最も気を許したのは木村兼葭堂かもしれない。共に商家の跡取りとして育ち、歳かさも近く、目指す道こそ違うが知的欲望は強い。秋成が医者を開業するときには、兼葭堂が薬草などの相談にのったと思われる。大阪府立中之島図書館に収蔵されている自筆の『茶瘕酔言(ちゃかすいげん)』には、兼葭堂のことを「郷友木村孔恭(こうきょう)は文雅の名高く、産物のえらひ、茶を煎るをもて、共に人くる。しかれども、文雅の友、四方より日々来る」と著している。二人は30年にわたる茶飲み友達である。秋成が加島村で医者の修業を始めたころ、兼葭堂の求めで彼の半生記を聞き書きした『あしかびのことば』の草稿『阿志乃也能記(あしのやのき)』の自筆本も中之島図書館に収蔵されている。2冊とも保存の状態が良いせいか、秋成の墨筆の素晴らしさに見惚れてしまった。兼葭堂は淡路切町の(現在の中央区淡路町1丁目)秋成の家にも度々訪れ、互いの家に行き来していたことが『兼葭堂日記』にも記されている。その数五十数回に及ぶ。「東作来ル、夕飯出ス」や「上田余斉中食」など、特別な客であったことが窺える。


京都の秋成の足跡を訪ねる

『胆大小心録』に「尼はもと京のうまれじゃ故、尼住みたいと云也、まあこころみに、ちょっと、智をんいんの前へこしかけてあそび初めたが、軒のむかいは村瀬栲亭、松村呉春がよろこんで、出会互にしきり也」とある。還暦を契機に大坂の拝金主義や雑踏から逃れるように京に移住した秋成に、村瀬栲亭は「京は不義国だから、覚悟するように」と諭したという。それから16年、秋成は歌人の小沢蘆庵、西福寺の玄門和尚、伏見稲荷の詞官・羽倉信美など心を許しあった人たちに援けられながら雅の文芸を極め、多くの著作を残し天寿を全うした。

ふみよめば 絵を巻きぬれば かにかくに 昔の人の しのばるゝかな

京都の梨木神社(京都御苑清和院御門の東)境内に秋成自詠の歌が刻まれた「秋成終焉の地」の石碑がある。秋成が76年の生涯を閉じたのは、この直ぐ南の鴨川の畔の羽倉信美邸であった。自ら鶉居(じゅんきょ)(一時な住まい)と称したように京都での住まいを転々とした秋成だが、ここ羽倉信美邸では亡くなった時も合わせて7年余りを過ごした。


秋成ゆかりの茶室「雨月席」


洛北の野仏庵に南禅寺から移された秋成ゆかりの茶室があるということで訪ねることにした。京都駅から岩倉行きの京都市バスに乗り50分余り、「一乗寺下り松町」で降り、先ずは詩仙堂を目指す。11月中旬の日曜日の午後ということもあり、参道は大勢の人で賑わっていた。詩仙堂を過ぎて坂道を30m行くと左手によし葦の趣のある野仏庵の正門に着く。拝観日は水曜と土・日の週3日。紅葉に染まる野仏を眺めながら石段を登り主屋へ。入口の鐘を打つと「おこしやす」と女性が静かに現れる。拝観料は抹茶とお菓子付きで500円。コスパは最高。枯山水の庭を眺めていると抹茶とお菓子が運ばれてくる。奥の茶室は秋成の『雨月物語』に因んで「雨月席」と名付けられた煎茶用の茶室。元は南禅寺の西にあった茶室を移築したもの、煎茶の茶室は初めて拝見するが、5帖半の明るい茶席だ。床には秋成自筆の『猫恋妻』歌幅が掛けられ、襖絵は友人の松村呉春が描いたもの。贅沢な空間である。煎茶をこよなく愛した秋成は作陶もやったという。西に大きく開かれた窓からは、秋成が16年にわたって漂白した京の町を一望できる。


大坂出生之人、歌道之達人


観光客で賑わう南禅寺の参道の手前の小路を北に2分ほど行った所に小さな寺がある。源智山西福寺である。本堂の奥庭に蟹の台座に「上田無腸翁の墓」と刻まれた一風変わった墓がある。この蟹の台座は若冲が石峯山で五百羅漢を彫った残りの石で作って運ばせたもの。70歳を過ぎた頃、秋成は親交のあった西福寺の住職玄門和尚に墓はここにと懇願したかも知れぬ。「我なき跡のしるしの石なり」と『春雨梅花歌文巻』に記されている。この世を蟹のごとく横ばいに歩んだ秋成らしい墓所だ。寺に伝わる簿霊帳には「大坂出生之人、歌道之達人、三余斎無腸居士」と記されている。西福寺の玄門和尚は、秋成に敬意をもって「大坂生まれの歌道の達人」と記したものと思われる。(傍線は筆者)

平成30年(2018)6月24日の日曜日、『秋成忌』が西福寺で開かれた。この秋成忌は平成22年(2010)から「上田秋成を語る会」主催、『日本近世文学会』後援で6月の最終日曜日に開催されているもの。稲田篤信首都大学東京名誉教授をはじめ、長島弘明氏(東京大学教授)、飯倉洋一氏(大阪大学教授)などの上田秋成の研究者や秋成ファンが大勢集い、「上田秋成翁二一〇回忌法要」が執り行われた。祭壇には70歳頃の秋成の風貌を写した京焼の坐像(寺宝・初代高橋道八作)が開帳された。その穏やかな顔を見ると、偏屈で気難しい秋成のイメージが一転する。法要の後、稲田篤信さんの「絵詞として読む春雨物語」と言うテーマで講演が行われた。そして、この日の出し物は、吾妻成莉穂(あづませりほ)さんの雨月物語ゆかりの日本舞踊「白蛇の恋」。そして筑前琵琶奏者片山旭星(きょくせい)さんの「蛇性の婬(いん)」が披露され、本堂は『雨月物語』ワールドに包まれた。



2019年2月

橋山英二



 

≪参考文献≫
 ・飯倉洋一『秋成考』(翰林書房)
 ・飯倉洋一『上田秋成絆としての文芸』(大阪大学出版会)
 ・長島弘明『上田秋成の文学』(NHK出版)
 ・長島弘明『秋成研究』(東京大学出版会)
 ・原雅子『江戸の鬼才上田秋成』(中経出版)


≪施設情報≫
○ 香具波志神社
   大阪市淀川区加島4–4–20
   アクセス:JR東西線「加島駅」より徒歩約15分

○ 源智山西福寺
   京都市左京区南禅寺草川町
   アクセス:京都市バス「東天王町」より徒歩約7分

○ 上田秋成終焉の地「石碑」梨木神社内
   京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680
   アクセス:京都市バス「府立医大病院前」より徒歩約5分

○ 野仏庵(雨月席)
   京都市左京区一乗寺栗山町15–3
   アクセス:京都市バス「一乗寺下り松町」より徒歩約5分

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association