JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 情報公開
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人
なにわ大坂100人イメージベース画像
なにわ大坂100人イメージ画像
書籍広告画像
アマゾンリンク画像

第67話 神武天皇じんむてんのう (BC711?-BC586?)

天地創造と日本建国の祖

 我が国の建国の祖であり初代天皇とされているが、実在したかどうかは歴史学では実証されていない。しかし民族の神話として連綿として語り伝えられ、日本人のアイデンティティの基盤をなしていて、しかも、その国家創生の物語はなにわの海から始まるのである。

古事記・日本書紀には日本の島々がなにわの海の雫から生まれたこととともに、神武東征の物語が展開される。天照大神の子孫である神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)が45歳の時、日向国の高千穂宮で東征を決意、兄の五瀬命(いつせのみこと)とともに瀬戸内海を東上する。やがてなにわの海に至るが、なにわの岬、現在の上町台地の突端で奔潮に会う。当時上町台地の東側から生駒山地の麓までの間は河内潟で内海になっていたため、引き潮では潟口から西の大阪湾に向けて急流が生じていたと思われる。故にここは古くから浪速国あるいは浪花と呼ばれていた。

まずは岬に取り付いた磐余彦尊は祭祀を行い、生島大神(いくしまのおおかみ)と足島大神(たるしまのおおかみ)を祀った。

これが現在も存在する生國魂神社の創祀とされている。次に東側の内海に入りこんで竜田から内陸に向かおうとするが、山が険阻で進めず、生駒山(といま呼ばれている山の)西麓から上陸した。そこでこの土地を支配していた長髄彦(ながすねひこ)と孔舎衛坂(くさえさか)で戦いになり、坂の上から攻められて敗退し、兄の五瀬命が矢傷を負い、盾津まで退く。

重傷を負った五瀬命は「自分たち兄弟は太陽神の子孫であるのに東の太陽に向かって矢を放つのは天の意思に反することであった。回り込んで背に太陽を負って戦おう」と提案する。そこで一行は再び船を出してなにわの海を迂回し熊野に至る。この間、五瀬命は矢傷がもとで落命、熊野でも大いに苦戦するが、八咫烏(やたがらす)の案内で山を越え、磐余彦尊軍はついに大和の地に入る。ここでも激しい戦いの末、ついに平定し52歳のとき橿原宮で践祚し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)(御肇国天皇)と名乗った。こうして神武元年が始まった。

即位年は明治時代に西暦に換算され、紀元前660年2月11日とされた。神武天皇は76年後、127歳で崩御したと伝えられているが正確な史実は不明で雲霧に包まれている。


フィールドノート

「孔舎衛坂」で激戦を偲ぶ


神武天皇の事蹟は日本全国にわたり、いまなお各地で人々に語り継がれているが、本稿ではなにわ関連に限って探訪を試みた。

まずは、内海にあった生駒山西麓の草香津(くさかのつ)を訪れる。いまは東大阪市日下町近辺となっているが、近鉄上本町駅から急行で約20分、河内平野を横断し石切駅に向かう。ビルや住宅が立ち並ぶ河内平野が昔は海だったと往時を想像すると、見渡す限りの渺渺(びょうびょう)たる海の風景が瞼に浮かぶ。海からの思いで東を眺望すると右側の信貴山から左へ生駒山にかけて峨峨(がが)たる山容がそそり立って見える。石切駅に近づくと生駒山地の険しい山地が眼前に迫る。船に乗って接近した東征軍にとっては屏風のように切り立った崖が眼に入ったことだろう。

石切駅から車で激戦となった孔舎衛坂に向かう。いまは住宅が密集していて細い道を辿るのに苦労する。坂は予想以上に急坂の連続で歩くと息が上がるほどだ。山腹にある春日神社に古戦場の石碑があった。

西に目を向けるとはるかに大東市、東大阪市、その向こうに大阪市の市街地がかすんで見える。東は急峻な山で大竜禅寺のあたりから車は前に進めず獣道のような坂道が山越えの道になっている。見上げるような急坂の孔舎衛の坂道、これでは坂の上から弓で攻められたら負けるのも無理はないと実感した。

この坂をのぼった上にも戦跡の記念碑が立っている。ここで五瀬命が矢傷を受け一行は盾津まで撤退する。盾津は山地から平地になるところで昔は海の津だったのだろう。いまはびっしり住宅が立ち並び、狭い道を顕彰碑に辿り着くのにも一苦労である。


海道東征 〜 海と太陽の道 〜

山麓から遥か西を眺望しているとき、「海道東征」という言葉が思い浮かんだ。確か北原白秋(1885-1942)の詩だったと思う。神武東征軍が船に乗って瀬戸内海の潮流に乗り、なにわの海に辿り着いた物語だ。

瀬戸内海は両端が狭い海峡になっているため干満の差が激しく、日向から満ち潮に乗ると労せずして鞆(とも)の浦あたりに来る。今度は引き潮に乗ると天然の動力である潮の流れに乗って淡路島に至る。瀬戸内海はまさに動脈のような海道である。日本の建国は実にこの海道によって始まったのだ。国のアイデンティティが海洋民族による「海」と「太陽」であることを改めて確信した。

白秋の詩は日向の高千穂から大和をめざし「日の皇子や…いざ御船出ませや…満ち潮の…海道」と船出の描写に始まり、「荒海や…八潮道…速吸い」などを乗り越え「浪速の辺…日下江の蓼津…いざのぼれ大和は近し」とうたい上げる長編詩に仕上げられている。

北原白秋の詩を基に元東京音楽学校教授で「海ゆかば」の作曲もした信時潔(のぶとききよし)が昭和15年(1940)、壮大な交声曲を書き上げた。信時は大阪に生まれ大阪府立市岡中学校を卒業して東京に出た人である。その信時と縁があった大阪朝日放送社員で作家の阪田寛夫が短編小説『海道東征』を書き、これは昭和62年(1987)第14回川端康成文学賞を受賞している。

日本の神話については戦前、戦中に軍国主義に利用されたために敗戦後、誤解を招き国民の理解が必ずしも充分でないのは残念なことである。どの民族にもそれぞれ神話があり、はるかなる祖先の記憶をいまに伝えているものなのだ。


なにわ最古の「生國魂神社」を訪ねて


さて上町台地に戻り、なにわ最古の生国魂神社を訪ねる。主祭神は生島大神と足島大神で、もともと現在大阪城があるところに鎮座していたのを秀吉が築城のとき天王寺区生玉町に遷座させた。

生島の神、足島の神は日本国土の神霊であり、国土を生成し、国土を拡大成長させ充足させる国の守護神とされ、平安京では宮中の神祇官の生島巫(いくしまのみかんなぎ)によって奉斎されていた。天皇が日本国土を治める裏付けとなる神霊とされ、日本書紀や平安時代の延喜式に記述が出てくる。中世の石山本願寺も生國魂神社の神域内にあったとされる。拝殿は何度も被災したがそのたびに崇敬者の志により再建され、現在の社殿は昭和31年(1956)に建てられたものである。

生國魂神社の筆頭権禰宜の中村文隆氏に話を聞いた。

「日本人は神霊(御魂)が形をなして、山川草木や海や陸になっていると考えてきました。生島の神、足島の神が八十島(やそしま)、つまり日本列島の形をとって現れているのだという訳です。日本列島の統治を目指す東征軍一行もなにわの海に至り、まずは上陸した上町台地突端で祭祀を行ったものと思われます。同時にここは内海に入る前線基地であるとともに、なにわの海を見渡す軍事的要衝であり、制海権を確かにしたのではないでしょうか」また、「神武東征の時期は縄文後期から弥生時代へ、稲作農耕文化の伝搬と密接に関連しています。ルートや伝承祭祀がそれを思わせます」と中村氏は推理する。

代は下り、豊臣秀吉の大坂城築城に伴い現在地に社殿を構えた江戸時代になると、生國魂神社の2万5千坪の境内が大坂の賑わいの拠点になっていたという。

「近松門左衛門はここを舞台に脚本を書き、井原西鶴はここで矢数俳諧の会を開きました。米沢彦八が軽口噺話や役者の身振り声色、もの真似で市中の評判となり、境内には見世物小屋や芝居小屋が軒を連らねていました。国学の祖、契沖もこの神社の境内に佇む生玉十坊のひとつ、曼陀羅院の住職でした。文学や学問の拠点でもあったのです。現在も8月11日、12日には薪能が奉納され、彦八まつりで賑わっています」。

いまでも大阪の賑わいは集中的に催される神社仏閣の夏祭りが特徴だ。7月11日、12日の生国魂祭に始まり、天神祭があり、住吉祭で締めくくられる。


新天皇即位奉祝「八十島祭」の開催を

平安時代から鎌倉時代にかけて、新しく天皇が即位する時に儀礼の一環として大嘗祭の翌年になにわで八十島祭が斎行されたという記録が残っている。

新天皇の内侍と生島巫がなにわの津にやってきて祭壇を設け、天皇の衣が入った箱を開き、琴の音に合わせて揺り動かし、祭壇の供え物を海に投じて祈ったという。新天皇の衣に大八洲(おおやしま)(日本の古称)の神霊を付着させ、全国土の国魂を得て国土安泰と発展を祈ったのである。平安以前にも天皇自身によるなにわへの行幸の記録があり、おそらくその時の祭事が受け継がれてきたものと思われる。

平安時代には、祭使一行は華美な行装で内裏から淀まで牛車を連ねて淀から難波津まで船で下った。沿道には桟敷が作られ見物の人垣が出来たという。新しく天皇が即位する時の重要な祭事は大嘗祭だが、これに加えて、即位翌年の八十島祭で完結したのである。

平成31年(2019)に新天皇が即位される。そのあと大嘗祭が行われる筈であることから、翌年の新しい年号2年に奉祝八十島祭を開催してはどうかという動きが大阪で起こっている。戦国時代以降途絶えていたこの祭事を開催するまたとない機会である。この機会を逃せばまた次の時代まで待たなければならない。幸い70年以上、日本は平和な環境を育んできた。いまこそ日本国土の発祥たる伝統をぜひとも再現したいものだ。

2019年1月

堀井良殷



≪参考文献≫
 ・新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史』1988年(大阪市)
 ・『日本史広辞典』1997年(山川出版)
 ・産経新聞取材班『神武天皇はたしかに存在した』2016年(産経新聞出版)
 ・植村清二『神武天皇 ー 日本の建国』(中公文庫)
 ・宝賀寿男『「神武東征」の原像』(青垣出版)
 ・長浜浩明『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(展転社)


≪施設情報≫
○ 神武天皇像
   奈良県奈良市大渕町3775番地 御嶽山大和本宮境内
   アクセス:近鉄奈良線「学園前駅」より徒歩約25分

○ 生國魂神社
   大阪市天王寺区生玉町13–9
   アクセス:大阪メトロ谷町線「谷町九丁目駅」より徒歩約4分

○ 春日神社
   大阪府東大阪市善根寺町6丁目7–67
   アクセス:近鉄奈良線「石切駅」より約2km

○ 神武天皇聖蹟盾津顕彰碑
   大阪府東大阪市日下町6丁目
   アクセス:近鉄けいはんな線「新石切駅」より近鉄バス「孔舎衙小学校前」下車、
   孔舎衙小学校東側

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association