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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第80話 蓮如れんにょ (1415 〜 1499年)

浄土真宗の教えを庶民に広めた本願寺中興の主

本願寺第8世宗主。宗祖親鸞が説く他力本願すなわち阿弥陀如来への信仰を広め、日本最大の宗派へ導いた本願寺中興の主。浄土真宗の教えを大衆に解き放ち、庶民(百姓、女人、非人、悪人)に平座で説法し、「御文(おふみ)・御文章(ごぶんしょう)」と称される口語体のわかりやすい書簡による教化を創案した。(「御文」は東本願寺、「御文章」は西本願寺の呼称)

蓮如は応永22年(1415)、本願寺7世宗主存如(ぞんにょ)の長男として京都東山の大谷本願寺に誕生した。当時、本願寺の住職は蓮如の祖父巧如(ぎょうにょ)で、本願寺は天台宗青蓮院の末寺であった。母は存如の母に仕えていた女性で、蓮如6歳の時、存如が正室〔如円、幕府の奉行海老名氏の娘〕を迎えるにあたり、絵師に肖像を描かせてこれを携えて寺を去り、以後行方不明となった。蓮如は継母のもとで不遇の幼少期を過ごしたが、成人後、父存如と協力し各地への教化を行っている。長禄元年(1457)、存如が病没すると継母如円尼は葬儀を取り仕切り、実子の応玄(おうげん)に継職させることを企んだ。ところが存如の弟如乗(にょじょう)が蓮如の才能を見抜き、長男が継ぐべきだと周囲を説得し、蓮如は43歳で8世を継職した。

8世を継職した蓮如は、直ちに近江南部の教化に乗り出した。この地を中心に大きな門徒集団が生まれ始めた。これに恐れを抱いた比叡山延暦寺は本願寺の破却を決定し、寛正6年(1465)、大谷本願寺を襲撃した。蓮如は同寺を退去して転々としたのち、文明3年(1471)、交通の要衝、越前吉崎に坊舎を営む。当時は応仁の乱や各地で一揆が頻発するなど戦乱の時代であったが、人々は吉崎御坊に群集した。文明7年(1475)、争い(武士の争い、高田門徒との争い、一向一揆発生)を避け吉崎を退去、河内の出口(後の出口御坊・光善寺)に着く。しばらくは摂津、河内等畿内の教化に励み、堺や富田に坊舎を建てた。

文明15年(1483)、親鸞の木像を安置する山科本願寺を完成、周囲を堀・土塁で固め城郭に囲まれた寺内町を形成した。延徳元年(1489)、住職を五男の実如(じつにょ)に譲り、南殿(みなみどの)(史跡、200m四方の城郭、現光照寺)に隠居した。

蓮如は、住職継職以前は天台宗的な風潮が濃厚であった宗門の改革に着手し、親鸞聖人の同朋思想にもとづき、門徒と平座で仏法を語り合った。

長禄3年(1459)から3年間、大飢饉が発生し1千万人とも言われる多数の餓死者が出た。蓮如は「御文・御文章」といわれる平易な理解しやすい口語体の書簡252通でもって、人々に、阿弥陀如来の救いを説き進めた。

蓮如は、生涯5人の女性と結婚し(前妻死別後再婚を繰り返し)、男13女14の合計27人の子どもを持つ。最後の子ども実従(じつじゅう)は84歳のときの子どもである。子どもたちは里子に出されたが、これらの子どもは布教戦略の一翼を担い、本願寺が大発展する原動力になる。

蓮如は引退後も近江、摂津、河内、和泉を往来し伝道に専念した。明応5年(1496)、摂津国東成郡生玉の庄内大坂の地に坊舎(後の石山本願寺)造営を始め、翌年に完成した。御文「大坂建立章」(4帖第15通)に「大坂」が初出、蓮如が大坂の名付け親とされる由縁である。明応8年(1499)3月25日、山科本願寺にて示寂。85歳。京都市山科区に「蓮如上人御廟所」がある。


フィールドノート


蓮如ゆかりの地で波乱の人生をたどる


蓮如生誕の地 ― 大谷本願寺跡

知恩院(京都市東山区)の山門の北100mにある塔頭「宗泰院(そうたいいん)」のあたりは蓮如生誕の地(大谷本願寺跡)とされ、蓮如が使ったと伝わる「産湯の井戸」が残っている。ちなみに、当地に「大谷本願寺」が置かれたのは、親鸞の末娘・覚信尼が親鸞の墓(大谷廟堂)の留守職(墓守)に就任したことに遡る。その後、覚信尼の孫にあたる3代宗主覚如が大谷廟堂を整備し、「本願寺」の額を掲げて本山とした。


若き蓮如が修行 ― 比叡山延暦寺「蓮如堂」

蓮如は、得度した後22歳まで比叡山北谷で修行に励んだ。延暦寺根本中堂の東には、蓮如ゆかりの「蓮如堂」が残っている。


親鸞や蓮如らが得度 ― 青蓮院(しょうれんいん)

青蓮院(京都市東山区)は天台宗3門跡寺の一つ。当初、本願寺は青蓮院の末寺として存続した。親鸞が9歳のとき、62代天台座主の慈鎮(じちん)からここで得度を受けた。後年、蓮如も同院にて17歳で得度した。

青蓮院の門前には、天然記念物の楠の巨木が根を張っている。境内の庭園は相阿弥の作で小堀遠州の補作、キリシマツツジの刈り込みが圧巻である。同院から道を隔てた向かいには古美術商として長い歴史をもつ「山中商会本店」、北側にはホテルオークラ経営の料亭「粟田山荘」がある。


本願寺門徒の聖地 ― 金森(かねがもり)御坊

寛正6年(1465)、蓮如は近江で勢力を伸ばしつつあったが、これを危険視した比叡山延暦寺の僧兵によって大谷本願寺が破却され、金森(現在の滋賀県守山市金森町)に難を逃れた。世にいう「寛正の法難」である。さらに僧兵は当地をも急襲したため、対抗する近在の門徒衆が蜂起(金森一揆)。騒動を聞きつけた蓮如は合戦の中止を命じ、応仁元年(1467)、天台宗青連院の仲介により延暦寺と和解した。以後、蓮如は道西(どうさい)ら金森衆の庇護のもと当地で約3年間過ごし、このとき開基したのが金森御坊(別称・金森懸所(かけしょ))である。

以来、同所は湖南地方の本願寺門徒の聖地となり、「金森惣道場」とも呼ばれた。御坊内には重要文化財の石造宝塔があり、近隣には善立寺(ぜんりゅうじ)や蓮如池がある。また、御坊周辺に寺内町が形成されかけた痕跡も見られる。


北陸で同朋を増やす ― 吉崎別院

蓮如は親鸞の足跡をたどるべく父存如と北陸地方を旅したことがあった。宝徳元年(1449)のことである。その後、吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)に3度訪れ、当地で親鸞の教義を広め同朋を増やすことを決意。弟子となる地主から坊舎用地の寄進を受けたり、次男蓮乗(れんじょう)を加賀二俣坊にあった叔父如乗の養子に出したり、四男蓮誓(れんせい)を吉崎の対岸の鹿島へ住まわせるなど周到な準備を経て、文明3年(1471)7月、吉崎に坊舎を建立した。かくして北陸の門徒衆が群参し、当地は寺内町へと発展。同6年(1474)、真宗の一派である高田門徒が守護の富樫幸千代と組んで蓮如の門徒団を弾圧する事件が発生(文明の加賀一向一揆)すると、「仏法領」以外は関知しない政治不介入の立場をとっていた蓮如であったが、真宗内部の抗争には厳しい態度で臨んだ。


蓮如の居室を再現 ― 出口御坊(光善寺)


吉崎を退去した蓮如は、文明7年(1475)、出口(現在の大阪府枚方市出口町)に着き、ここに坊舎(後の光善寺)を建立した。出口は、吉崎や大坂とならぶ水陸交通の要衝であった。蓮如はここに3年間在住し、摂津、河内、和泉地方へと布教活動を広げた後、山科本願寺を建立するため山科に居を移した。

光善寺に保存されている「蓮如の居室」は、天文3年(1534)の火災で焼失したものの再現であるが、柱数本は当時のものである。庭は石川丈山の作で、当時は池に淀川から直接水が引かれていた。


堺への教化の拠点 ― 堺坊舎「信証院」(大阪府堺市堺区神明町東)

文明8年(1476)、蓮如は堺に坊舎「信証院」(堺市堺区神明町東)を建立し、自ら住職となって貿易港として栄える堺の人々の教化にあたった。中国の契丹人(きったんじん)が来日し、蓮如に教化を願ったとも伝えられている。信証院は蓮如の院号で、信証院は後の本願寺派堺別院(註1)である。

(註1)「別院」「御坊」の呼称について
「別院」は明治以降の呼称。江戸時代は「御坊」と称した地方本山で、地方の宗務機関でもあった。


親鸞の木像を祀る ― 山科本願寺

文明15年(1483)、蓮如は各地からの参拝に便利で親鸞の墓所に近い山科に「山科本願寺」を開基、三井寺南別所に安置されていた親鸞の木像を移し、本山とした。やがて当地に寺内町(註2)が形成され、9世実如(じつにょ)、10世証如(しょうにょ)(実如の子)の3代54年間にわたり繁栄した。同寺の近くには、蓮如が隠居した光照寺(南殿跡)や蓮如上人御廟所、東本願寺山科別院、西本願寺山科別院がある。

(註2)16世紀中頃より真宗寺院を中心に形成された環濠城塞の宗教都市。自治権をもち租税免除の特権を得て手工業者、商人が集住し繁栄した。


けものの棲家が寺内町に変貌 ― 大坂(石山)本願寺

明応6年(1497)、蓮如は交通の要衝ながら当時「虎狼のすみか也(蓮如の子・実悟『拾塵記』)」と言われた大坂に大坂坊舎を建立して居を構え、伝道教化に励んだ。この坊舎は蓮如が「南無阿弥陀仏」の名号を多数書いて信徒に授与し、その礼金によって建立されたことから「名号坊舎」と呼ばれた。

時を経て天文元年(1532)、山科本願寺が法華宗徒らによって破却されると、住職の証如は大坂坊舎に本願寺を移転して大坂(石山)本願寺を創建(1533年)。やがて戸数数千を数える寺内町が形成された。現在、石山本願寺があったところは大阪城公園となり、園内には「南無阿弥陀仏」と彫った蓮如の顕彰碑が建てられていて、同碑前にて本願寺派(西本願寺)は新暦の5月14日、大谷派(東本願寺)は旧暦の3月25日を蓮如の祥月命日とし、それぞれ法要が営まれている。


本願寺法主を輩出した名門 ― 顕証寺(大阪府八尾市久宝寺)

明応年間(1492〜1500)、蓮如は現在の大阪府八尾市久宝寺に顕証寺を創建した。初代住職は十一男の実順(じつじゅん)であったが、早世したため大津顕証寺住職の六男蓮淳(れんじゅん)が跡を継いだ。本願寺法主17世法如、20世広如を輩出した名門である。ここでは寺内町も形成され、河内木綿の商人が集住して繁栄した。ちなみに当地は道頓堀開削に協力した安井九兵衛の一族が支配した。


弟子法円が開基 ― 浄照坊

蓮如が大坂坊舎を建立(1497年)したことに合わせて、弟子の法円(ほうえん)が真宗寺院の「浄照坊」(大阪市天王寺区真田山町)を開基した。蓮如は河内教化のためしばしば同坊を訪れ、法円の絵像を7世の法光に授けている。かつては同寺も久宝寺にあったが、本願寺の大坂移転に伴い当地に移転し、本願寺御堂衆として仕えた。現在残る「法円坂」「久宝寺町」の由来となった。



現代につながる蓮如ゆかりの大阪


御堂筋と船場商人

蓮如の玄孫である本願寺11世顕如(けんにょ)が織田信長との石山合戦(1570〜1580)で敗退し、本山を紀州鷺の森を経て京都へ移転したため、大坂の門徒衆が現在の天満橋八軒家浜辺りに「津村御坊」と呼ばれる集会所を作った。それが慶長10年(1605)に移転して、現在の西本願寺津村別院(北御堂・大阪市中央区)となる。また、文禄4年(1595)に顕如の長男である本願寺12世教如(きょうにょ)が天満橋あたりに大谷本願寺を開基。後に北御堂の近くに東本願寺難波別院(南御堂・同)として移転した。こうして南北御堂が建ち並ぶこととなり、その頃から沿道は「御堂筋」と呼ばれるようになった。

また、南北御堂の近くに篤信の門徒が多い近江出身の商人などが集まり、「船場」の町を築いた。その中には、三井家や鴻池家と並ぶ大商人・加島屋教西(かじまやきょうさい)をはじめ、鴻池善右衛門、安井治兵衛(道頓堀開削の協力者)などがいた。


近代女子教育の先駆け ― 相愛学園と大谷学園

明治21年(1888)、西本願寺21世宗主の明如(大谷光尊・1850〜1903)が、大谷家の私財を投じて津村別院内に相愛女学校を設立。明如の妹・大谷朴子(なおこ)が初代校長となり、現在、相愛大学(音楽部、人文学部)、女子短期大学、高等学校、中学校を擁する相愛学園の礎が築かれた。明治34年(1901)、女学校設立時の参与30名の中には、廣岡信五郎(日本女子大学校設立発起人の一人である廣岡浅子の夫)の名前が見られる。開校時の生徒は主に船場のいとはん(お嬢さん)で、卒業生には小説家の山崎豊子(1924〜2013)らがいる。相愛学園は平成30年(2018)に創立130周年を迎える。

また、明治42年(1909)には、難波別院内に「大谷裁縫女学校」が開校した。校祖は左藤了秀(さとうりょうしゅう)(1864〜1945・大阪府知事を務めた左藤義詮の養父)で、職業に就く専門教育よりも良妻賢母となるための教養教育に重点をおき、報恩感謝の宗教教育にも力を入れた。平成18年(2006)には男女共学となり、現在、大阪大谷大学、大学院、短期大学部、大谷中学校・高等学校、東大谷高等学校、大谷幼稚園を擁し、同26年(2014)には、あべのハルカス(大阪市阿倍野区)に大阪大谷大学ハルカスキャンパスを開設した。大谷学園は、同21年(2009)、大谷裁縫女学校の創設から数えて100周年を迎えた。


教化の方便に利用 ― 蓮如と能・狂言

本願寺で能や狂言が盛んに行われるようになったのは、信者が説法に退屈しないようにと、蓮如が説法の一部に能や狂言を取り入れたことにはじまるといわれている。その後、能はだんだんと法要に付随する形で演じられ、年中行事化し定期的に行われるようになった。



2019年2月

江並一嘉



 

≪参考文献≫
 ・丹羽文雄『蓮如』1~8巻 (中公文庫)
 ・大阪教区 蓮如上人顕彰委員会『蓮如上人御旧跡をたずねて』(大阪を中心に)(浄土真宗本願寺派大阪教区教務所)
 ・青木馨『蓮如上人ものがたり』(東本願寺出版部)
 ・奥林亨『蓮如上人ものがたり』(難波別院)
 ・千葉乗隆『蓮如上人と大阪』(本願寺津村別院)
 ・相愛学園百年史編纂委員会『相愛学園百周年記念誌』
 ・京都国立博物館『蓮如と本願寺 ―その歴史と美術―』展覧会図録
 ・浄土真宗教学研究所『蓮如上人御一代記聞書』(本願寺出版社)
 ・大谷暢順『蓮如[御文]読本』(講談社学術文庫)
 ・神田千里『一向一揆と石山合戦―戦争の日本史―』(吉川弘文館)
 ・大谷暢順『歴史に学ぶ蓮如の道―日本再生を求めて』(海竜社)
 ・木場明志他『別院探訪』(東本願寺出版部)
 ・岡村喜史・大喜直彦『大阪と本願寺』(本願寺津村別院)
 ・岡村喜史『大阪と本願寺 ④蓮如宗主と大坂坊』(本願寺津村別院)
 ・細川行信『現代の聖典 蓮如 五帖御文』(法蔵館)
 ・藤原暢信『蓮如上人と光善寺』(自照社出版)


≪施設情報≫
○ 大谷本願寺跡(知恩院塔頭「宗泰院」)
   京都市東山区林下町
   アクセス:京都市バス「知恩院前」より徒歩約5分

○ 山科本願寺跡南殿跡(光照寺境内)
   京都市山科区山科団地周辺 
   アクセス:JR東海道本線「山科駅」より徒歩約15分

○ 蓮如上人御廟所
   京都市山科区大手先町
   アクセス:JR東海道本線「山科駅」より徒歩約15分

○ 光善寺・出口坊
   大阪府枚方市出口町2–8–13
   アクセス:京阪本線「光善寺駅」より徒歩約20分

○ 堺坊舎・信証院
   大阪府堺市堺区神明町東3丁目1–10
   アクセス:阪堺電車「神明町停留場」より徒歩約5分

○ 北御堂(浄土真宗本願寺派 本願寺津村別院)
   大阪市中央区本町4丁目1番3号
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「本町駅」2号出口より徒歩すぐ

○ 南御堂(浄土真宗大谷派・難波別院)
   大阪市中央区久太郎町4–1–11
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線「本町駅」13号出口より徒歩約3分

○ 浄照坊
   大阪市天王寺区真田山町5–45
   アクセス:JR大阪環状線「鶴橋駅」より徒歩約5分

○ 顕証寺
   大阪府八尾市久宝寺4丁目4–3
   アクセス:JR大和路線「久宝寺駅」より徒歩約10分

○ 青連院
   京都市東山区粟田口三条坊町69–1
   アクセス:京都市地下鉄「東山駅」より徒歩約5分

○ 大阪大谷大学ハルカスキャンパス
   大阪市阿倍野区阿倍野筋1丁目1–43(あべのハルカス23階)
   アクセス:近鉄南大阪線「大阪阿部野橋駅」下車すぐ

○ 比叡山延暦寺蓮如堂
   滋賀県大津市坂本本町4220
   アクセス:坂本ケーブル「ケーブル延暦寺駅」より徒歩約10分

○ 善立寺(金森御坊、金森懸所)
   滋賀県守山市金森町(かねがもりちょう)753
   アクセス:近江鉄道バス「金ケ森町バス停」より徒歩約5分

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