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第73話 法然ほうねん (1133 〜 1212年)

仏教を民衆に広めた浄土宗の宗祖

美作国久米(現在の岡山県久米郡)の押領使(おうりょうし)(警察・軍事官職)の子として生まれ、9歳のとき(15歳説もある)母方の叔父の勧めで仏教の最高学府であった比叡山に上る。たちまち頭角を現し、18歳のとき「法然房源空」の名前を授かり、智慧第一の法然房と称賛された。

しかし、安元元年(1175)43歳の時、一大決心をして行動に移す。すなわち最高学府のエリートとして比叡山で暮らす生活をかなぐり捨て、市井の庶民の中に分け入って仏教を広める活動を始めるのである。

それまで仏教は、学問の深さを求め、厳しい戒律によって修行を重ねることが重視される修行僧や宮廷貴族、高級武士など社会の上層部のみが享受していた。しかし、と法然は考えた。仏恩によって救われるのは上層部の人たちだけで良いのだろうか?そんな筈はない。末法の騒然たる世情の中で苦しみながら懸命に生きている庶民大衆こそ仏恩によって救われるべきではないのか。そして唐の善導大師の「観無量寿経疏」に啓示を受け、「南無阿弥陀仏」と一心に唱えることで誰でも救われると説く浄土宗を立教開宗した。

法然のもとに証空、隆寛、親鸞など俊秀が馳せ参じるなど、次第に勢力は広がっていった。建久9年(1198)、主著となった『選択(せんちゃく)本願念仏集』を著す。そうしてますます地方にも浸透拡大し、公家貴族や女房たちも専修念仏の徒となる事態についに比叡山も黙っていられなくなり、抗議活動を開始、承元元年(1207)、後鳥羽上皇を動かして念仏停止の断が下される。法然は讃岐国に、親鸞は越後国に配流の身となった。法然75歳にして被った法難であった。

しかし、高齢にもかかわらず讃岐でも布教活動を精力的に行い、10カ月の後、赦免され摂津国豊島郡(現在の箕面市)の勝尾寺にしばらく滞在し、建暦元年(1211)京に戻った。

翌建暦2年(1212)1月12日、法然は享年80(満78歳)で一枚起請文(遺訓)を書き残して没した。智恩院が廟所である。


フィールドノート

救いの手をさしのべる日本の仏教

法然が立教開宗した安元元年(1175)と言えば、後白河法皇が院政をとり、平清盛が太政大臣であったが、この時代、京の市中では大火が相次ぎ、疱瘡が大流行していた。保元元年(1156)、平治元年(1159)の保元、平治の乱など戦乱が相次ぎ世情不穏で、飢饉が発生すると餓死者が河原に置き去りにされるありさまであった。この苦しみから大衆、民衆を救うのに難しい修行などは求められない。しかしただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、不完全な人間であろうと、罪穢れを持つ人であろうと、誰でも救われるというのが専修念仏であり、浄土宗などの浄土思想は日本仏教史上の大変革であった。

南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏に帰依します」「阿弥陀佛国に行かせてほしい」という意味である。では阿弥陀佛国とはどんなところか。無量寿経には、「そこは48の願いがすべて実現している世界」であると述べられている。48の願いとは、「すべての人は平等で差別がなく、煩悩から解き放たれ、衣食住が充足され、自由な極楽の世である。その国から、世界の諸国や人々の実情が手に取るようにすべてを見通すことができて、困っている人がいれば瞬時にそこに赴き一人の残らず助けることができる」それが阿弥陀様の国であり、そこに至るためには「10回でも一心に南無阿弥陀仏と唱え、その国に至るよう心をこめて願いなさい。そうすれば必ず叶えられます」と記されている。

筆者は浄土宗の巻向山(まきむくざん)常善寺の檀家総代であり、『第28世隆誉修之上人よりの五重相伝(ごじゅうそうでん)(五つの順序に従って浄土宗念仏の奥義を伝える法会)』を受けている。その日常勤行の中に善導大師による「発願文」があり、「…彼の国に至りおわって、六神通を得て十方界にかえりて、苦の衆生を救摂せん…」とあり、つづいて「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と唱える。仏の光は隅々まで届き、念仏を唱える人は一人も残さずすべてが救われる。という意味である。

そもそも人間は不完全なもの、いくら知識学問を積み重ねたところで大宇宙のすべてがわかる訳でもない。むしろただひたすら大自然の永遠の摂理に身をゆだねて心を込めて念じることこそ大事であるという考えで、これは西洋の人間の理性で自然を律してゆくという考えと鮮やかな対比をなしている。救いの手を差し伸べてくれる仏と、厳しく罰を下す西洋の神とも対比できる。仏の世界には、平等、自由、平和、奉仕の精神など現代においてますます重要な課題が凝縮されているようにも感じられる。


なにわと法然上人



なにわとのかかわりで必ず出てくるのが日想観の伝承である。宝永2年(1705)頃に一心寺39世高譽慎孝が制作した『一心寺縁起絵巻』にこの話が絵入りで書かれている。文治元年(1185)、法然上人が四天王寺別当慈鎮の招きで当地を訪問。たまたま四天王寺に居合わせた後白河法皇と席を共にして、「日想観」を行ったとしている。日想観というのは『観無量寿経』に説かれている極楽浄土の相を夕陽を観想することで相念する行である。

この絵巻とは別に元禄10年(1697)頃、一心寺と懇意の伊勢桑名の禅僧から寄贈された添え状のある土佐光茂筆の法然上人日想観の絵がある。眼下にひろがるなにわの海、はるか西の六甲の山並み、淡路島の影、その間に沈みゆく夕陽、草庵から眺める黒衣の法然上人と緋の衣の後白河法皇の姿が描かれている。

この時の後白河法皇の歌、「難波潟入りにし日をもながむれば よしあしともに南無阿弥陀仏」は有名である。その草庵のあとに、一心寺の広い境内諸堂と法然上人をまつる開山堂と名付けられた堂宇が建っている。


一心寺日想観の集い(この項・長谷川俊彦)


平成29年(2017)9月24日、午後4時から大阪市天王寺区逢阪にある一心寺日想殿で、秋の彼岸恒例の「日想観の集い」が開催されたので参加した。観無量寿経の日想観を修する(法会を行う)勤行が戦前まであったが、戦後途絶え平成19年(2007)から再開されたのだという。読経の他に講演会も開催するなど趣向を凝らし、10回目にあたる平成28年(2016)は150人近くの参加者があった。

ちなみにこの年はNHK大河ドラマ『真田丸』が放送中で、大阪城天守閣館長北川央氏は「真田幸村の最期」という話題性たっぷりの講演。続いて高口恭行一心寺長老が「日想観と一心寺」と題して講演を行った。高口長老は、観無量寿経の観とは「観察する、ウオッチング」、無量寿とは「阿弥陀仏および阿弥陀仏の国・極楽浄土」、経とは「テキスト、ノウハウ」のことで、「観無量寿経とは極楽ウオッチングのノウハウを意味し、その最初が日想観である」と分かりやすく説明された。また、後白河法皇と法然上人のお二人が、この地で日想観を修されたことが一心寺の発祥というエピソードも披露。そのとき法皇は、「難波潟入りにし日もながむればよしあしともに南無阿弥陀仏」と詠われたという。当時の上町台地の崖下には葦の原っぱが広がっていた。その先は海で、今も地名に残る松島、四貫島などの島々が点在していたのである。彼岸、夕陽が淡路島と六甲の山並みに挟まれた明石海峡に沈む。それはこの世の出口であり、あの世への入り口でもあるという。

講演が終わり日没の時間になると、勤行が始まる。この日も曇り空で時折薄日が差すこともあったが、最後まで夕陽は期待できなかった。導師による「日想観文」の後、僧侶たちが抑揚の効いた「南無阿弥陀仏」を一斉に唱えると、阿弥陀如来像の背後に掛けられた日没をイメージした赤い垂幕が一段と赤みを増し、あたかも夕陽が沈んでいくかのように見えたのはまことに不思議であった。


設計に日想観を取り入れた堂閣伽藍

一心寺の高口恭行長老は寺院建築の第一人者であり、住職在任中に一心寺の堂閣伽藍を自らの設計により次々に整備してきた。その設計や内装に日想観がどのように取り入れられているのか。高口長老に聞いてみた。「浄土宗の『法然上人二十五霊場』においても、一心寺は『第七番法然上人日想観の遺跡』とされ、戦前の一番座敷は西に開けた大広間『日観亭』で、春秋両彼岸には落日に合わせて歌うように称える『引声念仏』の会が継続開催されていたと言います。空襲全焼ですべてが途絶えた戦後の復興は、当然戦前のこれに準ずるものでなければなりませんでした。建築工法は変更を余儀なくされましたが、『夕陽に輝く大広間・日想殿』とか、お浄土へ通じるようなイメージの『ガラスの屋根の山門』とか、太陽光の中に阿弥陀仏が感得されることを考え続けたような次第です」。

写真提供:一心寺(3点とも)


難波名号の謎

ところで一心寺の日想観伝承についてはまだまだ謎の部分がある。法然上人は当時、四天王寺の西300m、上町台地の崖の上の眺望のよいところに草庵を設け、雲集する人々に専修念仏を説いて滞在していたらしいのである。その滞在のある日、筆を執って紺紙に金泥で南無阿弥陀仏と御名号を大書し、傍らに歌を認めた。

「あみだ佛というよりほかは津乃くに乃 難波のこともあしかりぬべし」

この文書は「難波名号」として、一心寺の第一の寺宝にされている。その意味するところは、日想観の修行もさることながら、南無阿弥陀仏と声に出して唱える「口称念佛」のほうが極楽へ行くはるかに優れた道であると主張しているようである。後白河法皇の歌は素直に日想の世界に浸っているようだが、同席している法然上人の心中は全く違っていたことになる。ではなぜ法然上人は、わざわざここに草庵までつくって滞在していたのか、後白河法皇はなぜこの時、四天王寺に出向いていたのか、なぜ二人は同席して日想を行ったのか、それについての文献や研究は皆無である。

高口恭行長老は次のように謎解きの推理をする。

「1185年は屋島の戦、壇之浦の戦で平家が滅んだ年です。平家から源氏へ権力移動の大転換期、呑気に遊山している場合ではありません。もしかして後白河法皇は西海を眺望する四天王寺で戦況を観測していたのかもしれません。一方の法然上人は立教開宗から丁度10年、布教活動が軌道に乗り広がりを見せていたころ。四天王寺の西門には極楽への門であるとして常に人々が雲集しているので、この人たちに専修念仏を布教しようと出向いて滞在していたのではないでしょうか。たまたまここで鉢合わせをしたお二人は、お互い知らぬ仲でもないので、ある日、一緒に夕陽を眺める場を設けたが、そのとき二人が心中どんな思いでならんで座っていたか、誰にも分らない歴史のドラマと言えます」

歴史の幾多の変遷を見続けてきた夕陽は、今日も雄大な茜の輝きを見せて西の海に沈んでゆく。上町台地のこの辺りは夕陽丘と称され、寺院、学校、住宅が建ちならんでいる。一心寺の高口長老は劇場や日曜学校、人形劇フェステイバルなどを推進し、数々の歴史の舞台となった夕陽丘一帯のまちづくり活動を続けている。



2019年2月

堀井良殷



≪参考文献≫
 ・『一心寺資料展』2018年(一心寺存牟堂)
 ・石上善応 『ひとりも捨てず』1984年(鈴木出版)
 ・『浄土宗檀信徒必携』1985年(総本山智恩院)
 ・『新修大阪市史』1988年(新修大阪市史編纂委員会)


≪取材協力≫
 ・一心寺
 ・巻向山常善寺


≪施設情報≫
○ 一心寺
   大阪市天王寺区逢阪2丁目8–69
   アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約10分

○ 智恩院
   京都市東山区林下町400
   アクセス:京都市営地下鉄東西線「東山駅」より徒歩約8分

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