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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第64話 津守国基つもりくにもと (1026~1102年)

住吉明神を和歌の神にした中興の神主

津守国基は、万寿3年(1026)に住吉社神官津守基辰(または信国)の子として生まれた。幼い頃から住吉明神の霊験を感じ、和歌の道は国を治めることに通じると信じて育つ。長じて賀茂神社の神官で歌人の賀茂成助(かものなりすけ)と贈答歌をやりとりする仲となり、神官同士の交流を深めていった。そして康平3年(1060)、住吉社第39代神主となった。

もともと津守氏は地方豪族で、神功皇后から「住吉の津」を守るという意味で「津守」の姓を与えられたといわれている。一族は田裳見宿禰(たもみのすくね)を祖とし、遣隋使・遣唐使派遣時の祭祀一切を司った。平安時代になって神主は「職(しき)」という朝廷から与えられた官職となるが、その地位は津守氏で世襲されていった。

国基は、住吉社の神主の仕事のほかに、広大な神領の経営にも手腕を発揮した。そうして住吉社の財力を背景に京の歌壇の有力者と接近し、次第に存在感を示していく。交際相手には賀茂成助をはじめ、祇園別当の良暹(りょうぜん)、大江匡房(おおえのまさふさ)、藤原顕季(ふじわらのあきすえ)、藤原公実(ふじわらのきんざね)などがいた。いずれも勅撰集に撰歌された実績をもつ歌人である。国基のこうした都での積極的な活動が実り、『後拾遺和歌集』に次の3首が選ばれた。

「薄墨に書く玉章(たまづさ=手紙)と見ゆるかな霞める空に帰る雁がね」(巻第一春)

「独り寝(ぬ)る草の枕は冴ゆれども降り積む雪をはらはでぞ見る」(巻第六冬)

「もみぢする桂のなかに住吉の松のみひとりみどりなるかな」(巻十七雑)

さらに国基は、「衣通姫(そとおりひめ)」を祀る紀伊国和歌浦の玉津島社を住吉社に勧請した。後代、人々は住吉明神、衣通姫に歌聖・柿本人麻呂を加えた3人を「和歌三神」と呼び尊崇するようになる。

国基は神主としての本業にも励み、社殿造営や神宮寺伽藍の整備、西塔の再建、荘厳浄土寺の建立など、住吉社の発展に尽力した。また、次男の有基、三男の宣基は相次いで受領(任国に駐在する国司)に任命されたが、これも経済力豊かな国基の成功(じょうこう=寄付した者に官職を付与する制度)によるものであったといわれる。

これらの業績により国基は住吉社「中興の神主」と称され、また、「薄墨に玉章のここちして雁なきわたる夕闇の空」(津守国基集)、前述の『後拾遺和歌集』の「薄墨に書く玉章」の歌の一節をとって、「薄墨神主」とも呼ばれた。

国基は康和4年(1102)、享年77で没し、住吉大社境内の末社「薄墨社」に祭神「国基霊神」として祀られた。


フィールドノート

住吉社と津守家

関西・大阪21世紀協会の活動で日ごろお世話になっている住吉大社の権禰宜・小出英詞氏を訪ね、住吉社と津守家との関係などについて伺った。

小出氏は、住吉社が和歌との深いつながりを持つに至ったのは、古代の住吉の地は風光明媚で知られ、ここを通る熊野街道沿いは、今風に表現すれば信仰と和歌づくりの〝一大レジャーランド〟として機能したことが大きいという。海に面していた住吉は歌作に絶好のロケーションで、都の貴人が熊野詣や四天王寺参詣の折には必ず立ち寄り歌を詠んだ。その実績が何よりも得難い資産だったのである。

その住吉社を神主として歴代支えた津守家とはどういう家系なのか。小出氏は、「津守家は古代から連綿として続く大阪を代表する名家であり、日本三家の一つ。日本三家とは、皇室は別格として次に続く出雲の千家と北島の両家、紀州の紀家、そして津守家がそれにあたり、いずれも千数百年続いている」と説明された。

和歌と住吉大社との関係について、筆者は同社の年中行事である観月祭での「和歌披講」が印象深い。披講とは、作られた和歌を紹介するためにまず読み上げ、続いて節をつけて歌うことで、年頭の宮中歌会始もこうした手順で行われるが、小出氏は、「一般の方がニュースでご覧になる宮中歌会始は本来の流れのうち前半の読み上げ部分だけが映像として取り上げられていますが、実はそれに続いて独特の抑揚と節回しで厳かに歌い上げるという伝統的な所作があります」と説明された。

ところで、宮中歌会始は綾小路流で行われるが、住吉大社の和歌披講は冷泉流に倣っている。因みに冷泉家は、住吉社の住吉明神から「汝月明らかなり」との啓示を受け『明月記』を書いた藤原定家を源流としており、小出氏は「そのため当社は冷泉家からの和歌奉納など深い関係にあり、和歌披講も伝統的な作法に則って行っている」と話された。

最後に、ずっと気になっていた大阪市西成区に残る「津守」の地名について聞いてみた。奈良時代、住吉を中心とする現在の大阪、堺、神戸一帯は海外に開かれた場所で、朝廷の特別な管轄地として「国司」ではなく「摂津職(せっつしき)」が置かれた。平安遷都でこの職が廃止されたが、文物や技術の受入れ窓口として重要な地域であったことに変わりはなく、大坂湾岸に広大な神領をもつ住吉社の津守氏の存在と影響力は長く続き、住之江の一帯はごく自然に「津守の浦」と呼ばれるようになったと考えられる。大阪市西成区津守は、古代から称されてきた「津守の浦」を江戸時代に埋め立てて造成された「津守新田」と呼ばれた地域であり、その後幾多の変遷を経て現在の西成区津守、北津守、南津守となった。


国基流の交渉術

話を国基に戻す。神主であり歌人でもある国基にとって、朝廷歌壇に入り込むのは並大抵のことではなかったであろう。そこで国基は、歌人としての地位を確かなものにすべく、時流を読むきわめて現実的な対応を行った。それがうかがわれる逸話がある。

応徳3年(1086)、藤原通俊(ふじわらのみちとし)撰集の勅撰集『後拾遺和歌集』が完成。同集に選歌された「薄墨」の歌によって国基は「薄墨神主」と呼ばれたことは先述のとおりであるが、この勅撰集は別名「小鯵集(こあじしゅう)」と呼ばれた。国基が撰者に小鯵を贈って自分の歌を撰んでもらうよう働きかけたことからついた異名である。

実際、国基は贈り物大好き人間で、上野理著『津守国基について』(早稲田大学国文学会)によれば、関係者へ頻繁に大海老や石材、生絹のむしろ、貝つもの(貝類)、木材などを贈っていたらしい。贈答の習慣は当時としては珍しいことではなく、これを積極的に活用した国基ならではの交際力の表れと見るべきかもしれない。


和歌三神

住吉明神と衣通姫(玉津島神社)、柿本人麻呂(明石柿本社他)を称して「和歌三神」と呼ばれる。国基の時代、すでに住吉社は和歌との強い関係が認識されつつあった。一方、紀伊国の玉津島社も女流歌人の源流・衣通姫を祭神とすることから、歌の神として尊崇されていた。

国基はこの玉津島神社を住吉社南社(現在の第四本宮)に勧請し、住吉社=和歌の神の名声を一段と高めた。勧請のきっかけは、国基が住吉社の御堂(荘厳浄土寺)の礎石にする石を求めて紀伊国に行った折、衣通姫のお告げで礎石にふさわしい石を手に入れたことだといわれている。


和歌の浦の緑青色の縞模様の入った石は、現在、住吉大社境内に点在し一部は歌碑として使用されている。玉津島神社境内にも同じ種類の石で作られた歌碑・句碑があちこちに建てられており、その中に万葉学者故犬養孝(1907~1998)の書による山部赤人の万葉歌碑2基が並んでいた。右の大きい方の碑には天皇を讃える長歌、左の碑にはそれに添えられた反歌「沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮干(しおひ)満ちてい隠(かく)りゆかば思ほえむかも」「若の浦に潮満ち来れば潟を無(な)み葦辺(あしべ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る」(歌碑は漢字表記)の2首が刻まれ、その佇まいは泰然として印象的であった。犬養孝揮毫の万葉歌碑は昭和41年(1966)奈良県明日香村の甘樫丘に建立されたのが最初でその後全国の万葉故地に建てられ現在その数は141にのぼるという。

後代、「和歌の神」を都にという動きも出てきた。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての大歌人であった藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、住吉社参籠の際、住吉明神から神託を受け歌道精進の契機となったことで同社を尊崇していた。その俊成が保元2年(1157)に後白河天皇の命により自邸に摂津国住吉社を勧請したのが「新住吉社」である。同社は、応仁の乱を経て永禄年間に現在の場所に遷座した。その後、明治になって柿本人麻呂を祀る人丸神社を境内末社として遷し、京都市下京区醒ヶ井に鎮座する住吉神社として現在に至っている。また、俊成は文治2年(1186)自邸に紀伊国玉津島社も勧請、「新玉津社」とした。現在は「新(にい)玉津島神社」として和歌や俳句の上達を祈願する人が多く訪れるという。

古今和歌集の仮名序で「歌の聖(ひじり)なり」と書かれた柿本人麻呂は、万葉の時代すでに歌人たちが憧れ、目標とする歌上手であった。やがて人々は歌の神と崇めるようになり、人麻呂を祭神とする神社が各地につくられた。兵庫県明石市の柿本神社と島根県益田市にある高津(たかつ)柿本神社は、その代表的神社である。

明石柿本神社の由緒によれば、9世紀の平安初期、隣接する月照寺の前身・楊柳寺の覚証住職が人麻呂の霊を感得し、寺にあった古塚のうえに人麻呂を祀る祠を建てたことに始まるという。社殿は明石城跡からほど遠くない人丸山山頂に建ち、眼下には明石海峡と淡路島を望む、歌心を刺激する絶好の立地にある。


住吉法楽

能の舞台でその日の最初に演じられる祝言の演目(脇能)の一つに「白楽天」がある。あらすじはこうだ。勅命をおびて唐から日本の知を探りにきた白楽天が、小舟でやってきた老漁夫(実は住吉明神)に問答を持ちかける。その老漁夫は和歌で対抗しさらに日本では鶯や蛙まで歌を詠むと教え白楽天を驚かせる。最後に気高い神の姿で現れ高貴な舞を見せて神風を起こし、白楽天を唐へと吹き帰らせるのだった。

この白楽天にみるように、住吉明神をはじめとする「歌の神」に対する日本人の畏敬の念を端的に示す伝統行事がある。「古今伝受」に伴う天皇と貴族の和歌三神への和歌の奉納である。古今伝受とは、『古今和歌集』の歌や語句の解釈を限られた弟子に密かに伝え授けること。平安時代末期から各歌道家で独自のものが伝えられるが、その後天皇家や公家へ継承されたものを「御所伝受」という。

天皇家で伝受が行われると「古今伝授後御法楽五十首和歌(『住吉さん』図録表記)」として、短冊に書かれた和歌一式が住吉社をはじめ玉津島社、明石柿本社、高津柿本社に奉納される。このうち住吉社に奉納されたものは「住吉法楽」と呼ばれている。


住吉大社には、江戸時代に奉納された御法楽五十首和歌のほかに、冷泉家や国基以降多くの歌人を輩出している津守家からの奉納和歌などが当時のまま収蔵されており、和歌の歴史を知る貴重な史料となっている。平成28年(2016)12月、住吉大社で開催されたシンポジウム「歌神と古今伝受」の会場で、住吉法楽の一部が公開され、後西天皇から仁孝天皇までの江戸時代歴代天皇宸筆(しんぴつ:直筆)の短冊展示が参加者の注目を集めた。


津守邸と住吉行宮(あんぐう)

南北朝時代「住吉大社は、吉野の朝廷と西国の官軍との連絡に欠かせない重要地点」(住吉大社編『住吉大社』より)であった。第51代神主津守国夏は、正平7年(1352)南朝後村上天皇を邸内の正印殿に迎えた。この正印殿こそ国基が創建したもので、大社の「正印」を収めた場所といわれ、国夏はここを造替して天皇の行在所(あんざいしょ)とした。

正平23年(1368)に後村上天皇が崩御、長慶天皇が直ちに即位したのもこの行宮である。時代は下り天正6年(1578)、織田信長が津守邸に宿泊。さらに慶長19年(1614)大坂冬の陣では同邸に徳川家康の本陣が置かれるなど、様々な歴史の舞台にもなった。現在、建物はなく、敷地が「後村上天皇 住吉行宮正印殿阯」として国の史蹟に指定されている。場所は阪堺電車阪堺線「細井川駅」から南東へ約5分、閉ざされた正面門扉の奥にある。住吉大社では、後村上天皇の命日である4月6日(旧暦3月11日)に、この正印殿跡で「正印殿祭」を執り行っている。


住吉三大寺と熊野街道


平安時代末期、住吉社には住吉神宮寺、荘厳浄土寺そして津守寺(津守廃寺)の三つの寺があり、住吉社とならび熊野参詣者にとっては魅力いっぱいの観光名所であった。

住吉大社境内にあった神宮寺は、津守寺とともに明治の神仏分離令により取り壊された。境内の駐車場付近に建っていた西塔は四国に移築され、護摩堂(現在の招魂社)などごく一部は残ったものの、住吉地区に寺として現存するのは白河天皇の勅命によって国基が再建した荘厳浄土寺だけである。


荘厳浄土寺は南海高野線「住吉東駅」からすぐの距離にある。平安中期の創建で、正平年間(1346〜49)には、住吉行宮駐輦(ちゅうれん)中の後村上天皇が、父・後醍醐天皇の追善法要を行っている。その後、戦国時代の戦火に遭遇し荒廃が進んだが、江戸時代に現在の本堂などが再興された。

荘厳浄土寺から旧熊野街道を南へ向ってしばらく行くと、街道沿いに大阪市立墨江小学校があり、その敷地内に「津守廃寺」の石碑が建つ。市教育委員会の説明板によれば、戦前の道路工事の際、白鳳時代の瓦や土器が出土し、この地域に寺があったことが推測されることから、住吉社との関係の深い津守氏に因んで「津守廃寺」と命名されたとのことである。

また、この津守寺には「津守王子社」があった。大坂天満の八軒家浜を起点とする熊野街道には99社の王子社があったが、大阪府内で唯一旧地に現存するのは阿倍王子神社のみである。現在、「津守王子社」は住吉大社境内に遷され、末社「新宮社」として祀られている。

2018年2月
(2019年4月改訂)

長谷川俊彦



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・佐竹昭広他編『新日本古典文学大系6・後拾遺和歌集』(岩波書店)
 ・大阪市立美術館『住吉さん 住吉大社一八〇〇年の歴史と美術』図録(大阪市立博物館他)
 ・真弓常忠『住吉信仰 いのちの根源、海の神』(朱鷺書房)
 ・住吉大社『住吉大社』(学生社)
 ・大阪市住吉区役所『すみよし歴史探検地図』
 ・三善貞司編『大阪人物辞典』(清文堂出版)
 ・上野理『津守国基について』(早稲田大学国文学会「国文学研究・1962」))



≪施設情報≫
○ 住吉大社
   大阪市住吉区住吉 2丁目9−89
   電  話:06−6672−0753
   アクセス:南海本線「住吉大社駅」より徒歩約3分

○ 住吉行宮正印殿跡
   大阪市住吉区墨江2丁目7-20
   アクセス:阪堺電車阪堺線「細井川」駅より徒歩約5分

○ 荘厳浄土寺
   大阪市住吉区帝塚山東5-11-14
   電  話:06−6672−3852
   アクセス:南海高野線「住吉東駅」より徒歩約5分

○ 津守寺跡(津守廃寺)
   大阪市住吉区墨江2丁目(大阪市立墨江小学校内)
   アクセス:南海高野線「住吉東駅」より旧熊野街道を南へ徒歩約15分

○ 玉津島神社
   和歌山県和歌山市和歌浦中3−4−26
   電  話:073−444−0472
   アクセス:南海本線「和歌山市駅」より和歌山バス「新和歌浦」行にて「玉津島神社前」下車すぐ

○ 明石柿本神社
   兵庫県明石市人丸町1−26
   電  話:078−911−3930
   アクセス:山陽電車「人丸前駅」より北へ徒歩5分

○ 月照寺
   (所在地は明石柿本神社と同じ)
   電  話:078−911−4947

○ 京都・住吉神社
   京都市下京区醒ヶ井通高辻下る住吉町481
   電  話:075−351−9280
   アクセス:京都市営地下鉄烏丸線「四条駅」より西南へ徒歩約10分

○ 京都・新玉津島神社
   京都市下京区烏丸通松原西入ル玉津島町309
   アクセス:京都市営地下鉄烏丸線「五条駅」より北へ徒歩約5分

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