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第94話 中天游なかてんゆう (1783 〜 1835年)

大坂の蘭学医で緒方洪庵の師

中天游は天明3年(1783)丹後(現在の京都府北部)の儒医上田河陽の子として生まれた。名は環(たまき)で思々斎(しさい)とも号した。父河陽が母の入婿となったため母方の姓「中」氏を継ぎ、その後家族で移った京都に育つ。

23歳のとき江戸に出て儒学を修めるかたわら、大槻玄沢(おおつきげんたく)の芝蘭堂(しらんどう)で1年間蘭医学を学ぶ。その後、長崎遊学を経て京都に戻り、かつて芝蘭堂四天王の一人といわれた元鳥取藩医で蘭学者海上随鷗(うながみずいおう)(稲村三伯(いなむらさんぱく))の門に入った。随鷗病没後に娘のさだと結婚、西宮で一時住まいして35歳のとき大坂に移り靭(うつぼ)(現在の大阪市西区)で医業を開業する。その数年後、江戸堀(現在の大阪市西区)に転居、さらに数年して京町堀(現在の大阪市西区)に移り、ようやくこの地に腰を落ち着けた。

天游は医事に明るい妻のさだに家業のほとんどを任せ、蘭医の斉藤方策(ほうさく)と交流し橋本宗吉の蘭学塾「絲漢堂(しかんどう)」に入門、蘭学一筋の日々を送った。そして自ら「思々斎塾」を開き、後進の指導にあたった。天游の思々斎塾は絲漢堂と並ぶ大坂蘭学の拠点ともなった。

文政9年(1826)、思々斎塾に緒方三平と名乗る16歳の若者が入門してきた。4年後、天游は三平の優れた才能を伸ばすべく、江戸の蘭医で「三大蘭方医」と称された一人坪井信道(しんどう)の許へ送り出した。この無限の可能性を秘めた若者こそ、後の緒方洪庵その人である。

天游の医学における功績は、方策と共同で翻訳したベルギーのパルへインの著作『把而翕湮(パルヘイン)解剖図譜』(以下『図譜』という)の銅版画を使った翻刻出版である。天游はその腕を見込んだ従弟の中伊三郎の銅版画技術により模刻に成功、文政7年(1824)、『図譜』上下2巻を刊行した。この『図譜』の銅版画の出来栄えは素晴らしく、原書の図と遜色はなく版を重ね、当時の蘭医学界の基本テキストにもなった。

天游は宗吉の指導を受け、天文学、数学、物理学などの分野で大いに研鑽を重ねた。その成果は缼逸而(ケイル)の引力論を翻訳した『引律』をはじめ、『天学一歩』『算学一歩』などの著作に結びついた。

天游は天保6年(1835)に病死する。愛弟子緒方洪庵は思々斎塾を伊三郎に継がせ、天游の遺児耕介を長崎に同道して蘭医学の修業を積ませるなど、亡き師天游の恩を一生忘れることはなかった。


フィールドノート

三都の大蘭学者に師事



中天游を門下にもつ海上随鷗(通称三伯)は、鳥取の町医者・松井如水の三男。藩医稲村三杏のもとで医学を修め、その後養嗣子となり稲村姓を名乗った。

この時代、オランダ語と日本語の対訳辞書はなく、オランダ語修得には不便極まりない状況であった。芝蘭堂での修業中、随鷗は師の玄沢に相談したところ奥州白川藩松平定信の家臣で元オランダ通詞(つうじ)の石井恒右衛門(つねえもん)を紹介してもらった。随鷗は玄沢から借りたフランソア・ハルマ編の蘭仏辞典を恒右衛門に渡し、オランダ語に日本語の訳を付けてもらうよう依頼。恒右衛門から返ってきた原稿をもとに蘭医宇田川榛斎(うだがわしんさい)らと協力して、オランダ語と日本語を対比させる補訂作業に取り組んだ。また、辞書の体裁は左側に木版でオランダ語を印刷その右側に手書きで日本語を書き入れるという方法をとった。こうして全13巻(収録数約8万語)におよぶ日本初の蘭和辞書『波留麻和解(ハルマわげ)』(通称『江戸ハルマ』)を完成させた。寛政8年(1796)のことである。その後文化7年(1810)、随鷗の弟子藤林元紀(普山)が『波留麻和解』の体裁を踏襲した簡略版『訳鍵(やっけん)』を編纂・刊行した。

随鷗は天游の入門からわずか2年後の文化8年(1811)に病死する。随鷗は死を前に天游を枕元に呼び、娘さだを妻として迎えてくれるよう頼んだという。天游の人柄と才能を見込んでの遺言であった。

天游は江戸で大槻玄沢、京都で海上随鷗そして大坂で橋本宗吉、それぞれ三都で日本を代表する蘭学の巨匠に師事したことになる。しかも、その随鷗の遺志を汲み、娘さだを生涯の伴侶としたのである。


さだの功績

さだは、さすが蘭医学者の娘だけあって医学に長けていた。大坂での医業はもっぱらさだの仕事となり、家計を支えた。天游はそれをいいことに、絲漢堂と思々斎塾で過ごす以外は朝から晩まで読書に没頭したという。さだは、医学より天文、物理などの理学に関心がある天游が、それをするために蘭学(西洋科学)を学んでいるのだと見抜いていたようである。

大阪市西区京町堀2丁目の当時坂本町と呼ばれた一角に、花乃井公園がある。ここにかつて、天游が蘭学を学び、さだが医業に励んだ住居があった。現在は「中天游邸跡」碑があり、傍らに天游の業績を印した説明板(大阪市教育委員会)が建っている。今から180年前、向学の志を持って備中国(現在の岡山県西部)足守(あしもり)から大坂に着到した若き緒方洪庵が、生涯の恩師となる天游の門をたたいたのもまさにこの場所であった。


『把而翕湮(パルヘイン)解剖図』― 斎藤方策と中伊三郎

天游は、「絲漢堂」の同門で当時大坂で著名な蘭医のひとり斉藤方策とは昵懇であった。方策の名は淳、号は九和という。周防(すおう)国(現在の山口県東南部)出身で、寛政元年(1789)19歳のとき大坂に出て、蘭医で人体解剖の経験をもつ小石元俊(こいしげんしゅん)の門下生となり医学を修めた。大坂に出てくる3年前には江戸に遊学、前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢らの感化を受け蘭医の道を歩んだ。

文政5年(1822)、大坂でコレラが大流行し、多くの命が奪われた。漢方医も蘭医もコレラの原因がわからず、適切な治療方針も立てられずに事態の収束を見守るしかなかった。それでも方策は多数の臨床例から治療案や処方案を考察・試用し、対応に専念したという。方策の姿勢は極めて合理的で科学的であり、その後大坂随一の臨床医として名を不動のものとした。方策の思考方法は天游のそれと合致し、二人が肝胆相照らす仲になるにはそれほど時間はかからなかった。

その方策と共同で翻訳したのが蘭書『把而翕湮解剖図譜』である。原書は方策が元俊から借りたものであった。元俊はこの書の一部を宗吉に翻訳させてはいたが、自分たちも原書と同じような解剖図を刻することはできないものかと方策にもらしていた。江戸期の日本では、すでに『解体新書』やその後出版された宇田川榛斎の『医範提網(いはんていこう)』などで人体解剖図が紹介されており、天游も原書に掲載された銅版画の解剖図の再現を従弟の中伊三郎に持ちかけたのである。元来手先が器用な伊三郎は、フランスのシュメール著の『百科全書』を参考に、その技術を自ら工夫し見事に成功をおさめた。

杉田玄白らによる『解体新書』は木版画による解剖図であるため、銅版画に比べるとその精緻さにおいて及ぶべくもなく、伊三郎の描く解剖図は原書に勝るとも劣らぬ出来栄えで評判を呼んだという。

オランダ語を知らない伊三郎が西洋の文献を曲がりなりにも理解できたのは、天游の陰の力があってこそだといえる。日本で最初の銅版画の解剖図は、江戸の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(永田善吉)によって制作された前記『医範提綱』の付図であるが、大坂の伊三郎はこれに続く輝かしい偉業を遂げたといえる。

中伊三郎は名を端といい、凹凸亭または芝蘭亭と号した。はじめ京都に住んでいたが、天游を頼り大坂に出てきて天游宅に寄寓した。伊三郎は子供の頃のやけどが原因で、右手は引きつり曲がっていたという。そのようなハンディを負いながら、伊三郎は模刻に取り組んだのである。その後伊三郎は、文政9年(1826)江戸で発刊された大槻玄沢の『重訂解体新書』の銅板付図を刻した。玄沢は当初弟子の南小柿寧一(みながきやすかず)(文献により「ねいいち」)の木版画で出す予定であったが、方策の推薦で伊三郎が付図を手掛けることになったという。玄沢(ここでは号である磐水を使用)は自ら同書『銅板図』末尾にその間の経緯を記している。

天游、方策そして伊三郎の連携による精巧な解剖図は、日本の医学の発展を支えた偉業として評価されるにふさわしいものであった。また、この事績のはるか前、若き天游は光学的視点から眼球の解剖学的解説を加えた『視学一歩』を著わしており、その写本は蘭医たちに広く読まれたという。

ここまで国立国会図書館所蔵資料を中心に、天游が影響を受けた多くの蘭学者の行跡を追ってきたが、それは江戸後期の西洋医学発展の軌跡をたどるフィールドワークでもあったように思う。


人体解剖と刑場


日本で初めて人体解剖を行ったのは京都の医学者山脇東洋(やまわきとうよう)で、宝暦4年(1754)のことであった。その20数年後、大坂においても、麻田剛立、宗吉の門弟伏屋素狄(ふせやそてき)、方策そして天游らが積極的に人体解剖に関わった。その結果、天游らは西洋医学書の解剖図が正確であることを再認識し、自らの医学的視野をさらに広げていった。もはや解剖は医学の発展に欠かすことのできないものとなる。当時、人体解剖は主に刑死者を用いて行われるため、町奉行所の許可を得たうえで刑場に足を運んで腑分(ふわ)け(解剖)を見学した(当時、実際に解剖を行うのは身分の低い者で、医者はそれを傍観していた)。中には骨格医学の各務文献(かがみぶんけん)のように、夜陰に乗じて死体を自宅に運び込む猛者もいた。

江戸期、大坂の木津川と三軒家川に囲まれた中洲は難波島(なんばじま)といわれ、その北側の葭(よし)に覆われた一帯を葭島(よしじま)と呼んでいた。ここに今木の刑場があり、後年、適塾の塾生が人体構造の研究として腑分けを見るため足しげく通ったといわれる。長堀や江戸堀からもそう遠くなく、木津川を船で渡れば容易にたどり着ける距離である。当時木津川東岸の月正島(がっしょうじま)から対岸の難波島まで渡し船があり、江戸、明治、大正を経て昭和57年(1982)まで運行していたそうである。

天游ら大坂蘭医学の発展を陰ながら支えた場所といってもよいこの地域は、今は木津川沿いに造船所や倉庫、配送センターの建物が林立し、もはや当時の姿を想像することはできない。


愛弟子洪庵と眠る

大阪市北区にある龍海寺(りゅうかいじ)に天游夫妻の墓がひっそりと佇む。寺の門前には「緒方洪庵墓所」の石碑が建っているように、この寺に眠るのは天游の弟子の洪庵である。墓地に入ると一層それが際立つ。一段高く積まれた土台に洪庵夫妻の巨大な墓碑が他を圧して並んでいる。その北の陰に、表面が剥落し僅か「天游」の文字を残して建つ恩師の小さな墓碑。戦後、天游夫妻の墓は無縁仏の中に押し込められていた時期もあったそうだ。

洪庵は、「自分の墓は敬愛する師の横に」と言い残してこの世を去ったという。今の墓の姿は思っても見なかったであろう。墓にまつわる人情の機微を思い知らされる光景ではある。

そのような複雑な思いから改めて現代に目を転じてみたい。うれしいことに日本の将来を担う少年少女たちに向けて天游の生涯を紹介した本があったのだ。くもん出版の『天游 蘭学の架け橋となった男』がそれで、著者の中川なおみさんは第43回日本児童文学者協会協会賞を受賞した実力者。画は大阪出身の絵本作家こしだミカさん、その独創的なタッチによって天游はじめ登場人物が生き生きと描かれている。この本を通じて、天游は今もなお子供たちの心の中に生きていると言ってよい。ぜひご一読をお勧めしたい。



2019年2月

長谷川俊彦



 

≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・中川なおみ『天游 蘭学の架け橋となった男』(くもん出版)
 ・中野操『大坂蘭学史話』(思文閣出版)
 ・中野操『大坂名医伝』(思文閣出版)
 ・藤本篤『なにわ人物譜』(清文堂)
 ・三善貞司『大阪人物辞典』(清文堂出版)


≪施設情報≫
○ 中天游邸跡碑
  大阪市西区京堀2–9–16 
  アクセス:大阪メトロ四つ橋線「肥後橋駅」より徒歩約15分 菊乃井公園角

○ 絲漢堂跡碑
  大阪市中央区南船場3–3–23
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「心斎橋駅」より徒歩約5分

○ 難波島渡場跡碑
  大阪市浪速区木津川2–5
  アクセス:南海汐見橋線「木津川駅」より徒歩約4分

○ 龍海寺、中天游墓・さだ墓
  大阪市北区同心1–3–1
  アクセス:大阪メトロ谷町線「南森町駅」より徒歩約10分

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