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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第7話 聖徳太子 しょうとくたいし (厩戸皇子) うまやどのみこ (574年-622年)

和の精神を説いた賢人

第30代敏達(びだつ)天皇3年1月1日(574年2月7日)に、第31代用明天皇の第2皇子として生まれた。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。

用明天皇と穴穂部間人皇后の父は、ともに第29代欽明(きんめい)天皇で、用明天皇の母は蘇我堅塩(きたし)姫、穴穂部間人皇后の母は堅塩姫の妹の蘇我小姉(おあね)姫。2代にわたるきょうだいの婚姻で生まれた厩戸皇子(後の聖徳太子)は、蘇我氏の血を濃く受け継いだ。

さらに、後に政治で辣腕を振るう蘇我馬子(うまこ)は堅塩姫と小姉姫の兄、つまり聖徳太子の祖父で、蘇我稲目(いなめ)は曽祖父にあたる。こうして完全に蘇我氏一族に組み込まれていたことが、後年の歴史を複雑にする(系図参照)

聖徳太子という呼称は生前にはなく、天平勝宝3年(751)に編纂された『懐風藻(かいふうそう)』に初出する。『日本書紀』に、厩戸皇子と呼ばれたいきさつは、皇后が出産予定日に宮中を巡察し、厩(うまや)の戸に当たった拍子に生まれたからだとある。生後3か月で会話ができ、1年後には東に向かい南無仏(なむぶつ)を唱えて合掌し、長じては一度に10人の訴えを聞き分けるほど賢明であったと伝えられている。


初陣の地 大聖勝軍寺(下ノ太子)

用明天皇が即位わずか2年で急逝すると、皇位継承をめぐって穴穂部皇子(あなぼべのみこ)を推す物部守屋と、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を立てる蘇我馬子の2大豪族が対立した。大和政権の一翼を担った軍事部族の物部氏は財政を掌握する蘇我氏と仲が悪い上、蘇我氏が朝鮮から入れた仏教信仰とも対立して廃仏論を提唱。用明天皇2年(578)、河内国渋川で両軍は激突した。

蘇我馬子側は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を筆頭に竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子らの皇子と、紀(き)、巨勢(こせ)、膳(かしわ)、大伴、阿部、平群(へぐり)の諸部族が大挙して討伐戦を挑んだが、精強な物部軍に対して3度戦い3度破れる。蘇我軍に参戦していた14歳の厩戸皇子は形勢不利とみて、白膠木(ぬりで)を切り、急いで四天王の像(みかた)を彫り、「もし我を勝たせてくれるなら、必ず護世四王のために堂宇をたてましょう」と誓願するや、たちまち蘇我軍は勢いを盛り返し戦況は一変した。厩戸皇子が世に認められた初舞台がこの戦いであった。

大阪府は中河内のJR八尾駅近く、国道25号線沿いにある大聖勝軍寺一帯は渋川の阿刀(あとう)と呼ばれ、物部守屋の別邸があった。同寺にはこの戦いに関わりのある者が祀られ、近くには弓塚や物部守屋の立派な墓もある。廃仏派であるが故に滅ぼされた守屋ではあったが、神道が擁立されるとその存在が見直され、国道に面した墓には日本各地の神社の名を記した玉垣がめぐらされている。最初は共に国を治め、一時は相反し戦いを交えたが、時の移り変わりとこの地に住む人々の広い心で再び共存する。これもまた、厩戸皇子が唱えた敬愛の精神の現れであると評価できる。


1400年を経てなお日本人の心を律す

推古天皇元年(593)、仏教興隆政策をとった蘇我馬子と厩戸皇子は「四天王寺護国寺」を建立し、戦勝を謝して四天王を祀った。中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、左右に回廊を巡らせた百済式伽藍に加え、施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院をつくった。竣工までには数十年の歳月を要したと思われる。四箇院は厩戸皇子が共鳴した『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の思想に基づくもので、社会・福祉事業の先駆と評価される。

推古天皇3年(595)、高句麗の僧慧慈(えじ)が来日、厩戸皇子の仏教の師となる。同9年(601)、斑鳩宮を造営。同11年(603)、氏姓制ではなく才能を基準に人材登用を目指す「冠位十二階」を制定し、同12年(604)、天皇の中央集権国家の建設を推進する力となる「十七条憲法」を制定した。同22年(614)、最後の遣隋使を派遣。同30年(622)2月22日、48歳で崩じる。

日本人で聖徳太子の名を知らない人はいないだろう。「十七条憲法」第1条の「以和為貴」(和を以って貴しと為す)はあまりにも有名である。以下の条文を読むと、憲法というより、我を通すことを優先した古代に徳をもって他人を思いやる心を育もうと諭す道徳書のように思える。

1400年を経てなお日本人の心を律し、心の根幹を支えることから、高額紙幣の肖像画にもなった。日本最古の木造建築物がある奈良県斑鳩町の法隆寺は世界遺産となり、大阪市の四天王寺では聖霊会が毎年行われる。ゆかりの七大寺が現在も多くの人々の信仰の対象とされていることは、稀有なことである。


土舞台 − はじめての「国立演劇研究所」

推古天皇20年(612)、百済から渡来した味摩之(みまし)が「呉の国に学び、伎楽の舞ができる」と言うのをうけて、桜井(奈良県)に住まわせて少年たちに伎楽の舞を習わせた。真野首弟子(まののおびとでし)と新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の2人がその舞を伝えた。

同県桜井市の市立桜井小学校を見下ろす小山の台地に土舞台の碑がある。聖徳太子が味摩之の舞う呉の仮面劇の芸術性を認め、若者たちに修得させたのがこの場所であったという。一方、近年明日香村の豊浦の向原寺辺りこそが、『日本書紀』にある「桜井」の比定地であるとし、新たに伎楽伝来地を示す石碑が建立された。豊浦は推古天皇の豊浦宮のあった場所なので、伎楽を学ぶ場所があっても不思議はないと思われる。


四天王寺「聖霊会」歌舞音曲でもてなす

四天王寺で最も大事な行事「聖霊会」は、本来は聖徳太子の命日(旧暦2月22日)に行われ、かつては「寒さの終(はて)も聖霊会(おしょうらい)さん」と言われ、季語にもなるほど大阪の庶民に馴染みが深かった。現在は毎年4月22日に行われている。

「聖霊会」の法要は伽藍の北にある六時堂に仏舎利と聖徳太子の御霊をお迎えし、法要の間、堂の前の石舞台では雅楽や舞楽が途切れることなく奉納される。それは太子が「三宝の供養には、この新しい外国の音楽や舞を用いよう」と言われたことに始まる。舞楽には、左方の唐楽(とうがく)と右方の高麗楽(こまがく)がある。唐楽は中国大陸からのもので赤系統の衣装、高麗楽は朝鮮半島から伝来したもので緑系統の華麗な装束をつける。

聖徳太子が取り入れようとしたグローバルな知識は、後の奈良朝で大きく花を咲かせた。日本人が海外の文化を取り入れようとした進取の気質は、聖徳太子によって芽生え、現代まで受け継がれてきたといえるだろう。今も奈良の寺々では、境内や堂内で古今東西の音曲が奏され参詣者ともども仏を慰めている。


法隆寺の青松の並木は太子の思い

斑鳩の里に広がる松の緑。ことに参道入口から南大門まで続く300mの松並木が美しい。南大門の奥に見える西院伽藍も、やはり松林に囲まれているのが印象深い。法隆寺にこの松の林が欠かせなくなったのは、「桃の花は美しいが儚ない。万年枯れることのない松葉が好き」という太子の幼いころの言葉にちなむ。その後、後嵯峨上皇(1220~1272年)を迎える際、東西郷民がその準備や警備に当たり、今の松林の姿が整った。

太子が住んだと伝わる「斑鳩宮」跡に、供養のために建てられた夢殿は、行信僧都をはじめ多数の人々から奉納寄進が寄せられ再興したもの。薬師如来坐像の光背銘に「用明天皇が自らの病気平癒を願い伽藍建立を仏願するが、ほどなく亡くなったため、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて像と寺を完成した」との記述がある。

『日本書紀』に、「天智天皇9年(670)に一屋(ひとつのいえ)も余すところなく焼失した」と記されている。この記事によって現在の建物は再建、非再建の説が対立したが、発掘調査や建築用材の年代測定などの裏付けから、現存する西院伽藍は一度焼失後に再建されたものであるということが定説になっている。


法隆寺聖霊会

會津八一(歌人・1881~1956年)が大正10年(1921)4月に来て思いを馳せた千三百年御遠忌は、7日間にわたったという。その形は10年毎に行われる聖霊会と同じだが、今や200人におよぶ行列が東院の夢殿を出発する。太子が乗っているとされる輿は仏法を守る神々に扮した信徒たちに担がれ、西院伽藍の大講堂までの500mを練り歩く。大講堂前の舞台では笙の音が響き渡り、舞が奉納される。

7世紀に始まったとされる「聖霊会」は、時代に合わせてその規模を変えながら今まで続いてきた。

一方、毎年行われる「お会式」は秘仏の太子坐像などを祀る聖霊院で、太子の命日の2月22日に合わせ、旧暦で行われる。内陣には仏教の聖なる山「須弥山」に見たてた飾り付けや、餅で作られた極楽鳥が飛びかい、水仙の花が咲きほこる。それらとともに、古式に則った供物が供えられ、太子の功績と徳を誉めたたえる。


墓所の叡福寺(上ノ太子)母も妻も共に眠る

なぜ聖徳太子は磯長(大阪府太子町太子2146)を墓所としたのか。磯長は蘇我氏の本拠地であり、太子は蘇我氏とのつながりが深かったからではないかといわれる。太子が亡くなる前年の推古天皇28年(620)に墓所をこの場所に定めていたのは、何か虫の知らせのようなものを感じていたのかも知れない。

正面の南大門をくぐれば正面に聖徳太子の廟が鎮座している。「北古墳」とも呼ばれ、「岩屋山式の切石造り両袖式」という。石室の奥に穴穂部間人皇后の石棺、前部の右側に聖徳太子、左側に最も愛した妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)の石棺が安置されていると伝わる。なお、正妃である刀自古郎女(とじこのいらつめ)は生没年不詳でその墓所も不明。


聖徳太子薨去(こうきょ)の年のずれ

法隆寺と聖徳太子についても謎が多い。我が国の黎明期において冠位十二階や十七条の憲法を発布し、混沌とした国家に礎をつくろうと真摯に立ち向かったのが聖徳太子であった。真実の追究を身を以って実践したがゆえに、その一族が滅亡したのも運命であったといえる。聖徳太子が神格化し、神秘化されるにつれ、真実はベールに覆われていく。

太子の没年について『日本書紀』では「推古29(621)年の春2月5日、夜半に厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみの)皇子命、斑鳩宮に薨(かむさ)りましぬ」とある。このとき諸王・諸臣および天下の人民は、老いたる者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からぬ程であった。若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声は巷に溢れた。農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音もさせなかった。皆がいった。「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」と。この月磯長の陵に葬ったとあるが、その死因を述べていない。

一方、『天寿国繍帳(しゅうちょう)』『法隆寺金堂釈迦三尊像』『法隆寺塔婆露盤(とうばろばん)』の銘文には、推古30年(622)2月22日とある。『釈迦三尊像』の光背の銘文には、「推古29年(621)12月20日の夕に太子の母の穴穂部間人皇后が崩じ、翌年1月に太子が病床につき、2月21日に太子の妃の膳大郎女が亡くなり、続いて翌22日に太子が薨(こう)じた」ことが詳細に記されている。この1年の違いは何を意味するのか、繍帳に縫い込まれた「世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)」という言葉がいかにも聖徳太子らしい。

2016年2月

(中田紀子)



≪参考文献≫
 ・日本古典文學体系『日本書紀 下』岩波書店
 ・大山精一『聖徳太子と日本人』角川学芸出版
 ・上原和『聖徳太子』講談社学術文庫
 ・宇治谷孟『日本書紀 下』講談社学術文庫
 ・田中龍夫『奈良・大和路』実業之日本社
 ・寺内直子『雅楽を聴く』岩波新書
 ・棚橋利光『八尾の史跡』やお文化協会
 ・三善貞司『大阪人物辞典』 清文堂
 ・『四天王寺』 和宗総本山四天王寺
 ・『四天王寺』総本山四天王寺
 ・南谷美保『四天王寺聖霊会の舞楽』東方出版



≪施設情報≫
○ 大聖勝軍寺
   大阪府八尾市太子堂3−3−16
   電:072−922−3000
   アクセス:JR大和路線八尾駅下車 南西へ徒歩6分

○ 桜井市谷 土舞台
   奈良県桜井市谷
   アクセス:JR・近鉄桜井駅から南へ800m

○ 明日香村 向原寺土舞台
   奈良県高市郡明日香村豊浦
   アクセス:近鉄橿原神宮前からバス 豊浦バス停すぐ

○ 四天王寺
   大阪市天王寺区四天王寺1−11−18
   電:06-6771-0066
   アクセス:地下鉄四天王寺夕陽ヶ丘駅下車 南へ徒歩5分
       JR大阪環状線・地下鉄天王寺駅 北へ徒歩10分

○ 法隆寺
   奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1
   電:0745-75-2555
   アクセス:JR大和路線 法隆寺駅下車 北へ徒歩20分
       奈良交通バス 法隆寺前下車 すぐ

○ 叡福寺
   大阪府南河内郡太子町太子2146
   電:0721-98-0019
   アクセス:近鉄長野線喜志駅下車 金剛バス 上の太子バス亭すぐ

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