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第61話 巌氏長者いわうじちょうじゃ (生年不詳〜613年)

淀川治水の悲話「長柄の人柱」の主人公

縄文時代、気候温暖化の影響で海面が上昇し、上町台地と生駒山地の間(現在の枚方市から東大阪市にかけて)に海水が浸入して内海(河内湾)ができた。ここに注ぐ大和川や淀川が運ぶ砂の堆積で、巨大な干潟(河内潟)が誕生。河内潟は魚介類などの生態系が育まれ縄文人の貴重な栄養源となった。

5世紀頃になると、二つの川が運ぶ砂で形成される砂州が大坂湾と河内潟とを遮断し、洪水を頻発させることになった。以来、農作物や民の命を守るため、治水事業は歴代為政者の大きな課題となり、二大河川と人々のすさまじい闘いが続いた。巌氏長者の逸話は、その治水事業にまつわる悲話の一コマを今日に伝えている。

推古天皇(593〜628年)の時代、現在の吹田市の垂水という村に巌氏という長者がいた。当時、淀川に長柄橋を架ける計画があったが、急流なため工事がなかなか進まない。そこで役人が巌氏に相談したところ、巌氏は袴に継(つぎ)の当たった人を人柱になさればよいと答えた。件の役人が見ると、巌氏本人が継の当たった袴をはいていたので役人は巌氏の意向をくみ、本人を人柱に選定したという。

この話には、後日談がある。巌氏の愛娘・照日(てるひ)は北河内に嫁いだが、父が人柱になったショックで口がきけなくなった。困り果てた夫は照日を実家に帰すべく実家の近くに来たところ、鳴き声をあげて飛び立った一羽の雉(キジ)を射落とした。それを見た照日は、「ものいわじ 父は長柄の橋柱 鳴かずばキジも 射られざらまし」(大願寺人柱由来碑)と詠った。妻が口を開いたのを喜んだ夫は、雉を手厚く葬り、来た道を取って返して河内へ戻りその後仲良く暮らしたという。

今日、「鳴かずば雉も〜」あるいは「雉も鳴かずば~」といえば「口は災いの元」という比喩に使われているが、この「長柄の人柱」は大阪ではよく知られた伝説となっている。


フィールドノート

巌氏の顕彰碑と「笑い地蔵」

JR京都線の「東淀川駅」から京都方面へ歩くこと5分、東三国1丁目の住宅街の中に、本門法華宗の「大願寺」がある。

寺の縁起には、「当山は孤雲山仏生院大願寺といい、その寺号は推古天皇から賜ったもので西暦623年、勅命によって長柄の人柱となった巌氏の菩提を弔うために建立された」と書かれている。寺の北東側に隣接する飛び地の境内地は長柄人柱の跡と伝えられ、巌氏の大きな顕彰碑が建っている。

当寺には、寺宝として「浪速の笑い地蔵」で親しまれている地蔵菩薩像がある。寺の案内書によれば、寛仁3年(1019)3月、後一条天皇が長柄橋を再建し、大願寺を再興した際、大仏師定朝に対して長柄橋に用いた木材(橋杭の残木)で地蔵菩薩を彫るよう命じ、さらに地蔵の開眼供養には、当代を代表する歌人・藤原公任を差し向けられた。公任が合掌し「長柄江や藻に埋もれし橋柱 また道かえて人渡すなり」と和歌一首を詠進すると、地蔵菩薩はたちまち微笑をたたえたため、以来「笑い地蔵」として今日に至っているという。

また、ご住職の話では、「長柄の人柱」に出てくる長柄橋は、当寺の北に隣接する飛び地境内地の辺にあったといわれ、広義において長柄橋とは「長柄の橋々」といい、長柄江という大坂北中部の湿地帯に架かる多くの橋々を総称したものであるとのことである。


垂水の「雉畷(きじなわて)碑」

阪急電鉄「豊津駅」から北西に10分歩いたところに、小高い森を背に垂水地区の郷社「垂水神社」がある。境内には、万葉集で志貴皇子(しきのみこ)が詠んだ「石走る 垂水の上の 早蕨の萌え出づる 春になりにけるかも」の歌碑が建つ。

巌氏はこの地の出身であるといわれているが、日本生命の千里山総合グランドと隣り合わせの裏山は、吹田市教育委員会の説明板によれば、昭和48年(1973)の発掘調査で弥生時代の遺跡が確認された。弥生時代を中心とする集落があり、やがて衰え、弥生時代後期から古墳時代になると南方に新たな垂水南遺跡が出現、集落の中心が南へ移ったとされる。位置的には支流の神崎川付近であり、さらに南へ行くと淀川に達する。巌氏はそのような村の長であったというわけである。

この神社から豊津駅の方へ数分戻った四つ辻に、「雉畷碑」が建っている。意識していないとスッと通り過ごしてしまいそうである。

吹田市教育委員会の説明板によれば、照日が「ものいわじ 父は長柄の橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし」(大願寺人柱由来碑は「鳴かずばキジも〜」)と詠んだことに因み、このあたりは「雉子畷」と呼び伝えられてきたという。住宅街の一角にある小公園の中に、日本人なら誰もが知る「雉も鳴かずば撃たれまい」の喩えの原点がそっと佇んでいた。


淀川と人間の歴史

淀川は、こうした人柱伝説に象徴されるような頻発する洪水で人々を苦しめただけの川かというと決してそうではない。古代継体天皇がこの河岸・樟葉宮で即位し、水運を活用して大陸との交流を図り権力を伸長させた歴史、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都した理由の一つとされた淀川水系から大坂湾につながる山崎津の存在、京の都から天皇や上皇の熊野参詣で何度も淀川を利用した話をはじめ、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤の構築、幕末の志士たちの頻繁な往来に至るまで、日本の政治、経済、社会の発展に重要な役割を担ってきたことを見逃してはならない。

淀川は、圧倒的な自然の脅威を見せつけながら沿岸に生きる人々に犠牲を強いてきた一方、その自然に挑戦し克服したものには多大な実りと豊かさをもたらしてきた。そうして人々の長い歴史の営みを支えてきた淀川は、今も滔々と大阪湾に注いでいる。

2018年1月

(長谷川俊彦)



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・三善貞司『大阪人物辞典』



≪施設情報≫
○ 大願寺・長柄人柱巌氏碑
   大阪市淀川区東三国1丁目4-5
   電  話:06−6391−2489
   アクセス:JR京都線「東淀川駅」より北東へ徒歩約5分

○ 垂水神社
   吹田市垂水町1丁目24-6
   電  話:06−6384−1526
   アクセス:阪急千里線「豊津駅」より北西へ徒歩約10分

○ 雉畔碑
   アクセス:阪急千里線「豊津駅」より北西へ徒歩約7分

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