JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 情報公開
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人
なにわ大坂100人イメージベース画像
なにわ大坂100人イメージ画像
書籍広告画像
アマゾンリンク画像

第61話 巌氏長者いわうじちょうじゃ (生没年不詳 *伝説上の人物)

淀川治水の悲話「長柄の人柱」の主人公


縄文時代、気候温暖化の影響で海面が上昇し、上町台地と生駒山地の間(現在の枚方市から東大阪市にかけて)に海水が浸入して内海(河内湾)ができた。ここに注ぐ大和川や淀川が運ぶ砂の堆積で、巨大な干潟(河内潟)が誕生。河内潟は魚介類などの生態系が育まれ縄文人の貴重な栄養源となった。

紀元後になると、二つの川が運ぶ砂で形成される砂州が大坂湾と河内潟とを遮断し、洪水を頻発させることになった。以来、農作物や民の命を守るため、治水事業は歴代為政者の大きな課題となり、二大河川と人々のすさまじい闘いが続いた。巌氏長者の逸話は、その治水事業にまつわる悲話の一コマを今日に伝えている。

推古天皇の時代(592〜628)、現在の吹田市の垂水(たるみ)という村に巌氏という長者がいた。当時、淀川に長柄橋を架ける計画があったが、急流なため工事がなかなか進まない。そこで役人が巌氏に相談したところ、巌氏は袴に継(つぎ)の当たった人を人柱になさればよいと答えた。件の役人が見ると、巌氏本人が継の当たった袴をはいていたので役人は巌氏の意向をくみ、本人を人柱に選定したという。

この話には、後日談がある。巌氏の愛娘・照日(てるひ)は北河内に嫁いだが、父が人柱になったショックで口がきけなくなった。困り果てた夫は照日を実家に帰すべく垂水の近くに来たところ、鳴き声をあげて飛び立った一羽の雉(きじ)を射落とした。それを見た照日は、「ものいわじ 父は長柄の橋柱 鳴かずばキジも 射られざらまじ」(大願寺長柄人柱の由来)と詠った(後述の吹田市教育委員会の「雉畷(きじなわて)碑」説明板は「鳴かずばキジも射られざらまじ」の部分が「雉も鳴かずば 射られざらまし」となっている)。妻が口を開いたのを喜んだ夫は、雉を手厚く葬り、来た道を取って返して北河内へ戻りその後仲良く暮らしたという。

今日、「鳴かずば雉も…」あるいは「雉も鳴かずば…」といえば「口は災いの元」という比喩に使われているが、この「長柄の人柱」は大阪ではよく知られた伝説となっている。


フィールドノート


巌氏の顕彰碑と「笑い地蔵」

JR京都線の「東淀川駅」から京都方面へ歩くこと5分、東三国1丁目の住宅街の中に、本門法華宗の「大願寺」がある。

寺の縁起には、「当山は孤雲山仏生院大願寺といい、その寺号は推古天皇から賜ったもので西暦623年、勅命によって長柄の人柱となった巌氏の菩提を弔うために建立された」と書かれている。寺の北東側に隣接する飛び地の境内地は長柄人柱の跡と伝えられ、巌氏の大きな顕彰碑が建っている。

当寺には、寺宝として「浪速の笑い地蔵」で親しまれている地蔵菩薩像がある。寺の案内書によれば、寛仁3年(1019)3月、後一条天皇が長柄橋を再建し、大願寺を再興した際、大仏師定朝に対して長柄橋に用いた木材(橋杭の残木)で地蔵菩薩を彫るよう命じ、さらに地蔵の開眼供養には、当代を代表する歌人・藤原公任(ふじわらのきんとう)を差し向けられた。公任が合掌し「長柄江や藻に埋もれし橋柱 また道かえて人渡すなり」と和歌一首を詠進すると、地蔵菩薩はたちまち微笑をたたえたため、以来「笑い地蔵」として人々に親しまれ今日に至っているという。

また、ご住職の話では、「長柄の人柱」に出てくる長柄橋は、当寺の北に隣接する飛び地境内地の辺にあったといわれ、広義において長柄橋とは「長柄の橋々」といい、長柄江という大坂北中部の湿地帯に架かる多くの橋々を総称したものであるとのことである。


垂水神社と「雉畷碑」




巌氏の出身地である垂水の地名は今も「吹田市垂水町」として残っている。古代淀川に接していた垂水の対岸は上町台地の最北端「難波碕(なにわのみさき)」で、この碕から南へ続く上町台地に36代孝徳天皇が「難波長柄豊碕宮」をつくり、史上はじめての元号「大化」をうち立て、中大兄皇子(後の天智天皇)と大化の改新を布告した場所である。

大阪市中央区法円坂に広がる難波宮跡。前・後期の遺構があり「前期難波宮」とされているのが難波長柄豊碕宮である。巌氏の村垂水の地と都との関係は地図で見る距離感よりも近いように思える。

阪急千里線「豊津駅」から北西に10分ほど行くと、小高い森を背に垂水地区の郷社「垂水神社」がある。もともとこの地は千里丘陵の南端の崖にあり伏流水が滝のように豊富に湧き出ていた場所で、そのことから「垂水」の名がついたといわれる。

境内には志貴皇子(しきのみこ)が垂水の滝を詠んだ「石走る 垂水の上の 早蕨の萌え出づる 春になりにけるかも」の万葉歌碑が建つ。志貴皇子は天智天皇の第七皇子で皇位には縁がなかった。しかしその子白壁王は49代光仁天皇となりさらに孫は長岡京・平安京に遷都した50代桓武天皇へとつながっていった。

神社の由緒には、領主の阿利真公(ありまのきみ)が旱魃に苦しむ難波長柄豊碕宮に懸け樋(とい)を作って垂水から水を送った功績により天皇から垂水公の姓を賜わり垂水神社を創始した、とある。また当社は平安時代には生國魂神社や住吉大社などとともに八十島祭(やそしままつり)を司どり朝廷から奉幣と祭料布が下賜されていたという事績をもつ神社でもある。

垂水神社近くの日本生命千里山総合グラウンドと隣り合わせの裏山では、昭和48 年(1973)の発掘調査によって弥生時代の「垂水弥生遺跡」が確認された。吹田市教育委員会の説明板によれば、弥生時代の集落があり竪穴式住居跡をはじめ高床式建物跡や多数の弥生式土器も出土した。やがて衰え弥生時代後期から古墳時代になると南に新たな垂水南遺跡が出現、集落の中心が南へ移ったとされる。

巌氏は、そのような原始時代からの歴史を有した村の長であったというわけである。

垂水神社から豊津駅の方へ数分ほど戻った四つ辻に、「雉畷碑」が建っている。意識していないとスッと通り過ごしてしまいそうである。

吹田市教育委員会の説明板によれば、照日が「ものいわじ 父は長柄の橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし」と詠んだことに因み、このあたりは「雉子畷」と呼び伝えられてきたという。住宅街の一角にある小公園の中に、日本人なら誰もが知る「雉も鳴かずば撃たれまい」の喩えの原点がそっと佇んでいた。


近代に復活をとげた名橋「長柄橋」


歴史に残る長柄という名の橋が復活したのは明治42年(1909)のこと。明治の中頃から淀川では下流部の開削などの大規模な改修工事がはじまり、これに伴って淀川下流に架かる橋の架け替えが進められた。そして長い断絶の時を経て鉄製の新橋に由緒ある「長柄橋」の名が付されたのである。

27年後の昭和11年(1936)に架け替えられた2代目の長柄橋は、太平洋戦争末期米軍の爆撃と機銃掃射を受け、橋下に避難していた400人近い住民が犠牲となり戦争の痛ましい惨禍を蒙った悲劇の橋となった。現在の橋の南詰と長柄小橋との間に立つ観音像はその犠牲者慰霊のために建立されたものである。

戦後復興から高度成長期に入り大幅に増加した大阪市北部の交通量に対処するため昭和48年(1973)長柄橋の架け替え工事が開始され、昭和58年(1983)近代に入り3代目の長柄橋が完成した。橋脚をはじめ各所に弾痕を残した悲劇の橋は、未来に希望を抱かせる新しい長柄橋に生まれ変わり、その白く輝くアーチの美しいフォルムは古来の表現を借りれば「長柄の橋々」の中で群を抜き圧倒的な存在感を示している。

長柄橋は千数百年にわたって説話で語り継がれまた和歌の名所・旧跡(歌枕)ともなって詠み継がれてきた。日本人は「ながらのはし」の言葉と響きを用いて細やかな心象風景を表現してきたのだ。それを後世に伝えるためか、現長柄橋南詰の親柱に長柄橋の由来を刻した碑がはめ込まれ、また北詰の親柱にも石のプレートに長柄橋を詠った2首「世の中に ふりぬる物は 津の国の 長柄の橋と 我となりけり」(詠み人知らず・古今集)と「難波なる 長柄の橋も つくるなり 今は我が身をなににたとへん」(伊勢・古今和歌集)が刻まれている(碑はいずれもかな文字表現)。


淀川と人間の歴史



淀川は、巌氏長者の人柱伝説に象徴されるような頻発する洪水で人々を苦しめただけの川かというと決してそうではない。古代継体天皇がこの河岸・樟葉宮で即位し、水運を活用して大陸との交流を図り権力を伸長させた歴史、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都した理由の一つとされた淀川水系から大坂湾につながる山崎津の存在、京の都から天皇や上皇の熊野参詣で何度も淀川を利用した話をはじめ、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤の構築、幕末の志士たちの頻繁な往来に至るまで、日本の政治、経済、社会の発展に重要な役割を担ってきたことを見逃してはならない。

淀川は、圧倒的な自然の脅威を見せつけながら沿岸に生きる人々に犠牲を強いてきた一方、その自然に挑戦し克服したものには多大な実りと豊かさをもたらしてきた。そうして人々の長い歴史の営みを支えてきた淀川は、今も滔々と大阪湾に注いでいる。

2018年1月
(2019年4月改訂)

長谷川俊彦



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『新修大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・松村博『大阪の橋』(松籟社)
 ・三善貞司編『大阪人物辞典』(清文堂出版)



≪施設情報≫
○ 大願寺・長柄人柱巌氏碑
   大阪市淀川区東三国1丁目4–5
   アクセス:JR京都線「東淀川駅」より北東へ徒歩約5分

○ 長柄橋
   大阪市北区本庄東と大阪市東淀川区柴島を結ぶ全長656.4m、幅員20m(大阪府道・京都府道14号大阪高槻京都線の一部)

○ 垂水神社
   大阪府吹田市垂水町1丁目24–6
   アクセス:阪急千里線「豊津駅」より北西へ徒歩約10分

○ 雉畔碑
   アクセス:阪急千里線「豊津駅」より北西へ徒歩約7分)

○ 山崎津跡
   京都府乙訓郡大山崎町尻江29(マンション「ユニライフ大山崎」前に説明板)
   アクセス:阪急京都線「大山崎駅」より徒歩約15分

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association