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こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第35話 顕如けんにょ(1543-1592年)

信長と11年間戦った本願寺第11世宗主

戦国時代さなかの天文12年(1543)、顕如は、本願寺第10世証如(しょうにょ)の長男として生まれた。祖父は早世した円如(えんにょ:1491〜1521年)、曾祖父は第9世実如(じつにょ:1458〜1525年)、高祖父は第8世蓮如(れんにょ:1415〜1499年)である。

歴史を遡れば、蓮如は「仏法領」(信仰に関する領域)以外は関知しない政治不介入の立場であったが、実如は教団ぐるみで細川政元(室町幕府第11代将軍足利義澄の官領)方に旗幟を明らかにし、一揆に参戦した。実如より宗主を引き継いだ証如は、幕府との関係を深めるが政争に巻き込まれ、天文元年(1532)、山科本願寺は日蓮宗徒、京都住民、細川晴元(政元の養子澄元の子)などにより焼き払われた。そこで証如は、同2年(1533)に祖像を山科本願寺から大坂坊舎(1496年に蓮如が建立)に遷座し、ここを大坂(石山)本願寺とした。寺域は現在の大阪城の敷地全域をほぼカバーし、寺内町も発達していたといわれている。

当時の本願寺は公家や有力武家と結びついて寺勢の拡張を図っており、証如も室町時代後期の公卿・大納言庭田重親の娘を妻としていた。

さて、顕如は幼い頃から聡明で英才教育を受けるが、天文23年(1554)に父証如が38歳で急死すると、11歳で宗主を継ぐこととなった。顕如の得度式は、証如が亡くなる前日に大坂本願寺で執り行われている。

弘治3年(1557)、顕如は15歳で1歳下の如春尼(にょしゅんに:細川晴元の養女)と結婚した。ちなみに如春尼の長姉は春元の妻で、次姉は武田信玄の妻である。翌永禄元年(1558)には長男教如(きょうにょ)が誕生。同2年(1559)、本願寺は門跡寺院(皇子や貴族などが住む特定寺院)となり、庇護を受けてきた青蓮院門跡と同格となった。正親町(おおぎまち)天皇即位後の践祚(せんそ:天皇の位に就くこと)の儀式の費用は顕如が負担したといわれている。以後、顕如は大坂本願寺の宗主として寺内町の発展を計り、城郭化を推進した。


男女約2万人が撫で斬りに

元亀元年(1570)、織田信長は顕如に対し、足利将軍家の再興資金として5千貫を課した。信長との衝突を避けたい顕如はこの要求に応じたが、さらに信長は、大坂本願寺が石山から出て行くよう求めた。これに叛旗を翻した顕如は、各地の末寺や門徒に決起団結を促す檄文を飛ばし、寺内町の要害を強化して付近に端城を築城。信長に敵対する浅井氏、朝倉氏、武田氏、毛利氏らと手を組み、信長軍との武力衝突に備えたのであった。

かくして同年9月12日夜半、折しも信長が将軍足利義昭とともに、大坂野田・福島に立て籠る三好三人衆と交戦のさなか、その三人衆と親しい関係にあった本願寺は、信長軍に攻撃を仕掛けたのであった。苦戦した信長軍が大坂から撤退すると、続いて近江や伊勢長島など各地で一向一揆が蜂起。本願寺門徒衆と信長軍による、足かけ11年(1570〜1580年)におよぶ石山合戦の火ぶたが切られた。この時、顕如28歳、信長37歳であった。

元亀3年(1572)、武田信玄の斡旋で両者は一旦和睦をしたが、翌年、信長は長島一揆討伐の戦闘を開始した。一揆勢は兵糧が尽き和睦を乞うたが受け入れられず、信長軍によって男女約2万人がことごとく撫で斬りにされた。このことは後の教如の「大坂抱様(おおさかかかえざま:大坂本願寺での籠城戦)」の遠因となった。

天正元年(1573)に武田信玄が急死すると、勢いを得た信長軍は同3年(1575)に総勢6万にのぼる大軍を率いて大坂に攻め入った。そこで顕如は和議を申し入れ、信長は一旦了承したが、翌4年(1576)、信長軍は本格的に攻撃を開始。水陸交通を遮断して籠城を余儀なくし兵糧攻めを図ったが、大坂本願寺は毛利氏の村上水軍による支援でどうにか持ちこたえた。

天正8年(1580)、信長は大坂本願寺との和睦を正親町天皇に奏上し、これを受けた天皇は和睦に応じるよう勅使を遣わした。勅命講和である。かくして顕如は大坂本願寺を明け渡し、紀州雑賀衆(さいかしゅう:雑賀門徒)が開いた和歌山の鷺ノ森(現在の本願寺派鷺ノ森別院)に撤退し、親鸞聖人木像をここに移して本山とした。一方、教如は信長を信用せず、立ち退きを拒否して籠城したため、顕如はやむなく教如を義絶した(後に本能寺の変(1582年)で信長が果てたことを知った教如は、顕如に「詫状」を出して許しを得た)。

さて、鷺ノ森に本山を移した顕如であったが、天正11年(1583)、雑賀衆の内紛が引き金となり再び移転を余儀なくされた。移転先は、本願寺第10世証如に帰依したト半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)が開いた願泉寺(がんせんじ:泉州貝塚)である。顕如はここに本山を移し、貝塚寺内町が形成され繁栄した。


信長、秀吉との交流

信長は、門徒が鷺ノ森に移転した本願寺に参詣することを承認した。また、鷺ノ森で雑賀一族の内紛に巻き込まれた顕如を警護するために、信長は、門徒である雑賀孫一の要請に応えて軍勢を派遣している。これらのことから、織田政権内部で本願寺顕如と本願寺教団が親密かつ重要な位置を占めていることが伺える。

本能寺の変による信長の死後、顕如は秀吉が柴田勝家と争うのを見て、秀吉方に与することを決意した。そうして天正13年(1585)、顕如は秀吉に申し付けられ本願寺を貝塚から天満へ移転。天満宮の東側から大川に至るまで東西7町、南北5町、天満1丁目(元の地名は川崎町)、現在の造幣局のあたりに広大な土地を与えられ寺内町が発達した。本願寺は、「天満川崎本願寺」とも言われた(現在の天満別院は後に教如が開いた別の寺院)。

秀吉は、寺内町形成による町の発展や人口増加を期待して、天満寺内町にある程度の自治は認めたが、以前の大坂本願寺寺内町のような特権は与えていない。顕如はここで6年間を過ごした。天正14年(1586)には、顕如は秀吉の九州征伐にも同行し、下関に滞在している。


顕如ゆかりの寺院を巡る

 昭和に再建された近代的大殿堂「北御堂」

天正19年(1591)、顕如は秀吉の命により、本願寺を現在の西本願寺の所在地である京都(堀川六条)に再び移転させられた。現代で言えば、京都市街地整備計画の一環としてである。顕如にとって、4度目の本山移転であった。

一方、大坂の門徒は法灯を守るため、天満の対岸の「楼の岸」に坊舎を建立した。後に津村郷と呼ばれていた現在地に移転し(津村御坊)、以来、「北御堂」と称され大阪の人々に親しまれてきた。俗人による建立、運営が特色である。地下鉄本町駅を降りて御堂筋の歩道に出ると、その威容が迫るように目に入る。400年以上の歴史を持つ寺院であるが、建物は近代的な大殿堂という感じ。それもそのはず、北御堂は昭和20年(1945)の大阪大空襲で全焼し、昭和39年(1964)に再建されたものだからである。

さて、文禄元年(1592)、本坊(現在の西本願寺:京都市下京区)の落成を見た顕如は、これに安堵したのか突然入寂した。行年49。次男顕尊(けんそん)は興正寺(京都市下京区)、3男准如(じゅんにょ)は西本願寺の宗主になるが、長男教如は東本願寺を創建し、以後、本願寺は東と西に分裂した。ちなみに西本願寺は世界遺産に認定されており、日本最大の大書院(国宝)や伏見城の遺構とされる唐門など、桃山建築の威容には思わず息をのむ。


 真宗門徒の大坂豪商たち

北御堂の総代をつとめた人物に、両替商兼米問屋を営み、三井家や鴻池家と並ぶ大商人と称された初代加島屋正教(まさのり:加島屋教西)がいる。その正教が延宝8年(1680)に没した後は、2代目が本願寺へ金100両(現在の1億7~8千万円)を献上している。NHK連続テレビ小説「あさが来た(2015〜2016年)」で玉木宏演じる白岡新次郎のモデルとなった加島屋・広岡信五郎は、明治期、加島銀行の創設や名古屋の真宗生命を母体に大同生命を創設初代社長に就任したほか、相愛学園設立時の参与にも名を連ねている。

また、本願寺史料研究所(龍谷大学大宮図書館内)に保管されている文書には、加島屋教西、大阪伊丹屋教西、堺大和屋、墨屋金右衛門、大坂久宝寺屋専斎、阿加屋正誓などの名が見られ、鴻池善右衛門、道頓堀の安井一族(八尾久宝寺)なども真宗門徒であった。


 大坂(石山)本願寺と寺内町

北御堂から御堂筋の歩道を南へ歩き、阪神高速道路(船場センタービル)を越えてすぐの所に、顕如の長男・教如が開創した南御堂(真宗大谷派 難波別院)がある。こちらも「北御堂」同様、昭和20年(1945)の大阪空襲で焼亡し、昭和36年(1961)に再建された寺院である。筆者はここで、大坂(石山)本願寺の復元模型を見ることができた。

大坂本願寺は、非常に発達した寺内町を擁していた。寺内町とは16世紀中ごろから真宗寺院を中心として形成された町場を言う。寺内は諸役負担の免除や、権力不介入、徳政令の除外などの特権を得て住民の自治によって運営された。そのため寺内町は自由営業で商人や手工業者が集住し、商品経済や地域市場圏の中心地になり、富や技術が集積された。その典型が大坂本願寺寺内町である。寺内町は蓮如の時代より、南町、北町、西町、清水町、新屋敷、北町屋の六町あり、この他に桧物屋町、あをや町、横町、中町の枝町があった。

町人の本願寺への奉仕や能の奉納などの諸行事、あるいは蓮如上人御命日の「お斎」などは先の六町単位で行い行政単位としても機能しており、寺内町は経済都市と宗教都市の二つの性格を持っていた。同時期に天満、八尾、富田林、貝塚,枚方などにも寺内町が真宗寺院を中心に形成された。


2016年9月

(江並一嘉)



≪参考文献≫
 ・津本 陽『雑賀六字の城』2011年
 ・長浜市長浜城歴史博物館編
    『顕如・教如と一向一揆 -信長・秀吉・本願寺-』2013年
 ・岡村喜史、大喜直彦『大阪と本願寺』2013年
 ・太田牛一、中川太古『現代語訳 信長公記』2013年



≪施設情報≫
○ 石山本願寺推定地
   大阪市立修道館(大阪市中央区大阪城2-1・大阪城二の丸)の東

○ 龍谷山本願寺(西本願寺)
   京都市下京区堀川通花屋町下ル 本願寺
   電:075−371−5181
   アクセス:JR京都駅より徒歩約15分

○ 北御堂(浄土真宗本願寺派(西本願寺)・本願寺津村別院)
   大阪市中央区本町4丁目1番3号
   電:06−6261−6796
   アクセス:地下鉄御堂筋線「本町」駅2号出口より徒歩すぐ

○ 南御堂(真宗大谷派・難波別院)
   大阪市中央区久太郎町4−1−11
   電:06−6251−5820
   アクセス:地下鉄御堂筋線「本町」駅13号出口より徒歩約3分

○ 本願寺史料研究所
   京都市下京区七条通大宮東入ル大工町125−1・龍谷大学大宮図書館内
   電:075−343−3318(龍谷大学大宮図書館)
   アクセス:JR東海道本線・近鉄京都線「京都」駅下車、
       北西へ徒歩約10分(市バス約3分)

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