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こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第36話 教如きょうにょ(1558-1614年)

信長に徹底抗戦を挑んだ東本願寺の開祖

教如は、本願寺第11世顕如(けんにょ)の長男として、永禄元年(1558)に大坂(石山)本願寺で誕生した。元亀元年(1570)2月に13歳で得度。同年9月、顕如率いる浄土真宗(一向宗)本願寺勢力と織田信長による石山合戦(1570〜1580)が始まった。

顕如の攻撃で火ぶたを切った石山合戦は、緒戦は本願寺勢力が勝利し、伊勢長島でも一向一揆側が勝利した。その後は各地で信長軍と一揆勢の戦闘が続いたが、元亀3年(1572)に武田信玄の斡旋で和睦。しかし、天正元年(1573)に信玄が急死すると、信長は一転して伊勢長島に猛攻をかけ、同2年(1574)に男女2万人を焼き討ち、一揆を壊滅させた。さらに同3年(1575)、信長は再度大坂を攻撃。顕如の和議の申し入れを一旦受け入れたが、同4年(1576)、信長は再び本願寺に攻撃をしかけ、約6万の軍勢で大坂本願寺を包囲して兵糧攻めを図った。

籠城を余儀なくされた当時19歳の教如は、足利義昭を介して毛利輝元に加勢を依頼した。毛利の水軍は信長の船団を壊滅させ兵糧支援に成功し、その後2年間籠城を継続する。天正8年(1580)、信長から正親町天皇へ本願寺との和議を望む旨奏上がなされ、これを受けて勅使が大坂に下向し、「勅命講和」が成立、顕如は本願寺を退去し、紀州鷺森の坊舎へ移転した。信長を信用しない本願寺末寺や門徒、本願寺家臣団が退去に反対し、教如もその立場を支持して徹底抗戦を唱えたため、顕如は教如を義絶した。かくして教如は、諸国の門徒に檄を飛ばし、「大坂抱様(おおさかかかえざま)」と称する籠城戦に突入した。

一方、信長は雑賀衆(さいかしゅう:地侍集団)に圧力をかけ、周辺の尼崎などの城を攻め落として包囲網を強化したため、大坂本願寺の籠城戦は継続が困難となった。そこで教如は、やむなく公家の近衛前久(このえさきひさ)に仲裁を依頼。本願寺を前久にあずけて退去すると、その日のうちに本願寺に火が放たれ、2日間燃え続けた後に焼亡した。


母子兄弟の対立

大坂本願寺を退去した教如は、紀州鷺森の坊舎にいる父顕如を頼るが拒絶されてしまう。以後、教如は各地の門徒衆の庇護を受け、1年10か月にわたり流浪を余儀なくした。やがて信長が本能寺の変(1582年)で果てたことを知った教如は、顕如に「詫状」を入れ許しを得た。但し、顕如が教如を義絶したのは、親子で信長を欺くためのはかりごとだったという説もある。

一方、顕如は、天正11年(1583)に雑賀衆の内紛によって紀州鷺森の坊舎から願泉寺(がんせんじ:泉州貝塚)に本山を移転した。しかし同13年(1585)年、本願寺(顕如)に好意的な豊臣秀吉から天満の土地を与えられ、大坂へ復帰。大坂城から見て大川を挟んで石山の北にある天満に、「天満本願寺」を創立した(現在の天満別院は後に教如が開いた別の寺院)。

さらに天正19年(1591)、秀吉は京都堀川に寺領を寄進し、ここへ本願寺を移転させ(現在の西本願寺)、顕如も移住した。そしてその翌年の文禄元年(1592)に、顕如が入寂。父顕如の還骨勤行(かんこつごんぎょう:火葬して骨に還った遺骸を祭壇に迎える儀式)を勤めた嫡子教如は、秀吉の許しを得て本願寺第12世を継職した。

しかし、その翌年、教如の母であり顕如の内室如春尼が、教如の実弟である末子准如(じゅんにょ:1577〜1631年)に対する本願寺留守職譲状があると秀吉に訴え出た。このため教如は、わずか11か月程の在位で秀吉に引退を命じられる。時に教如36歳、准如17歳。教如は、秀吉に退隠を命じられたとはいえ隠居する意思はなく、むしろ活動を活発化させため、如春尼・准如と教如の母子兄弟との対立が深まった。門徒は教如方と准如方に二分。准如は秀吉に弾圧を依頼し、秀吉の命により前田利長が教如派の門徒代表二人を獄門にかけ、さらし首にした。これにより教如は、親鸞の教えを「非僧非俗、本願寺の家は慈悲をもって本とす」とし、自ら信じる分派の道に突き進んだ。


政争に利用された本願寺分裂

如春尼が秀吉へ教如排斥の訴えを起こしたのは、石田三成の画策によると言われている。つまり、如春尼・准如と教如の対立は、准如方につく豊臣秀長(秀吉の異父弟)・三成と教如方につく徳川家康の対立の構図だったのである。

もともと教如は千利休を通じて秀吉に接近し、天正13年(1585)の大坂城の茶会で、秀吉、教如、利休の3人が顔を合わせている。また、同18年(1590)の『利休百回記』によると、教如は同年の茶会に3度招かれ、なかでも11月2日には、秀吉、施薬院全宗(せやくいんぜんそう:医師)、金森長近(かなもりながちか:飛騨高山藩初代藩主)らと同席している。長近は利休門下の茶人で、教如と茶の湯を通して交流を深め、家康との間を仲介した人物である。ちなみに、教如は織田有楽斎(おだうらくさい)の茶会にも慶長16〜18年(1611〜13)の3年間で5度参加している。有楽斎は信長の弟で、本能寺の変の後は秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは家康に従った。


東本願寺を創立

慶長5年(1600年)7月、教如は、三成の妨害をかいくぐって関東の徳川家康を見舞っている。同年9月15日(1600年10月21日)に関ケ原の合戦で徳川家康が勝利すると、その5日後、教如は大津御坊で家康を迎えている。同6年(1601)には家康が教如を訪ね、ついで教如が伏見城に家康を訪ねているなど相互に訪問し合う親密な関係を築いた。

秀吉の死後、家康は教如に本願寺門主への復帰を勧めたが、教如は「教祖親鸞の正嫡であり宗主である。貴族化、世俗化した本願寺との争いを避け、親鸞祖像とそのご座所の正統な護持者でありたい」という意識が強く、これを固辞した。そこで家康は、本田佐渡守(本田正信)や、天台宗の僧・天海の意見を入れ、後陽成天皇の裁可を得て、同7年(1602)に京都東六条の地に4町四方の寺地を寄進した。正信が「本願寺は既に2つに分かれている」と家康に献言したことで、「教如教団」を追認したものである。同8年(1603)、教如は仮御堂を建立し、上野国厩橋(こうづけのくにうまやばし:現在の群馬県前橋市)の妙安寺に伝来する親鸞の「御真影(木像)」を迎えて東本願寺を創立した。翌9年(1604)には御影堂が完成。遷座法要が営まれ、ここに本願寺は教如を法主とする東本願寺と、准如を法主とする西本願寺に分立した。


教団強化のため各地に御坊を創建

東本願寺教団を設立した教如は、各地に御坊を建立し末寺門徒の地域的結集の寺院とするとともに、教化の拠点とした。そうして教団の教化体制を確立するため、本願寺直結(門主が御坊住職を兼務)の御坊(後の別院)を積極的に設立した。ちなみに現在、東本願寺に属する寺院は全国で1万におよぶ。

江戸時代を通じて東本願寺末の御坊(明治以降は「別院」と称す)は40か寺といわれ、約半数の18カ寺は教如の開創である。そのうち大阪には、難波、天満、茨木、八尾、堺の各別院が置かれた。なかでも難波別院(南御堂)は、教如が本願寺引退後の文禄4年(1595)に石山本願寺旧縁の地である渡辺(現在の天満橋から天神橋の間あたり)に建立した「大谷本願寺」が前身で、その後に移転したものである。難波別院では、江戸時代初期より商人たちによって各種の「講」が組まれ、商都大坂(船場、島之内)のシンボル的存在となっていた。現在、難波別院(南御堂)では3月25日、津村別院(北御堂)では5月14日を祥月命日としてそれぞれ蓮如忌が営まれるが、前者は旧暦で後者は新暦だそうである。

茨木別院は慶長8年(1603)に北摂の門徒結集を意図して創建された。八尾別院(大信寺:だいしんじ)は慶長12年(1607)の創建で、八尾には大信寺や慈願寺の八尾寺内町を含め、顕証寺(本願寺派)の久宝寺寺内町、恵光寺の萱振(かやふり)寺内町の3つの寺内町がある。天満別院は、教如が渡辺の地に大谷本願寺を創建し、それが秀吉の政策で難波別院へ移転させられた後、慶長16年(1611)改めて天満の地に創建したのが始まりと言われている。

教如は、慶長19年(1614)10月5日享年57で往生した。信長、秀吉、家康の三人の天下人と渡り合った、激しく波乱万丈の人生であった。面長で、背丈6尺といわれる容貌は、並み居る戦国武将をしのぐ精悍さであったといわれている。また、教如には4人の内室がいた。4番目の内室が妙玄院でその子宣如(せんにょ:1602〜1658年)は11歳で本願寺(大谷派)第13世住職を継職した。


現代の大阪との関わり

難波別院(南御堂)と津村別院(北御堂)に面した通りは、江戸時代から「御堂筋」と呼ばれていた。両御堂の間には仏具屋や数珠屋、人形屋、表具屋などの店が軒を連ね繁盛していた。

明治42年(1909)には、左籐了秀(大阪府知事をつとめた左藤義詮の養父)が難波別院内に「大谷裁縫女学校」を設立。職業に就く専門教育よりも良妻賢母となるための教育を重視し、報恩感謝の宗教教育にも力を入れた。現在は大阪大谷大学、大学院、短期大学部、大谷中・高等学校、東大谷高校、大谷幼稚園を擁し、平成18年(2006)より男女共学、平成21年(2009)には創立100周年を迎え、卒業生総数は10万人を超える。


顕教踊り

湖北地帯の真宗寺では、盆の行事として踊られる「顕教踊り」というのがある。顕如の顕、教如の教を組み合わせた名前のこの踊りは、信長勢に攻められ、鉄砲で片足を撃たれ歩行困難であった雑賀一族の鈴木孫六が、本能寺の変での信長の死を知り嬉しさのあまり痛手を忘れ「あらめでたや法敵亡び 宗門は末広がりにご繁盛」と踊ったのが始まりだと言われている。


2016年9月

(江並一嘉)



≪参考文献≫
 ・宮部一三『教如流転』1986年
 ・教学研究所『教如上人と東本願寺創立 -本願寺の東西分派―』2004年
 ・上場顕雄『教如上人 -その生涯と事績―』2012年
 ・木場明志他『別院探訪』2012年
 ・教如上人展図録『教如上人4百回忌法要記念
    「教如上人」東本願寺を開かれた御生涯』2013年
 ・上場顕雄『教如上人と大坂』2013年
 ・大桑 斉『教如 東本願寺への道』2013年



≪施設情報≫
○ 北御堂(浄土真宗本願寺派(西本願寺)・本願寺津村別院)
   大阪市中央区本町4丁目1番3号
   電:06−6261−6796
   アクセス:地下鉄御堂筋線「本町」駅2号出口より徒歩すぐ

○ 南御堂(真宗大谷派・難波別院)
   大阪市中央区久太郎町4−1−11
   電:06−6251−5820
   アクセス:地下鉄御堂筋線「本町」駅13号出口より徒歩約3分

○ 東本願寺
   京都市下京区烏丸通り七条上る
   電:075−371−9181
   アクセス:JR「京都」駅より徒歩7分、地下鉄「五条」駅より徒歩5分

○ 茨木別院
   大阪府茨木市別院町3−31
   電:072−622−2903
   アクセス:阪急電鉄「茨木市」駅より西へ徒歩約5分
       JR「茨木」駅より東へ徒歩約10分

○ 八尾別院大信寺
   大阪府八尾市本町4−2−48
   電:072−922−2724
   アクセス:近鉄大阪線 近鉄八尾駅から徒歩約8分

○ 天満別院
   大阪市北区東天満1丁目8-26
   電:06−6351−3535
   アクセス:地下鉄「南森町」駅3号出口から徒歩約6分

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