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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第17話 緒方洪庵おがたこうあん(1810-1863年)

日本の近代医学の祖にして優れた蘭学者、教育者

鎖国から開国へと激動する幕末、緒方洪庵はいち早く新しい時代の方向性を見抜き、才能と意欲のある若者たちを育て、近代日本の形成に大いなる功績を遺した。天保9年(1838)に開設し、明治初年に閉鎖されるまで続いた適塾は、洪庵の号「適々斎」に由来する。住居、診療所、教室、合宿所を兼ねた施設で、大阪大学医学部の淵源である。現在は同大学が管理し、国の重要文化財となっている。

緒方洪庵は、鎖国の世に備中国足守(現岡山市)藩士・佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男に生まれ、16歳で元服。病弱で武術などに向かなかったことから、自立のため医師を志す。漢方医全盛の時代にあって、コレラの大流行〔文政5年(1822)〕になすすべのない漢方に限界を感じ、西洋医学を学ぶため17歳で父の任地大坂で蘭方医・中天游(なかてんゆう)の思々斎塾(蘭学塾)に入門した。この時代に緒方姓を名乗っている。

22歳のとき、天游の勧めで江戸の蘭方医・坪井信道の門下に入る。信道は洪庵の才能を評価し塾頭に抜擢、自らの師で江戸蘭学界の大御所・宇田川榛斎(うだがわしんさい)に紹介した。洪庵は榛斎から医学・薬学を2年間学び、師の死に当たり学問上の後事を託され、26歳で一旦帰坂する。

天保7年(1836)に長崎へ留学、同9年(1838)に29歳で大坂瓦町に蘭学塾「適塾」を開く。同年7月、億川百記の長女で17歳の八重と結婚。百記は中天游と親交があり、長崎への留学費を含め、生涯、洪庵のパトロンであり続けた。

蘭方医としての洪庵は、医学書『病学通論』『扶氏経験遺訓』『虎狼痢治準』の代表3編を出版し、『扶氏医戒之略』により医療倫理を示した。

嘉永2年(1849)には大和屋喜兵衛の出資で古手町に「除痘館」を設立し、民間による無償の社会奉仕として種痘を始め、18年後には官営となった。安政5年(1858)、2度目のコレラ流行で大坂では1カ月に1万人が死亡する事態となり、洪庵は7日間不眠不休でコレラの治療法をまとめ、『虎狼痢治準』を緊急出版した。文久2年(1862)、幕府の奥医師に就任し、西洋医学所(後の東京大学医学部)頭取を兼務するが、翌年吐血し急死、享年54であった。

教育者としての洪庵は、学問の前に人は平等であるとし、塾生を成績だけで序列化する完全な実力主義を貫いた。近代軍隊の創設を目指した大村益次郎、日本赤十字社の創設者・佐野常民、統計学の杉享二、志士・橋本佐内、外交官・大鳥圭介、初代衛生局長・長与専斎、同愛社の高松凌雲、福澤諭吉ら、千余名を世に出した。


洪庵の家族

市井人としての洪庵は、漢学や古典にも造詣が深く、和歌を善くした。性格は温厚で敵をつくらず、八重との間に七男六女の13人の子を持った。うち4人は夭折するが、次男の惟準(これよし)をオランダ、三男の惟孝(これたか)をロシア、五男の惟直(これなお)をフランスへ留学させている。

妻・八重は文政5年(1822)、摂津国名塩の医師・製薬業の億川百記の長女として生まれる。和歌を詠み、製薬方から看護術まで身に着けた類いまれな才女であった。適塾に常時60名近く合宿していた書生の世話を完璧にこなし、塾頭福澤諭吉からは慈母のように慕われた。実家・億川家は、幼少の頃の子どもたちを順に預かって養育し、八重を助けた。晩年の八重は、適塾にほど近い元の除痘館の建物を隠居所とし、穏やかな余生を送った。

また、洪庵と同郷で坪井信道塾の同門に緒方郁蔵(旧姓大戸)がいる。洪庵は郁蔵の人格・学識を高く評価し、義兄弟の盟を結び緒方姓を名乗らせた。語学力では洪庵を凌いだと言われ『扶氏経験遺訓』の翻訳の大半を行った。後に『独笑軒塾』を開いて適塾の南塾と呼ばれた。八重は、服装など学問以外のことに無頓着な郁蔵を好まなかったという。

洪庵の死後、緒方家を継いだ次男・惟準は、明治元年(1868)にオランダ留学から帰国後、天皇の侍医となった。大阪鎮台病院長(36歳)、軍医本部次長(軍医監・大佐級、38歳)、軍医学舎長兼近衛師団軍医長(44歳)を歴任するが、脚気の治療で森林太郎ら上層部と対立。明治20年(1887)に一切の公職を辞して帰坂し、今橋4丁目に緒方病院を開設した。


フィールドノート

天然痘との戦い

江戸時代の将軍15人中6人、天皇14人中5人が天然痘に罹患した。洪庵自身も文化14年(1817)に感染したが、軽くて済んだ。当時は、毎年人口の1%以上が天然痘で失われたといわれている。

イギリスのジェンナーが18世紀末に開発した牛痘種痘法が、嘉永2年(1849)にようやくバタビア経由で輸入された。洪庵ら有志は古手町に除痘館を設立し、同年11月、神前にて「伝苗式」が行われた。種痘事業は慶応3年(1867)に幕府の官営に移管されるまで、医師や奉行所の支援(公認し種痘を奨励)、民間の資金により、無償の社会奉仕として継続された。江戸お玉が池種痘所(東京大学医学部の淵源)が開設されたのは大坂に後れること9年の安政5年(1858)のことである。現在、除痘館跡の緒方ビル4階に除痘館記念資料室(緒方洪庵記念財団)が開設され、一般に公開されている。


洪庵ゆかりの地、施設


思々斎塾

洪庵が思々斎塾に入塾したのは17歳のときであった。師の中天游は、大坂における洋学の祖といわれる橋本宗吉の絲漢堂に学んだことから、洪庵は宗吉の孫弟子にあたる。洪庵の妻八重の父億川百記も天游の弟子である。百記は師天游に娘の婿探しを求めた。京町堀付近に中天游屋敷跡の碑がある。


適塾

洪庵が開いた学塾で、史跡・重要文化財に指定されている(8回におよぶ大阪大空襲の中、奇跡的に焼け残った)。

天保9年(1838)に長崎遊学を終えて大坂に出た洪庵は、当初、瓦町の借家で蘭学塾を開いた。やがてそこが手狭になり、弘化2年(1845)に過書町の町屋(現在の適塾)を購入・移転。文久2年(1862)、洪庵が幕府の奥医師として出府した後は、適塾が閉鎖される明治初年まで養子の緒方拙斎(洪庵の八女・八千代と結婚)が塾生の教育にあたった。現在、適塾は大阪大学が管理している。敷地面積464㎡、建面積285㎡、延面積417㎡で、公園化された隣接地に緒方洪庵の銅像がある。


大阪大学医学部

明治2年(1869)、洪庵の息子惟準を院長として設立された大阪仮病院と、オランダ人医師ボードウィンを迎えて惟準はじめ適塾門人らを中心として設立された大阪医学校は、曲折を経て大阪帝国大学医学部へ発展した。


大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館

博物館内に、「懐徳堂」と並んで「適塾」のコーナーがあり、緒方洪庵や適塾ゆかりの資料が展示されている。平成29年(2017)には、適塾創設175年、洪庵没後150年を記念して、同博物館にて「緒方洪庵・適塾と近世大坂の学知」をテーマに展覧会が開催された。


緒方ビルクリニックセンター

緒方洪庵記念財団が所有、経営している。6階建てのビルで、3階に「くりにっくおがた 産婦人科」が、4階には同財団が運営する「除痘館記念資料室」がある。それ以外は薬局および9つの専門の各科クリニック、診療施設が入居している。


大阪慈恵病院跡碑

大阪慈恵病院は大阪市立弘済院附属病院の前身。当時、大阪市内には経済的な理由から医者にかかれない人達のための施設がなかった。これを憂えた緒方惟準、緒方拙斉、高橋正純、高橋正直、山田俊郷らにより、明治21年(1888)2月に設立されたのが同病院である。現在、大阪市立生野工業高校内に同病院跡の碑がある。


龍海寺(洪庵の墓所)

洪庵の墓は東京の高林寺にあり、妻八重の遺志で死後分骨された。大阪市北区の龍海寺には、洪庵の遺髪を埋めた洪庵の墓と隣り合わせに八重の墓がある。同寺には、師中天游、義弟緒方郁蔵、弟子大村益次郎の墓もある。


エピソード

緒方洪庵の系譜を見ると、現在の緒方一族の隆盛は女系によることがわかる。洪庵の四女・八千代の婿・緒方拙斎は、洪庵が出府後に適塾を引き継ぎ、初代緒方病院院主となった。

拙斎の娘・知重(ちえ)の婿である緒方正清は、緒方婦人科病院を創立した。また、緒方祐将(すけまさ)は正清と知重の養子であり、さらに祐将の二女・正世(まさよ)の長男・緒方高志は、現緒方洪庵記念財団理事長である。また、洪庵の曾孫で、東京大学医学部教授・血清学の緒方富雄氏の長兄、緒方準一氏は、奈良県立医科大学第3代学長を務めた。ホトトギス派俳人でもあり、奈良ロータリークラブ会長、橿原ロータリークラブ設立顧問などを歴任した。私事ながら、筆者は準一、富雄両先生に面識があり、両先生とも大阪府立天王寺高校(旧制天王寺中学)の卒業で筆者の先輩にあたる。



2016年4月

(2019年4月改訂)

江並一嘉



≪参考文献≫
 ・中田雅博『緒方洪庵』(思文閣出版・2009年)
 ・芝哲夫『適塾の謎』(大阪大学出版会・2005年)
 ・『適塾アーカイブ』(適塾記念会 大阪大学出版会・2002年)
 ・『大阪の除痘館』(緒方洪庵記念財団 除痘館記念資料室・1983年)
 ・福澤諭吉『福翁自伝』(岩波書店・1991年)
 ・手塚治虫『陽だまりの樹』全6巻(小学館・2008年)
 ・中山沃『緒方家の人びととその周辺 緒方惟準伝』(思文閣出版・2012年)


≪施設情報≫
○ 適塾
  大阪市中央区北浜3–3–8
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分

○ 除痘館記念資料室
  大阪市中央区今橋3–2–17 緒方ビル4F
    アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分

○ 大阪大学医学部
  大阪府吹田市山田丘2–2
  アクセス:大阪モノレール彩都線「阪大病院前駅」下車すぐ

○ 大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館
  大阪府豊中市待兼山町1–20 大阪大学豊中キャンパス
  アクセス:阪急宝塚線「石橋駅」より徒歩約10分

○ 緒方ビルクリニックセンター
  大阪市中央区今橋3–2–17
  アクセス:大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩約5分

○ 大阪慈恵病院跡碑
  大阪市生野区生野東2–3–66 大阪市立生野工業高等学校内
  アクセス:JR大阪環状線「寺田町駅」より徒歩約5分

○ 龍海寺(緒方洪庵墓所)
  大阪市北区同心
  アクセス:大阪メトロ堺筋線「南森町駅」より徒歩約10分

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