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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第23話 契沖けいちゅう(1640-1701年)

古典研究に画期的な業績をのこした国学の先駆者

契沖は江戸時代中期の真言宗の僧であり、国学者。生まれは摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市南東部の北城内)で、生家は庄下川東岸に鎮座する桜井神社の北辺りとされている。姓は下川、字は空心である。

7人兄弟の三男で、祖父、下川元宜は加藤清正の家臣であり、父・元全(もとたけ)は尼崎藩士であったが、後に浪人となった。幼少時に父母から『実語経(じつごきょう:寺子屋などの教科書として用いられた児童教訓書)』や『百人一首』などを学ぶ。5歳のとき、母から『百人一首』を教えられるとたちまち暗記したといわれている。11歳で出家し、摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の真言宗妙法寺の丯定(かいじょう)の弟子となり、仏教の修行に入った。当時としても早い13歳で高野山に上り、ここで快賢(かいけん)を師とし厳しい修行を積む。戒律を受け23歳で阿闍梨の位を得た後、下界におりた。この頃、和学者であり歌人である下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)と歌を通じて交流が始まり、これが後の契沖に大きな影響を与えた。

高野山を下りた契沖は、丯定の勧めで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となる。しかし、24歳で父を亡くして世 のはかなさを知り、住持としての生活の憂事に耐えられなくなる。そのためか 27歳で忽然と曼陀羅院から姿を消し、俗務を避けるように畿内を遍歴する。 吉野や葛城などの霊場を巡って厳しい修業を重ね、長谷寺(奈良県桜井市)では断食の行をしたこともある。また、室生寺(奈良県宇陀市)では室生山の南の岩窟にこもり、岩に頭をぶつける捨身の行で命を捨てようとしたこともあった。結局、死ぬことはできず、再び高野山・円通寺の快円の下で修行に励み、最高位である菩薩戒を受けている。

しかし、この時期の契沖の歌には、高野山に対する不信感が垣間みられる。そのためか、契沖30歳の頃、代々真言宗の信者で高野山との関係が深い和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森家から誘いを受けて再び高野山を下り、同家に寄寓することとなった。そこで同家所蔵の膨大な仏典や漢籍に親しんだ経験が、契沖を大きく飛躍させる契機となった。

その後、契沖は同じ和泉郡の万町(まんちょう)村(現在の和泉市万町)の大土豪で文人である伏屋重賢(ふせやしげかた)に招かれ、伏屋邸内の養寿庵という小庵に寄寓することになった。伏屋家はもと豊臣の遺臣であり、契沖の祖父と伏屋家の祖先とは親交があった縁で迎えられたらしい。ここでも契沖は、同家が所蔵する多くの和漢書の研究に打ち込み、梵語(サンスクリット語)の表記法である悉曇(しったん)の研究を深めた。

契沖は「古書を証するには古書を以てする」をモットーとして研究に励んだ。とはいえ、そうして業績が残せたのは、辻森家や伏屋家といった膨大な蔵書を持つ庄屋たちの支援によるところが大きい。契沖や松尾芭蕉などの文化人が活躍した元禄期を中心とする時代は、そうしたパトロン文化も特徴のひとつだといえる。


水戸の御老公からの指名

40歳で和泉の伏屋家を出た契沖は、前述の妙法寺の住持分となる。そしてこの頃、徳川光圀により『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』の執筆を依頼された。光圀は有名な『大日本史』を編集したが、同時に万葉集の編纂も企画。その注釈者として、古学の研究に励み注釈書『万葉集管見(まんようしゅうかんけん)』を著した歌人でもある下河辺長流を選んだ。ところが長流は、その仕事の途中で病(中風)を発症したため、長流の友人である契沖に白羽 の矢が立てられた。そこで契沖は、親友の難儀を救うべく、1681年から1686年までわずか5年で4600首の注釈を成し遂げた。

『万葉代匠記』はそれまでの万葉集の解釈に対し革命的な影響を与えたとされている。契沖は『万葉代匠記』の中で、作歌は「心の塵や俗塵を払う」、歌は「果(はか)無(な)きことを詠む」、歌は「人間の自然への感情を詠む」とし、儒仏の教えだけでは心を清められないと述べている。また、この作業の中で契沖は、当時主流となっていた定家仮名遣(ていかかなづかい)の矛盾に気づき、歴史的に正しいとされる仮名遣いの例を『万葉集』『日本書紀』『古事記』『源氏物語』などの古典から拾い集めて分類。これを『和字正濫抄(わ じしょうらんしょう)』として著している。これに準拠した表記法は『契沖仮名遣』と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えた。契沖は、それまでの主観的、いわば神がかり的、独断的古典研究であったものを改め、実証主義、文献主義、合理的帰納主義という近代的方法を確立し、画期的業績を残した。契沖以前の注釈は「古注」と呼ばれ、契沖以後は「新注」と呼ばれるほどである。


高僧が古典研究へ傾倒したわけ

契沖は51歳の時、母の死をきっかけに寺を如海に譲り、摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)の圓珠庵(えんじゅあん)に隠棲し、晩年までを過ごした。元禄14年(1701)に62歳で没したが、その日は奇しくも恩師水戸光圀が亡くなった49日目であった。契沖にとっては、さぞ得心のいく人生であったであろう。17歳の頃から作歌を始めた契沖は、自らも歌人をもって任じ、6千余首を収めた『漫吟集類題』『契沖延宝集』などの歌集も出している。とはいえ40代で書き上げた『万葉代匠記』が、彼の生前に刊行されることはなかった。

契沖は偉大な文人であったが、人徳も偉大であった。自尊心の強かった上田秋成でさえ、和学の道に入ろうとして契沖の著書を集めたといわれている。また、長流との交情も終生変わらなかった。長流には妻子がなく晩年は中風に倒れたが、契沖が何かと生活全般の面倒を見ている。本居宣長も契沖に一目会いたいと伊勢から大坂に出向いてきたが、日が暮れてしまい会うことは叶わなかったといわれている。

契沖の弟子には今井似閑(いまいじかん)や海北若冲(かいほうじゃくちゅう)らがいる。その学統は荷田春満(かだあづままろ)や本居宣長らにも受け継がれ、大坂の和学に大きな影響を与えた。尾崎雅嘉(おざきまさよし)や石津亮澄(いしづすけずみ)など、大坂の和学者で契沖に私淑した人は多い。その学風は長く大坂の和学会を席巻した。

謹厳な仏道に励んだ高僧、契沖が古典研究へ傾倒したのは、なぜなのだろうか。契沖にとって古典研究とは、〝俗中の真"を追求することであった。天賦の才もさることながら、刻苦と忍堪を重ねて成し得たのである。契沖ほど、学と徳を兼ね備えた人は稀である。我が国における国学の先駆者となった契沖 は、思う存分の研究をして、自らもその手ごたえを充分感じたことであろう。


フィールドノート

ゆかりを訪ねて和泉市を散策(註1)

大阪府和泉市は契沖が若い時に居住していた所であり、契沖にまつわる史跡も多い。

久井町は古い家並みが続く山裾の町である。すぐ南側には高野山へと続く山並みがそびえている。この町には契沖が寄寓した辻森家の「住居跡」がある。近辺に「契沖の井戸」があるが、案内も少なく分かりにくい。表通りに小さな看板があるが、その案内に従って行ったがそれらしきものはない。初めて行く者にとっては、すぐに見つける事は難しいのではないだろうか。尋ねたくとも近辺にはめったに通行人もいない。たまたま通りがかった郵便局員に尋ねたが分からず、そもそも契沖のことも知らないと言われ残念だった。ようやく出会えた人に尋ねると「すぐそこ」とのこと。しかし右と左を間違えて教えられたか聞き間違えたようで、その場に行っても何もなかったが、狭い場所なので結局は辿りつくことはできた。そこには「契沖の井戸」と書かれた石碑があった。しかし石碑は倒れており、小さな井戸は錆びたトタンで蓋をされていて荒れ果てた印象だった。偉大な人の史跡としては少し残念と思わざるを得なかった。兎にも角にも中心通りから春木川に向かい細い坂道をあてずっぽうに進み、川沿いに上り下りしていると畑の隅にようやく「歌碑」と「僧契沖住居跡」の石碑が並んでいるのを見つけた。

万町には養寿庵跡がある。ここは前述の伏屋家跡である。契沖が寄寓した庵(養寿庵)は、のちに大阪市内に移転され圓珠庵となっている。この養寿庵跡を訪ねたが、付近に案内看板は見当たらず分かりにくい。散々迷った挙句、偶然入った路地奥で土壁に守られるようにひっそりと3つの碑が夕陽を浴びて建っているのが見えた。見つけるまでに苦労しただけに、見つけた時は言葉では説明できないほど感激した。その2体は「僧契沖住居跡」と書かれたものと「歌碑」だった。残りの1体は残念ながら文字は全く読めない。運が良ければ石碑は発見できると言う状態である。久井町の石碑と同様で、契沖の偉大な業績から考えると少し残念である。

和泉市立石尾中学校の正門前には「國學発祥之地」と刻まれている石碑が大樹の下にある。大変立派な石碑で見つけるのも容易である。地元の人々の誇りとなっていることが感じられ来たかいがあったと嬉しくなった。


大阪市、尼崎市に今も息づく契沖

大阪市東成区には契沖が出家し、後に住職となった妙法寺がある。大阪と奈良を結ぶ暗越(くらがりごえ)奈良街道沿いにあり、本堂が残るばかりの静かな境内は歴史を感じさせる。契沖は水戸光圀から拝受した『万葉代匠記』の原稿料の相当な額をこの妙法寺の改装費用に充てたとのことである。太閤様がお祈りして出世したといわれる大黒天が祀られ、契沖の功績を認めた水戸光圀から香炉が贈られたそうである。

天王寺区空清町の「圓珠庵」は元禄3年(1690)創建。契沖はここに居を構え「圓珠庵」と称し、『和字正濫鈔』など多くの著作をしている。この辺りは古来、三韓坂と言われた古道で、その脇にあった榎木の樹霊信仰の場であった。毎年1月25日の契沖の命日に契沖忌が行われているそうである。ここには契沖の墓があるが非公開であり、住職に頼んでみたが拝見することも撮影することもできなかった。


本居宣長は没する享和元年(1801)の春にここを訪れ墓参りをしている。契沖没後100年目のことで、宣長は70歳。松阪から大坂まで、わざわざ圓珠庵を訪れたのは契沖に対する尊敬心の表われであろう。

契沖の生誕地である尼崎には、多くの記念碑が建てられている。そのひとつ、尼崎城跡内の尼崎市立中央図書館の南に「契沖生誕の比定地」と刻まれた石柱が建つ。契沖生誕の地とされているところである。また、これに隣接して桜井神社があり、この境内社として契沖神社が鎮座している。

尼崎市大庄町には、かつての中国街道、武庫川渡河の辺りに「口開(くちのびらき)公園」があり、ここにも契沖の顕彰碑がある。この辺りは、かつて契沖が高野山から姫路にいる母を訪ねたという縁があり、契沖研究会が建立したそうである。なお、尼崎市には「契沖研究会」の本部があり、契沖の業績の研究をはじめ、万葉集のフィールドワーク(実地学習)や契沖ゆかりの地の探訪、シンポジウムなどの活動が行われている。
(註1)千里文化財団発行『千里眼』第131号に所載


2017年4月
(2017年11月改訂)

和田誠一郎

《参考文献》
・久松潜一『契沖』(吉川弘文館)


≪施設情報≫
○ 桜井神社
   尼崎市南城内116−11
   電:06−6401−6643
   アクセス:阪神電鉄「尼崎駅」より南へ徒歩約15分

○ 真言宗 妙法寺
   大阪市東成区大今里4丁目16−50
   電:06−6971−1568
   アクセス:地下鉄千日前線「今里駅」5号出口より徒歩約5分
   地下鉄千日前線「新深江駅」1号出口より徒歩約6分
   近鉄大阪線「今里駅」より徒歩約9分

○ 圓珠庵(鎌八幡)
   大阪市天王寺区空清町4番2号
   電:06−6761−3691
   アクセス:地下鉄谷町線「谷町6丁目駅」より徒歩約15分
   JR環状線「玉造駅」より徒歩約15分
   近鉄大阪線「大阪上本町駅」より徒歩約15分

○ 口の開公園
   兵庫県尼崎市大庄西町2丁目3−18
   アクセス:阪神本線「武庫川駅」より約570m

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