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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第10話 淀屋常安よどやじょうあん(1560年?-1622年)

天下の台所の生みの親

淀屋常安(よどやじょうあん)は、江戸初期の大坂の代表的な豪商。豊臣秀吉が明の使節を謁見するため、完成を急いだ伏見城の築城工事に参入し、散在する巨石処分を格安で請け負い、大穴を掘って巨石を埋めるという奇策で名を上げた。さらに秀吉が進めた巨椋池改修、宇治川の付け替え、太閤堤の築堤、伏見港の整備など大がかりな淀川の洪水対策を手がけた。

常安は山城国岡本荘の出身。慶長伏見大地震(1596年)のあと、桂川、宇治川、木津川の合流点の淀津から大坂の十三人町(大阪市中央区北浜4丁目)に移り、「淀屋」と称して吉野杉や木曽檜を扱う材木商を開いた。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣では、徳川方に付き、得意の土木技術で家康の茶臼山本陣、秀忠の岡山本陣をつくった。大坂城落城後は、戦場の処理を手がけ、鎧や兜、刀剣などの処分を引き受け、莫大な富を手にしたといわれる。

徳川の天下統一後、家康は常安を召し出し、冬の陣、夏の陣への功によって苗字帯刀と岡本三郎右衛門と名乗ることを許した。そのうえ山城八幡の山林300石を与え、八幡の侍格に取り立てた。さらに家康から望みのものはないかと問われ、常安は「諸国から大坂に入る干魚の品質に応じて市価を定める独占権と干魚の運上銀(関税類似のもの)を欲しい。米穀の相場を自分一手で立てたい」と願い出て、いずれも許可された。

常安は土佐堀川の河原で、淀屋の蔵に集まってくる米を店頭に出し、私設の米市場を開いた。そこに仲買人が集まり、米相場が発展することになった。次いで幕府に中之島の開拓を出願し、常安請地として整備を進め、元和5年(1619)に完成した。近世大坂のインフラ整備を進め、大坂が「天下の台所」として発展する基盤を築いた。


フィールドノート

井原西鶴、近松門左衛門が描く淀屋

「北浜の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻の間に、五万貫目のたてり商もある事なり」。井原西鶴は経済小説の先駆けともいえる『日本永代蔵』を貞亨5年(1688)正月に出版し、淀屋の隆盛ぶりをこのように描いた。

二代目言当(1576-1643、以後代々通称辰五郎、号个庵(こあん))は常安と同様商才に富み、覇気も備えていた。海部堀川を開削し、「永代浜」を設けて海産物市場を開き、京橋南詰の所有地に青物市場を設け、都市作りを進めた。米市のため、門前の土佐堀川に橋を架け、「淀屋がかけた橋」(淀屋橋)が出来た。財政難に陥った大名に蔵米を担保として「大名貸し」をするまでになった。

西鶴が日本永代蔵で描いた豪商は四代目重当(1634-1697)のころで、元禄から正徳年間の事件を書き留めた「元正間記」に「大書院、小書院は総体金張り付き、金襖(きんぶすま)に極彩色の四季の花鳥を描かせ、・・・夏座敷と名付けたものに・・・外来品のビードロ(ガラス)の障子を立て、天井もまたビードロ張りにして、そこに水をたたえて金魚を放ち、寝ながらそれを眺められる」とあり、百万石の大名に匹敵する財力を持つまでになっていた。

五代目広当(1683-1717)が取り潰しという闕所(けっしょ)処分になったのは宝永2年(1705)のことだ。当時の資産は諸説あるが、金12万両、銀12.5万貫、土地が北浜に2万坪、伏見、和泉、八幡などに400町歩、家屋1万坪、米蔵など730戸、材木2000貫、千石船150艘(そう)、屏風、鉱産物、美術品、薬種、刀剣など。大名への貸付金は銀1億貫あったとされ、いまの価値に換算すると、100兆円という試算がある。広当は財産没収、大坂三郷所払いとなった。これで財政難の幕府は一息つき、諸大名は借金が帳消しになった。

闕所から3年後の宝永5年(1708)、大阪・道頓堀の竹本座で、近松門左衛門作『淀鯉出世滝徳(よどこいしゅっせのたきのぼり)』が上演された。五代目広当(通称・辰五郎)のモデル小説だ。主人公は幕府から遊女の身請けにからむ不祥事を理由に所払いになり、観客の同情を誘って人気を博した。『近松二十四番勝負』と題して近松作品を朗読劇として上演し、大阪文化祭奨励賞を受賞した俳優・南条好輝さんは「最後に大逆転でハッピーエンドというのは近松の世話物では珍しい」と話す。


世界に先駆けて始まった金融革命

「淀屋の碑」は地下鉄御堂筋線淀屋橋駅の西側、土佐堀通の川沿いに建っている。大阪北浜船場ライオンズクラブが昭和62年(1987)2月に建立し、日本学士院会員で元大阪大学教授の故宮本又次氏が碑文を書いている。「堂島米市場跡記念碑」は「淀屋の碑」から中之島を挟んで北西約300mの堂島川にかかる中之島ガーデンブリッジ北詰の阪神高速道路下にある。

「堂島米市場跡記念碑」は日本証券業協会大阪地区協会が平成2年(1990)3月に建立、碑文には「先物取引発祥の地」と書かれている。背後の稲穂を手にした子どもたちの像は、日展の審査員などを務め広島平和祈念公園の『祈りの像』などの作品で知られる彫刻家・故横江嘉純氏の作品で、昭和30年(1955)に堂島米市場跡建碑会が設置した。台座には川岸で開かれた米市場の代名詞の「濱」の字を図案化して刻まれている。

淀屋常安が店頭で始めた米市場は年を追って活発になり、北は青森から南は鹿児島まで全国から米が海路、大坂に集まり、各藩は中之島に蔵屋敷を構えた。変動する米価をリスク回避するため、青田買いにあたる先物取引(帳合米取引とよんだ)が発達し、仲買人が1000人を超えるようになった。米価をコントロールしたい幕府は、米取引に介入をはかり、元禄10年(1697)に米市場を淀屋の店先から堂島に移した。享保15年(1730)になってやっと堂島米会所として帳合米取引を公許した。

江戸時代の堂島米会所の身振り手振りがシカゴ農産物先物取引所やシカゴ商品先物取引所で行われている手信号による売買と同じだったという。江戸後期に来日したドイツ人医師、シーボルトが堂島を見て母国に伝え、それがシカゴに伝わったという説がある。堂島米会所は差金決済制度や取引の基準となる建物米の設定、証拠金の設定など世界で最初の組織化された商品先物市場として発展してきた。しかし、明治2年(1869)、幕府の崩壊とともに明治政府によって閉鎖され、先物取引のノウハウが途切れた。

平成2年(1990)にノーベル経済学賞を取ったシカゴ大学のマートン・ミラー博士は、平成10年(1998)に放送されたNHKスペシャル『マネー革命-金融工学の旗手たち』で、「先物取引は日本で発明された。それは現代的な取引制度を持った最初の先物市場でした」「シカゴ商品取引所よりも120年近くも前です。先駆的で革命的な事業でした」と述べている。

福澤諭吉らは翻訳のためさまざまな経済用語を編み出したが、相場用語は日本語がほとんど揃っていたといわれる。淀屋常安が江戸初期に蒔いた金融革命の種は400年を経てアメリカ・シカゴで発展し、21世紀の資本主義に「デリバティブ」と名を変えて世界を席巻している。


淀屋清兵衛の再発見で、淀屋研究会が誕生

昭和54年(1979)6月5日付の日本海新聞に「大阪・倉吉 淀屋清兵衛は同一人物だった」と見出しが踊った。鳥取県倉吉市の大蓮寺の境内に「大坂・淀屋清兵衛」と彫った供養塔がある。地元では長年、清兵衛を名乗る牧田家と大坂の淀屋清兵衛との関係が取り沙汰されていたが、地元の招きで倉吉を訪れた淀屋研究家が墓や寺の古文書を調査し、同一人物と鑑定したというものだ。

倉吉市教育委員会は平成17年(2005)、市内に残っている築250年の牧田家を保存するため、調査委員会を設けて調査、「淀屋清兵衛家は牧田家が出自」との報告書をまとめた。新山通江著『淀屋考千夜一夜』などによると、重当は幕府による取り潰しを予見し、番頭の牧田仁右衛門に淀屋の暖簾を守るように厳命した。仁右衛門は倉吉に戻って淀屋の再興を期し、牧田家三代目の四男が宝暦13年(1763)に淀屋橋に出て、木綿商の店を構え、淀屋清兵衛を名乗ったという。牧田家は修復されて倉吉市最古の町屋建築として同市指定文化財となっている。

関西でも淀屋再評価の気運が盛り上がり、平成17年(2005)4月に淀屋の墓所がある京都府八幡市の神應寺(じんのうじ)で「淀屋闕所300年法要」が行われた。同年5月には鳥取県大阪事務所で「淀屋サミット」が開かれた。これをきっかけに淀屋の真相究明や顕彰事業を目的とした「淀屋研究会」が発足した。

同会は淀屋展やシンポジウム、講演会、史跡めぐりなどを開き、淀屋常安の墓所がある大仙寺(大阪市中央区谷町9丁目)や神應寺などに案内板を設置するなど淀屋再評価にむけて周知に努めている。平成27年(2015)5月には綿業会館(大阪市中央区備後町)で「研究会設立10周年記念シンポジウム」を開き、300人が集まるなど活発な活動を繰り広げている。

2017年6月

(宇澤俊記)



≪参考文献≫
 ・宮本又次『豪商列伝』(講談社学術文庫2003.9)
 ・新山通江『淀屋考千夜一夜-なにわの豪商波瀾の三代記』
                   (たま出版 1985.7)
 ・相田洋、茂田喜郎『NHKスペシャル マネー革命②金融工学の旗手たち』
                   (日本放送出版協会 2007.2)
 ・谷脇理史校注訳井原西鶴『日本永代蔵』
         (新編日本古典文学全集『井原西鶴集③』所収 1996.12)
 ・長友千代治校注訳近松門左衛門『淀鯉出世滝徳』
         (新編日本古典文学全集『近松門左衛門集①』所収 1997.3)
 ・淀屋展図録『淀屋の歴史と偉業』(淀屋研究会 2005.5)
 ・淀屋研究会『「淀屋研究会」10年のあゆみ』(2015.5)
 ・淀屋研究会研修用資料『「淀屋」関連資料集Ⅰ、Ⅱ』(淀屋研究会)
 ・福山琢磨『番頭・牧田仁右衛門の忠誠と倉吉』(『大阪春秋』第150号 2013.4)
 ・倉吉市教育委員会『旧牧田家建物保存対策調査報告書』
         (旧牧田家建物保存対策調査委員会 2005.3)



≪取材協力≫
○ 淀屋研究会代表 毛利信二氏/俳優 南条好輝氏



≪施設情報≫
○ 淀屋の碑、淀屋の屋敷跡
   大阪市中央区北浜4丁目1 淀屋橋南詰西側
   アクセス:地下鉄御堂筋線、京阪本線淀屋橋駅下車、「淀屋橋」南詰西側

○ 堂島米市場跡記念碑
   大阪市北区堂島浜1丁目3 中之島ガーデンブリッジ北東詰
   アクセス:地下鉄御堂筋線、京阪本線淀屋橋駅北西600m

○ 常安橋
   大阪市北区中之島4、5丁目と西区土佐堀1、2丁目
   アクセス:京阪中之島線中之島駅東約600m

○ 天満青物市場跡
   大阪市北区天満3丁目 南天満公園
   アクセス:地下鉄谷町線、京阪本線天満橋駅下車、北西約200m
   ※「天満の子守歌歌碑」「淀川三十石船舟歌歌碑」も公園内にある。

○ 大仙寺
   大阪市中央区谷町9丁目の大仙寺9丁目5-6
   アクセス:地下鉄谷町線谷町9丁目駅下車、北約300m

○ 神應寺
   京都府八幡市八幡西高坊24
   アクセス:京阪本線八幡市駅下車約5分

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