JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 情報公開
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人
なにわ大坂100人イメージベース画像
なにわ大坂100人イメージ画像
書籍広告画像
アマゾンリンク画像

第38話 狩野山楽かのうさんらく(1559-1635年)

狩野永徳の画風を受け継いだ「京狩野」の創始者

狩野山楽(初名木村光頼(みつより)、号山楽)は、近江国(滋賀県)蒲生郡の出身。浅井長政の家臣であった父木村永光(ながみつ)は狩野元信に師事して絵を学んでおり、光頼(山楽)は早くから父の影響を受けた。天正元年(1573)8月、浅井家は小谷城の戦いで織田軍に敗れ滅ぶが、城を継いだ羽柴秀吉は信長の妹で長政の正室お市の方とその子供たちを引き取ったばかりでなく、有能な旧浅井家家臣をも自らの配下に置いた。その中に永光、光頼の親子もいた。

山楽は当時最大最強の絵師集団・狩野派棟梁狩野永徳の門下に入り、その後養子となって狩野姓を名乗る。入門の経緯については、ある時、長浜城内で杖を持って従っていた山楽がその杖で庭の土に馬の画を描くのを見た秀吉が、その画才を認め永徳に推挙したのだと、狩野永納が『本朝画史』で語っている。

山楽は、永徳の気宇壮大な画風を体現し、信長の安土城、秀吉の伏見城や大坂城、京都の寺社仏閣などの作事にあたって膨大な障壁画を揮毫した。永徳の死で中断していた東福寺法堂の天井画雲龍図は、秀吉の命により山楽が完成させたといわれている。また、有力公家の九条幸家(くじょうゆきいえ)も新御殿造営にあたって山楽を起用し、その障壁画の一部が『車争図屏風』として今に残る。その後の同家と山楽一派の関係は長く続く。

秀吉の死後、山楽は秀頼に仕えるべく、工房を京から大坂に移し制作に携わる。元和元年(1615)5月、大坂夏の陣で豊臣家が滅び、山楽も豊臣家の一員として残党狩りに遭い、男山八幡宮の松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)の許に匿われ危うく難を逃れることに。しかし、旧浅井家ゆかりの人びとの支援もあり、その年に許されて駿府で徳川家康に拝謁した。その後、宗家を始めとして狩野派の多くは京を離れて江戸に移り、幕府の御用絵師(江戸狩野)となったが、山楽は京に留まり九条家や本願寺の御用絵師を務め画業にいそしむ。その系譜は娘婿で二代目山雪(さんせつ)、三代目永納(えいのう:山雪の子)へと引き継がれ、後世「京狩野」と呼ばれる。


京狩野を前面に押し出した「狩野山楽・山雪展」の迫力

平成25年(2013)春、京都国立博物館は大勢の入館者で溢れていた。京狩野創始者の山楽、二代目山雪の代表作のほぼすべてを集めた特別展「狩野山楽・山雪展」が開催されたのである。京狩野二代の世界を系統的に紹介する本邦初のそして最大級の展覧会であった。80点を超える展示のうち、山楽作品は重文級の襖絵、屏風絵を中心に20点近く、『松鷹図襖』、『紅梅図襖』、『牡丹図襖』(いずれも大覚寺)や中国の古事・人物を題材にした『文王呂尚(ぶんのうろしょう)・商山四皓図屏風(しょうざんしこうずびょうぶ)』、『竜虎図屏風』(いずれも妙心寺)など代表作がずらりと並び、永徳譲りの画面の迫力に圧倒された。

また、昭和18年(1943)に大阪・四天王寺の蔵から発見された貴重な『聖徳太子絵伝』の板に描かれた壁画断片と、当時調査にあたった山楽研究のパイオニアで京都工業繊維大学教授・故土居次義氏の発見当時の貴重な調査ノートも展示され異彩を放っていた。

最近、京狩野派が注目されている。作品の発掘や研究も進んでおり、平成26年(2014)5月には、京都市東山区の良正院(りょうしょういん)に残る襖絵が山楽の息子伊織が描いたと推定する論文が発表(兵庫県立博物館 五十嵐公一学芸員)され、同年12月には京都国立博物館が滋賀県在住の個人から寄託された「槇に白鷺図屏風」が山楽の筆になるものと鑑定された。この相次ぐ発表に、「山楽作品の発見は奇跡に近い」とする声もあがっている。京都国立博物館は平成27年(2015)春に特別展「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち」を開催し、新発見の山楽の屏風を出品する予定である。先の特別展に続き同博物館の力の入れようには目を見張るものがある。


狩野派の「派」の意味―職人が集団で制作する工房

京都の二条城では昭和47年(1972)から障壁画の模写作業が行われている。障壁画総数は3600面あり、平成26年(2014)3月末までに715面の模写が終わった。全部の模写を終えるにはあと20年近くかかるという。一つの城や御殿を飾る襖の数はことほど左様に膨大な数なのである。

安土城、大坂城、伏見城のいずれの作事でも数千枚の障壁画が制作されたと思われる。その作業には強力なリーダーシップをもった棟梁と優れた番頭格の絵師そして画紙、糊、金箔貼り、金泥塗り、岩絵具など多くの職人が動員された。施主(この場合、織田信長、豊臣秀吉)の築城構想を十二分に理解することはもちろん、区分けされた各部屋の役割にマッチしたイメージの絵を重複しないように割付け、正確な下絵を準備し、現場に張り付いて建屋造作工事の進行に合わせながらチーム一体となって効率よく制作しなければならない。資材の不足や手直しの繰り返しで工程が遅れたりすることは許されない。完成したとしても施主の満足が得られない場合は死さえも覚悟しなければならない。それはまさに戦場で戦う集団となんら変わることはない。

狩野永徳を棟梁とする狩野派は、この過酷な条件下で施主の意図に対応し、工房集団として他を圧倒して優位な立場を築き上げていった。永徳は、山楽を常に重要な作事に参画させた。山楽も棟梁永徳の期待に応え自らの実力を練磨していったと思われる。

とくに襖絵は集団で製作した作品であるがゆえに、個別の絵師が号を書き入れ、落款を印すことはない。今日でも大半の障壁画は「狩野派絵師が描いた」との表現にとどまるか「伝永徳筆」のように名前の前に「伝」をつけ「そのように伝わっています」とするのが通例である。しかし、永徳や山楽クラスになると、構図や筆致、色使いなどが署名入りの作品と合致していれば、自ら主導的に描いた作品であると鑑定されている。近年の埋もれていた山楽作品の発見は、山楽の研究が一段と進んだ結果ともいえよう。


理想の「群青色」を求めて―摂津多田銀銅山の独占的使用権

先述の「文王呂尚・商山四皓図屏風」について、特別展の図録解説は、その図で使われている「群青の眼も覚めるような鮮やかさ」を激賞している。実際、そのとおりで、他色にくらべ抜きんでる発色であった。山楽は、群青にこだわったようだ。この色の岩絵具は、藍銅石から採れるが主に中国からもたらされる貴重なもの。国内の鉱山で産出するところは限られており、当時は秀吉が直轄していた摂津国多田銀銅山で藍銅石が採れた。多田銀銅山は奈良時代の大仏建立の際、銅を寄進したとされる古い歴史をもつ。天正14年(1586)、山楽は秀吉から紺青(群青と同じ)の朱印状を下付され独占的採掘権を獲得、良質の紺青をふんだんに使える環境を得た。藍銅石は、金鉱石と同等の価値があり、その採掘には秀吉の許可が必要とされたという。採掘権付与は秀吉の山楽に対する寵愛の深さを表すもので、山楽のその後の秀吉に対する不動の恩顧に繋がることを物語っている。


4億5千万両の埋蔵金はどこに!?

兵庫県川辺郡猪名川町銀山に多田銀銅山跡が残っているので行ってみた。町が設置した「多田銀銅山悠久の館」には、銀銅山の絵図・文書・高札等の歴史資料をはじめ、さまざまな鉱石類が展示されていた。最後の代官所郡司秋山良之助から京狩野家九代目狩野永岳に渡された件の朱印状の写しも展示されていた。

代官所跡を過ぎて、山を登り昔の坑道跡の一つ青木間歩(まぶ=坑道)に入る。幅1m、高さ1.8mの坑道で、昔の手掘りの坑道手前で行き止まりとなる。天井部分に緑青のような色の鉱石が露出していた。坑内の温度は10度ほどで、夏は涼しく冬は暖かいそうだ。

多田銀銅山には秀吉の埋蔵金伝説が今も伝わる。多田銀銅山研究家の鈴木盛司氏は、銀山奉行を務めた旧家の古文書から秀吉が4億5千万両の金を多田銀銅山の廃坑に分散埋蔵したことを突き止め、生涯をかけその発掘に携われた。しかし目標を果たせず、一冊の著書を残し平成24年(2012)に故人となられた。伝説の山周辺は、現在は格好のハイキングコースとなっている。


大坂の山楽―大坂城と四天王寺・聖徳太子絵伝

秀吉が、石山本願寺跡に大坂城の作事を開始したのは天正11年(1583)。本丸築造に1年半を費やし慶長3年(1598)に没するまでの15年間、難攻不落の巨城を築きあげていった。五層の天守閣を覆う瓦には金を使い、本丸御殿の内部は金銀の装飾で輝き満ちていたという。当然のこととして狩野派は総動員され、棟梁永徳はじめ山楽も天下の大事業に参画した。大坂城築城開始の翌年(山楽が秀吉から多田銀銅山の採掘権を得た年)からは京都聚楽第の作事も始まり、この時期は狩野派の絶頂期であったといえよう。

山楽は、秀吉没後大坂に移り住み、豊臣家の絵師として秀頼に仕えたものと思われる。秀吉が命じ秀頼が受け継いだ四天王寺再建で、山楽は絵堂を飾る壁画『聖徳太子絵伝』を制作するも大坂冬の陣で絵伝は焼失した。元和元年(1615)大坂夏の陣で大坂城は落城、障壁画はことごとく灰燼に帰した。そして、山楽自身も豊臣家残党として命を狙われる羽目となった。

山楽の大坂時代は秀吉の死後約10年続いたといわれる。秀吉恩顧の絵師山楽は、遺児秀頼の成長を見届ける気持ちになったのだろうか。

平成26年(2014)秋、関西・大阪21世紀協会主催の見学会で訪れた堺市の大安寺本堂は、豪商呂栄(納谷)助左衛門の邸宅の一部を移した建物で、寺伝によると方丈の障壁画は狩野元信や永徳の作とされている。しかし、助左衛門は秀吉の手厚い保護を受けていた時期もあり、秀吉を介して山楽に障壁画を発注した可能性はまったくないわけではない。山楽の筆致は棟梁永徳に似ている。秀吉と堺の豪商とのつながりを考えれば、山楽の姿が浮かんできてもごく自然に思えるのだが、さてどうか。

大坂冬の陣で焼失した山楽の聖徳太子絵伝は、二代将軍徳川秀忠の命により山楽が再び制作、元和9年(1623)に完成を見た。しかし、19世紀初頭、四天王寺が落雷火災により焼失、絵堂はその後再建されなかった。誰しもが焼失したと思っていた絵伝であったが、昭和18年(1943)の奇跡的な絵堂壁画断片の発見により、山楽の重要な作品の一つとして冒頭の特別展での展示につながっていくのである。

京都では冬のシーズン、毎年京都市観光協会が主催する「非公開文化財特別公開」を大々的にPRしているが、平成26年(2014)の特別公開は山楽をはじめとする狩野派の作品に触れる絶好の機会であった。山楽作品は、高台寺開山堂の龍の天井画、建仁寺正伝永源院方丈の「蓮鷺」図襖、血天井で有名な養源院本堂「牡丹の間」の三方の襖に描かれた「牡丹」図。また山楽以外には、知恩院三門楼上の天井や柱の狩野派による極彩色の天女や飛龍図、大徳寺聚光院方丈の狩野松栄・永徳父子のデジタル複製された襖絵などを観て回った。

戦禍を免れた京都では幸いにも多くの障壁画が生き残った。二度に渡り豊臣・徳川の戦場となった大坂には山楽の足跡をたどれるものは四天王寺の絵伝のみ。最多の作品を擁していたのは秀吉の大坂城であったが、今は石垣を一部残すだけで障壁画の偉容を目の当たりにすることはもうできない。

現代の大阪人は今もなお大阪城を愛し太閤秀吉を敬慕する。日常生活に溶け込んでいる四天王寺もしかり。秀吉の命を受け、大坂の精神的シンボルである大坂城と四天王寺での重要な作画に従事した山楽を、大坂ゆかりの狩野派絵師に加えても異論はないと思う。さらに付け加えるなら、山楽を「最後の太閤絵師」と呼んでみたいものである。


浅井家と近江衆―山楽を救ったのは浅井・織田の血統

山楽は父とともに浅井家家臣から秀吉の臣下に入った。子飼いの家臣団を持たない秀吉にとって、有能な近江衆はまさに喉から手が出るほど欲しい戦利品であった。浅井長政の三姉妹も秀吉の庇護を受け、その後の数奇な運命を辿ることになる。長女茶々は秀吉の側室淀殿となり、秀頼を生んだ。次女初は京極家に嫁し、徳川・豊臣の講和に動いたこともあった。三女江は佐治一政、豊臣秀勝と二度の婚姻を経て徳川秀忠の正室になった。江と秀勝との間に設けた完子は姉淀殿の猶子となり公家の九条幸家に嫁ぐ。山楽が大坂夏の陣の残党狩りの難を逃れ、家康との拝謁にまでこぎつけたのは、このような浅井姉妹と幸家、秀忠との姻戚というつながりが大きく動いたことは想像に難くない。

JR北陸線「河毛」駅から湖北バスで10分ほどの小谷山麓にある長浜市の「小谷城戦国歴史資料館」には、浅井家三代と浅井三姉妹の資料が展示されている。

小谷城址のある小谷山に向かう。雪が残る急勾配の山道を、息を切らせながら進んでいく。海抜500m近いこの山の峻厳さと、天下屈指の山城としての堅固さが足元から直に伝わってくる。眼下に琵琶湖上に浮かぶ竹生島を望み、東には伊吹山の偉容が迫ってくる。灌木の茂った林を抜けると浅井長政が最期を遂げた赤尾屋敷跡に自刃の地碑が静かに立っていた。

天下の要衝北近江を治めた長政は、信長の妹で妻であるお市の方や娘たちを深く愛し、家臣に対しては篤い心配りに満ちていたという稀有な戦国大名であった。山楽はそのような環境の中で幼少時代を送った。浅井の血統が山楽を危難から救い、九条家の庇護のもとに京狩野派を近代明治まで生き長らえさせたといってよい。


2016年9月

(長谷川俊彦)



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・京都国立博物館『狩野山楽・山雪』展図録』
 ・別冊太陽『狩野派決定版』
 ・小学館ギャラリー『新版名宝日本の美術 友松・山楽』
 ・週刊アーティストジャパン『狩野山楽』
 ・辻 惟雄『カラー版 日本美術史』
 ・土居次義『日本歴史新書 障壁画』
 ・土居次義『人と歴史シリーズ 永徳と山楽』
 ・五十嵐公一『京狩野三代生き残りの物語』
 ・佐藤晃子『画題で読み解く日本の絵画』
 ・鈴木盛司『豊臣秀吉の埋蔵金を掘る』
 ・長浜歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江―浅井三代から三姉妹へ』
 ・苗村和正『新湖国物語―水の国の文化、道の国の人々』
 ・淡海文化を育てる会編『近江戦国の道』
 ・太田浩司『浅井長政と姉川合戦―その繁栄と滅亡への軌跡』
 ・山本博文『徳川幕府の礎を築いた夫婦 お江と秀忠』



≪施設情報≫
○ 大阪城
   大阪市中央区大阪城1番1号
   電:06−6941−3044
   アクセス:JR環状線「大阪城公園前」駅下車 徒歩10分

○ 四天王寺
   大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
   電:06−6771−0066
   アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺・夕陽丘前」駅下車 徒歩10分

○ 多田銀銅山
   兵庫県川辺郡猪名川町銀山字長家前4番地の1
   電:072−766−4800
   アクセス:能勢電鉄「日生中央」駅下車、阪急バス川西能勢口方面行
           「銀山口」バス停下車、西へ徒歩30分

○ 大安寺
   堺市堺区南旅篭町東4丁1-4
   アクセス:阪堺電車阪堺線「南宗寺西」駅下車、南東へ徒歩10分

○ 京都国立博物館
   京都市東山区茶屋町527
   電:075−525−2473(テレホンサービス)
   アクセス:JR京都駅前から京都市営バス乗車、
           「博物館・三十三間堂前」下車すぐ

○ 養源院
   京都市東山区三十三間堂廻町656
   電:075−561−3887
   アクセス:JR京都駅前から京都市営バス乗車、
           「博物館・三十三間堂前」下車し、三十三間堂を南へ徒歩5分

○ 高台寺
   京都市東山区高台寺下河原526
   電:075−561−9966
   アクセス:JR京都駅前から京都市営バス乗車、「東山安井」下車、東へ徒歩5分

○ 建仁寺正伝永源院
   京都市東山区大和大路通四条下る4丁目 小松町586
   アクセス:阪急電車「河原町」駅下車、東へ徒歩15分

○ 知恩院
   京都市東山区林下町400
   電:075−531−2111
   アクセス:JR京都駅前から京都市営バス乗車、「知恩院前」下車、徒歩5分

○ 大徳寺聚光院
   京都市北区紫野大徳寺町58
   電:075−491−0019
   アクセス:JR京都駅前から京都市営バス乗車、「大徳寺前」下車、徒歩5分

○ 小谷城趾、小谷城戦国歴史資料館
   滋賀県長浜市小谷郡上町139番地
   電:0749−78−2320
   アクセス:JR北陸線「河毛」駅下車、湖北バスで「歴史資料館前」下車徒歩5分

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association