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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第44話 末吉勘兵衛利方
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第44話 末吉勘兵衛利方すえよしかんべえとしかた(1523-1607年)

信長・秀吉・家康も一目おいた平野郷の豪商

末吉勘兵衛利方は、戦国武将との交友に加え、天正8年(1580)、織田信長・顕如の石山合戦では正親町(おおぎまち)天皇の勅命講和の裏方を務めた豪商である。廻船問屋を手広く営み、諸国へ物資を搬送して天下の形勢に詳しく、徴税請負や鉱山発掘も手掛けて巨富を築いた。また、千利休とは豊臣秀吉が利方を重用する以前から親交があり、利休からの10通を超える書状が伝わっている。

戦国時代、平野郷(現在の大阪市平野区一帯)は堺とならび自治都市として発展をとげた。その推進役となったのが、坂上田村麻呂の子孫である坂上家を支えた「七名家(しちみょうけ)」である。後述の野堂氏ほか6家が町民の上層階級を形成。平野殿と尊称された坂上家は、氏神である杭全(くまた)神社の祭祀を担い、江戸時代には惣年寄を独占して町を支配した。

末吉姓は、坂上田村麻呂の子・広野麻呂から数えて9代目で、野堂地域を支配した野堂末吉のさらに13代後の藤右衛門増利が、先祖の名前を苗字としたことにはじまる。増利の孫の行増には5人の男児があり、長男・増久が東末吉家を、次男・利方が西末吉家を立て、3男は平野姓を名乗った(※注1)

西末吉家の末吉勘兵衛利方は、天正4年(1576)ごろ、大坂本願寺を攻める信長配下の筒井順慶より商売上の特権を与えられた。また12年後の天正16年(1588)、秀吉より朱印状で東末吉家と同様に商業活動の自由を保証された。同年、上杉景勝も利方に海運による商業活動を保証、同じころ家康も朱印状を授けて領内の航行の自由を保証した。天正18年、家康が関八州を領有すると航行自由の地域は拡大し、後の吉康の時代になって始めた「末吉船」による海外貿易のための資本蓄積と航海技術習得の基礎となった。

天正11年(1583)、利方は秀吉から平野に150石の領地を与えられ、同14年、布忍(ぬのせ)村千石の代官つまり徴税役人に任ぜられた。

ところが、慶長3年(1598)8月、秀吉は病により死去、朝鮮出兵中の軍勢は撤退し、2度にわたる朝鮮半島に対する侵略戦争は終結した。これを受け、早くも翌慶長4年(1599)、家康側に立つ大名と秀頼を奉ずる石田三成たちとの対立が表面化し、続く慶長5年(1600)関ヶ原で全面戦争に突入、東軍家康側の勝利に終った。東末吉家は豊臣方に加担したが、先見の明のあった利方は三成からの誘いを断って関東方の軍資金の一部を負担し、家康が勝利を収めるや大津まで出迎えに駆けつけた。感激した家康は「平野庄及六箇村軍勢乱暴狼藉堅制禁」の朱印を渡し、平野地域が無傷のまま発展する基となる。さらに翌慶長6年(1601)、家康は利方を伏見城へ招いて経済政策を問うたところ、利方は「流通貨幣がまちまちで商取引に不自由。物価も不安定。よって貨幣価値の統一が急務」と進言した。家康は早速、伏見に「銀座」を設け、利方を頭役にする。時に利方76歳。ここで鋳造されたのが慶長小判である。

利方は千利休とも親しく、利休秘蔵の名器には利方が譲与したものも多い。慶長12年(1607)82歳没(※注2)。法名道勘。高野山の蓮花定院(※注3)に葬られた。

注1

①末吉家3代目、藤右衛門行増の長男・藤左衛門増久が本家を継ぎ、居住地から「東末吉家」と呼ばれた。筒井順慶や秀吉から保護を受け、堺の南北両庄において信長から馬座の権利を得て陸運業を独占。文禄2年(1593)には越前北袋銀山の採掘を請け負った。東末吉家初代増久の妻は堺の津田宗久の女である。

②末吉藤右衛門行増の次男・勘兵衛利方は西末吉家の祖となる。長男藤四郎利長は早世し、長女ゆきと辻葩(つじはな)孫左衛門の子、すなわち孫の孫左衛門吉安(康)と五郎兵衛道長の兄弟が家督を継ぐ。ただし道長は利方の次男という説もある。中田易直によると、吉康家は京都に居住し代官職・銀座職を継承したいわゆる分家筋とされ、五郎兵衛家は平野に居住して惣年寄を継承し、現代の第17代勘四郎につながる本家筋とされる。

注2

利方の命日は各資料とも慶長12年(1607)3月5日で一致しているが、生年と没年齢の記載にはばらつきがある。この項では末吉家系図により没年齢82歳とし、逆算すると生年は大永5年(1525)になる。一方、『コンサイス日本人名辞典』『平野区誌』には生年大永6年(1526)と明記されており、没年齢は81歳になる。さらに、『大阪人名辞典』では享禄元年(1528)生まれの79歳没、『大阪町人』(宮本又次/昭和32年)では「享年82歳。高野山蓮華定院に葬った」とある。

注3

高野山奥の院に末吉家一統の墓が21基あり、杭全神社西側にある長寶寺墓地に隣接する末吉家一統の墓地にも道勘(利方)の墓がある。


フィールドノート

 平野庄・平野郷町

9世紀初め、坂上田村麻呂の次男広野麻呂が朝廷より杭全荘を賜り定住し、「広野殿」と呼ばれたのが転訛して「平野殿」となり、この地域も平野と呼ばれるようになった。摂河泉の中継点で交通の要衝である平野は、杭全神社や大念仏寺の門前町として栄え、元禄15年(1702)、平野庄を平野郷町と改めた。中世末、堺とならび、上方の自治都市としてその名が天下に知られた平野庄(平野郷)は、濠およびその内側の土居(水害対策のための堤)によって囲まれた環濠集落であった。濠・土居はそれぞれ二重に廻らされ、その範囲は東西2.5㎞、南北2.7㎞、総面積360haであり、人口は約1万人。延宝7年(1679)の新検地によれば、5619石余で通常の村高の10倍を超える。


 平野の七名家

七名家とは、野堂[→末吉]、則光[→井上]、成安、利則[→三上]、利国[→土橋]、安国[→辻葩]、安宋[→西村]の7家で、成安家以外はそれぞれ括弧内の姓に改姓している。今平野に住んでいるのは末吉三家である。七名家は世襲で支配階級を形成し、往古には7家が1町ずつ(野堂町[のどうちょう]、流町[ながれまち]、市町[いちまち]、背戸口町、西脇町、泥堂町[でいどうちょう]、馬場町)を支配した。町の惣年寄役は七名家に限られ、杭全神社宮座も七名家から奉仕した。大坂、堺とは異なる平野独特の組織である。享保2年(1717)、七名家の土橋友直らにより町人の子弟の学問所「含翆堂(がんすいどう)」が創設された。


 正親町天皇家

利方が正親町天皇から石山合戦の調停を頼まれた背景には、坂上家の婚姻を通じた公家社会への深いかかわりと、末吉家の財力があると考えられる。勅使庭田大納言、観修寺中納言は直接大坂に入らず、平野庄に逗留して調停にあたった。


 長寶寺・長寶寺墓地

坂上氏の氏寺。坂上田村麻呂が大同元年(806)に創建した。長寶寺開山の慈心大姉は、坂上田村麻呂の娘で坂上広野麻呂の妹である俗名春子、桓武天皇の妃であった。杭全神社西側に長寶寺管理の墓地があり、春子、坂上家一族の墓と同一敷地内に末吉家一族が所有・管理する墓がある。現在は長寶寺境内にも墓地がつくられている。


 吉野山下千本

天正7年(1579)、利方51歳のとき、蔵王権現への信仰によりご神木の桜1万本と植樹費用百貫文を寄進している。15年後には秀吉が同じく1万本を寄進。戦前の調査で、吉野の桜は約10万本。


 伏見銀座

家康は慶長3年(1598)、伏見に銀貨鋳造所を設け、堺の銀職人・湯浅作兵衛常是を招いて鋳造にあたらせた。常是は姓を大黒と改め、銀貨に大黒像の極印を打った。家康は利方の建議をいれて鋳造所を銀座とし、利方を頭役に任じた。


 杭全神社

貞観4年(862)創建、広野麻呂の後裔坂上氏が牛頭(ごず)天王を勧請し、「牛頭天王社」あるいは「熊野権現社」と呼ばれたが、明治3年(1870)に「杭全神社」と改称。大坂の陣で被害を受けた本殿の一部を時の代官・孫左衛門長方が多くの氏子の勧進を受け修復した。七名家で「お田植祭」、「田村祭」を務める。境内にある末社・田村神社は坂上田村麻呂を祀り、命日の5月23日に田村祭が執り行われる。


 赤留比売命(あかるひめのみこと)神社

例年6月晦日(現在は8月1日)の「荒和大祓」(あらにご/あらにぎおおはらい)には、年回りで七名家の中より選ばれたその年の頭屋の稚児が花笠を着て馬に乗り「赤留比売命神社」から住吉大社までお渡りする。荒和大祓の神事では、「荒和祓屋(あわらや)」と称される神役を、七名家が務めていた。海運業を重要な家業の1つとする末吉家では、赤留比売命の依代(よりしろ)として「桔梗の花の造花」をつくり、先頭にこれを奉じて住吉さんに航海の安全を祈願した。

なお、赤留比売命は新羅から来た女神で、住吉大社の末社であったが、大正3年に杭全神社の末社になった。




2017年4月

(江並一嘉)



≪参考文献≫
 ・平野区誌刊行委員会『平野区誌』(平成17年5月1日)
 ・吉野町史編集委員会『吉野町史(下)』
 ・宮本又次『大阪町人』(昭和32年)
 ・平野公益会『平野郷町誌』(昭和6年)
 ・平野振興会・酒井忠雄大阪教育大教授『平野郷~大阪市編入50年誌~』
   (昭和55年2月1日)題字:先代末吉勘四郎
 ・『大阪春秋』44号12頁「平野と住吉家」(宮本又次)、
49頁「平野の七名家」(村田隆志)
 ・杭全神社編『平野法楽連歌-過去と現在―』(1993年)「平野郷の歴史」
 ・中田易直『日本歴史』第501号(1990年2月号)
   「末吉孫左衛門と末吉平野一統」
 ・『魚澄先生古希記念 国史学論叢』(昭和34年)「坂上7名と平野の荘園」

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