JavaScriptが無効化されています 有効にして頂けます様お願い致します 当サイトではJavaScriptを有効にすることで、You Tubeの動画閲覧や、その他の様々なコンテンツをお楽しみ頂ける様になっております。お使いのブラウザのJavaScriptを有効にして頂けますことを推奨させて頂きます。

大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

関西・大阪21世紀協会 ロゴ画像
  • お問い合わせ
  • リンク
  • サイトマップ
  • プレスリリース
  • 関西・大阪21世紀協会とは
  • ホーム
    文字のサイズ変更
  • 大きく
  • 普通
  • 小さく
こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第27話 河村瑞賢かわむらずいけん(1618-1699年)

投資効果を狙った大坂のインフラ整備

 ― 「天下の台所」を不動のものに

河村義通(よしみち:後に法名瑞賢)は、元和4年(1618)、伊勢国度会郡(わたらいぐん:現在の三重県)に生まれ、13歳で江戸に出て車力になったが芽が出ず、一時は帰郷しかけた。しかし、その途次会った老人の忠告を受け入れ、再び江戸に戻る。普請役人にも取り入り、人夫頭を経て次第に資産を蓄えた。明暦3年(1657)の江戸大火の際、木曽の山林を買占め巨額の利益を得た。

この利益を元に土建業を始めた瑞賢は、幕府や諸大名の普請を請け負うようになり、さらに奥羽御用米の江戸への回漕、東廻り海航路の開発と出羽御用米の回漕、西廻り海航路の開発など、海運発展の基礎をつくったことにより幕府の厚い信任を獲得した。

天和3年(1683)、幕府は、畿内の大和川治水の抜本策を講じるため、若年寄・稲葉正休(まさやす)を派遣し、その一行に瑞賢を随行させた。明くる貞享元年(1684)正月、全権を委任された瑞賢は、水患の原因は淀川河口の九条島が水流を妨げていることにあるとし、九条島を真二つに分ける開削工事に着手。同年2月からわずか20日間でやり遂げた。こうしてできた南北約3km、幅約1kmの新しい河道「新川」は、後に「安治川」と名付けられる。

瑞賢は、九条島開削は大和川の付替えよりも工事費が少なくて済み、治水効果が大きいとしたが、実際は新たな水運航路の確保による経済効果を的確に見通していた。安治川出現により、伝法口から中津川経由で大きく迂回して市内に入っていた船は大坂湾から直接堂島川や土佐堀川に入ることができ、距離の短縮と船の横づけが可能となり、両川の沿岸には各藩の蔵屋敷が立ち並ぶようになった。

瑞賢が迅速かつ大胆に実施した淀川治水事業の船運への貢献によって、その後、大坂は「天下の台所」として飛躍的な発展を遂げることになる。


大阪の太閤さん贔屓は不変

 ― 信太山蔭凉寺の血天井と瑞賢

大阪府和泉市尾井町、陸上自衛隊信太山駐屯地の広大な演習地の近傍に、寛文元年(1661)、曹洞宗の名僧鉄心が創建した永平寺派蔭凉寺(いんりょうじ)がある。

蔭凉寺創建に際し、事業家として地位を確立し鉄心に心酔していた瑞賢は惜しみない支援を行ったが、とくに目を引くのは京都伏見城の血のりの付いた床板を天井材として使用したことである。世にいう「血天井」は、現在京都養源院の他数か寺で公開されているが、この寺はそれほど知られていない。

ご住職にその天井を見せていただいた。わずか千名の軍勢で伏見城を死守せんとした鳥居元忠以下徳川方武将の血痕であることは自明なのに、なぜか寺の縁起には「豊臣家滅亡を物語る遺物」でその供養のためとされている。ご住職は、「土地柄そういうことにでもしないと住民は納得しませんからね」とさらりと言ってのけた。瑞賢の徳川家臣供養の思いとは関係なく、大坂夏の陣から400年、大阪は今でも反徳川・親豊臣なのである。


瑞賢と長柄の橋杭の縁

 ― 蒔絵長柄文台と浪速の笑い地蔵

鎌倉の建長寺に、「寛文8年(1668)9月、和泉国信太森蔭凉寺鉄心和尚に帰依し瑞賢入道と号した」との記録がある。瑞賢の墓は、建長寺でも格段位の高い塔頭並の扱いをされる場所に建立されており、新井白石をして天下の大分限者といわしめただけの強大な影響力を推し量ることができる。

その建長寺には、瑞賢没後70年近くたってから江戸日本橋の本屋から寄進された「蒔絵長柄文台」がある。治水工事で掘り出された旧の長柄橋の古い橋杭で作ったものとされ、瑞賢と淀川治水との関係が当時世に広く知られていたことがうかがわれる。

長柄の橋杭の逸話は、実は大阪にもある。淀川区東三国の長柄の人柱ゆかりの大願寺寺宝「浪速の笑い地蔵」がそれである。寛仁3年(1019)、後一条天皇の勅命によって大仏師定朝が長柄橋に用いた橋杭で彫ったものと伝わり、大切に保存されている。瑞賢が、蔭凉寺創建や淀川治水に当たって大坂に足を踏み入れたとき、この地蔵菩薩に静かに手をあわせたかもしれない。


安治川底を歩いて渡る

 ― 河村瑞賢紀功碑へ

蔭凉寺創建から23年後、瑞賢が行った安治川開削により九条島は分断され、九条の地名は現在では西区(九条南)と此花区(西九条)と区を跨ぎ、その二つの地区を川底に設けられた安治川トンネルがつないでいる。西九条側の入口からひんやりしたトンネルを歩いて渡り対岸の出口を出て5分、小さな三角公園に瑞賢の偉業を顕彰する大きな石碑が立っている。「正五位河村瑞賢功碑」と刻まれ、その近くには埋め立てられた「古川跡」の碑も隠れるようにしてひっそりと立つ。


近世大坂から現代の大阪へ

 ― 安治川とその沿岸の変貌

淀川治水工事から約300年余り、安治川は宮本輝の小説『泥の河』のモデルになり、高度成長の過程で汚濁にまみれていった。しかし、近年は水質改善が進み、沿岸にはかつての工場・倉庫群が姿を消し、日本有数のテーマパーク「USJ」の巨大な施設と高層ホテルが林立する。さらに、安治川が大阪湾に注ぎこむ天保山には、日本有数の水族館である海遊館やマーケットプレイスのレジャー施設や大型商業施設が並び、周辺の開発が進んでいる。安治川とその沿岸は、瑞賢の船運の航路への展開に始まり、260年余を経て、戦後復興と高度成長の残滓を流す汚水路から巨大な遊空間の形成へとまさに時代とともに大きく変貌を遂げてきたといえる。


没後300年(1999年)

 ― 国を拓いた瑞賢の軌跡

瑞賢没後300年を記念して平成11年(1999)9月、枚方市にある淀川資料館でささやかな企画展が開催された。その3か月前、鎌倉市の建長寺でも土木学会による記念フォーラムが開かれ、日本全国に及んだ瑞賢の事業と足跡にゆかりのある地元から各種の発表が行われた。

瑞賢の業績を一言でいえば、江戸時代における国土開発の先駆者であり、公共事業の在り方について示唆に富み、今なおその評価は変わらない、ということである。


2016年8月

(長谷川俊彦)



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・土木学会『没後三〇〇年河村瑞賢―国を拓いたその足跡』
 ・大和川水系ミュージアムネットワーク
      『大和川付け替え三〇〇年その歴史と意義を考える』
 ・脇本祐一『豪商たちの時代』



≪施設情報≫
史蹟・顕彰碑
○ 蔭凉寺
   大阪府和泉市尾井町337
   電:0725−44−7340
   アクセス:JR阪和線「北信太駅」下車、南海バス「鶴山台四丁目」下車徒歩15分

○ 大願寺
   大阪市淀川区東三国1-4-5
   電:06−6391−2489
   アクセス:JR京都線「東淀川駅」下車、徒歩5分

○ 河村瑞賢紀功碑・古川跡碑
   大阪市西区川口4丁目
   アクセス:JR環状線「西九条駅」下車、安治川トンネルを経、徒歩15分

Copyright(C):KANSAI・OSAKA 21st Century Association