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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第30話 中 甚兵衛
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第30話 中 甚兵衛なかじんべえ(1639-1730年)

大和川付け替え工事を敢行し

中河内発展の礎を築いた社会事業家

通説によれば寛永6年(1639)、河内国今米村(現在の東大阪市)の庄屋川中九兵衛の三男として生まれた。父九兵衛は悪川である大和川の付け替えを何度も幕府に嘆願したが、志を果たせぬまま亡くなる。九兵衛の遺志を継いだ甚兵衛は責任の一切を引き受け、直接に江戸出訴を試みるなど以後40余年にわたって訴願活動を続けた。一方、大和川の付け替え予定地にあたる村々では、新しい川によって先祖伝来の家や田畑がつぶされるため、激しい反対運動や嘆願活動が起こり事業はなかなか進展しなかった。

甚兵衛を支持したのは大坂の代官万年長十郎である。万年は堤奉行も兼ね、河村瑞賢の治水工事に随行した経験もあって、甚兵衛の資料をつぶさに検討した。その結果大いに共鳴し、率先して幕府への陳情を行った。

元禄16年(1703)、幕府は大和川付替えを正式に決定し、翌年の2月27日、工事は川下にあたる堺の海側から開始される。

河州志紀郡柏原村と船橋村の中間である石川合流点付近から堺浦まで西へ真直ぐ流す、延長131町(約14km)・幅100間(約180m)の川筋を、盛り土や高台を切り開く工法で工事は進んだ。

工事区間は、幕府が費用を負担する「公儀普請」と「御手伝普請」とに分けて進められ、幕府側の担当者は大目付の大久保甚兵衛、代官の万年長十郎らで、甚兵衛も「普請御用」として現場に立った。

幕府とそれぞれの藩が競うように工事区間を分担遂行した結果、当初3年と見込まれた工事はわずか3ヶ月足らずという早さで完成した。

この付け替えによって、中河内の村民は水害を免れ、鴻池新田をはじめ1,060町歩(約1,050ha)の新田が続々と開発された。農業が盛んになり中河内は全国一の綿作地帯として大発展を遂げる。

一方、付け替え後の大和川の南の村々では降雨ごとに新堤防のため悪水を排水できず、災害から逃れることはできなかった。

甚兵衛は、付け替え完成の翌年仏門に入り「乗久」と名乗り、ひたすら信仰に生きて、享保15年(1730)9月、91歳の天寿を全うする。


大和川―その源流から河口まで

大和川の源流から河口付近まで68kmをたどってみた。新大阪駅から高速バスで約2時間、「針IC」駅に到着。ここから徒歩で旧都祁村(つげむら:現在は奈良市)に入る。笠置山系に位置する旧都祁村は、大和高原の中心地で早くから人が住みつき文明が開けた地域で、三陵墓西古墳などの遺跡が点在する。古くから伊勢や伊賀に通じる交通の要衝でもあり、名阪国道と国道369号線が交差する地点にある針ICに併設された「道の駅」は、多くの観光客で賑わっていた。また「針テラス情報館」では、都祁地域の歴史展示が常設されている。この都祁の山々のせせらぎから大和川はスタートする。

旧都祁村から発した大和川の流れは、初瀬ダムを経由、牡丹寺として有名な長谷寺(桜井市)の側を通過し三輪山付近を通過する。このあたりでは「初瀬川」と呼ばれ、川幅は狭く、長谷寺に向かう参道の家並みの向うから流れ下る水音が勢いよく聞こえてくる。

田原本町を北へ向かった大和川は大和郡山で佐保川と合流、西に蛇行して王寺町に入る。JR大和路線の車窓から手に取るように見える。

奈良盆地での大和川の水害は少なくなく、昭和57年(1982)8月の台風10号によって大和川支流葛下川(かつげがわ)が氾濫し、王寺駅一帯が長期間水没したことは強烈な記憶として未だに残っている。

王寺を過ぎ三郷町に入ると、いよいよ奈良県と大阪府境であり、地滑り地帯でもある「亀の瀬」に向かう。長年にわたる亀の瀬の地滑り対策の主な工事は平成23年(2011)に完工し、峡谷の斜面は敷き詰められたコンクリートで白く光っている。大和川は河内と大和を結ぶ重要な水運の経路であったが、亀の瀬は浅瀬で流れが速く、江戸時代はここで荷を積み替えそれぞれの目的地奈良・大坂へと向かったという。

亀の瀬を過ぎると大和川は大阪府柏原市国分を抜け、和歌山県に接する河内長野市蔵王峠(ざおうとうげ)に源を発する石川との合流地点に到達する。源流から約50km。この合流地点が付け替えの起点となって大和川は亀の瀬とは打って変わり、川幅は200m近くで緩やかな傾斜の堤防の間をゆっくりと流れる。整備された堤防下の河川敷は市民の憩いの場だ。

柏原市役所庁舎からほど近くの「築留(つきどめ)治水公園」には、大和川治水に関る功労者や事業の顕彰碑がたち並んでいる。その中で一際目立つのが「大和川付替三百年記念碑」と「中甚兵衛像」である。工事請負人姿の甚兵衛が左手に図面を持ち、右手の指は付け替え地点を差し示していた。

大和川付け替え完成後、旧大和川跡の新田に農業用水を供給するため取水樋門が設けられ、旧河道には長瀬川と玉串川という水路が造られた。人工の長瀬川は、今では国土交通省選定の「日本の疎水百選」の一つになっている。

また、治水公園の裏手の築留土地改良区には、明治40年(1907)に改造されたアーチ形でレンガの「築留二番樋」があり、大和川の水が今も勢いよく流れ込んでいる。

付け替え地点から西へ約18km、大和川は堺市三国ヶ丘付近で大阪平野の壁となっている上町台地の南端を迂回し大阪湾に注ぐ。

大和川に架かる鉄道橋を通過する近鉄南大阪線や阪堺鉄道線の車窓からは、上流両岸の随所で堤防工事が行われているのがよく見える。国交省大和川河川事務所に尋ねると、大和川整備計画の一環として行っている事業で、低い堤防を嵩上げする築堤や痩せてきた堤防の補強工事とのこと。さらに先の河口付近の左岸は「大阪府道高速大和川線事業」と一体化して進める「高規格堤防」の工事も行っており、市街地側に緩やかな傾斜をつけ長さ約3km、幅200~300mの堤防を造成するという。

大和川と人間とのたたかいを乗り超える新たな融和への努力が続けられていた。


大和川と上町台地・河内平野

大和川が大和・河内の河川を合流して河内平野を北に向かうのは、西方で大阪湾との間に立ちふさがる上町台地の存在と、大和川が標高の高い位置を流れるため。換言すれば、河内平野の海抜が低いという地形的特性による。この特性は、河内平野(大阪平野)が大和川や淀川の度重なる氾濫によって形成された低地盤の沖積平野であることによるといわれる。新大和川河口から13km地点での大阪平野の南北断面図を参照すると、地形的特性がはっきり出ているのが分かる。


先駆者・和気清麻呂の付け替え工事の痕跡

8世紀後半、和気清麻呂(わけのきよまろ)が大和川の支流の平野川を大坂湾へ流す付け替え工事に着手した。しかし、上町台地の壁に阻まれ結局完成に至らなかったとされる古事がある。天王寺公園に隣接する茶臼山の「川底池」はその工事の名残とされ、池に架かる橋の名は清麻呂に因んで「和気橋」と名付けられている。

天王寺公園を出て谷町筋を北へ数分歩くと、右手に「堀越神社」がある。たまたま居合わせた転勤間もない宮司に神社名の由来をお聞きすると「昔、この社に参るのに堀を渡って来たところからその名がついた」そうである。その堀こそ清麻呂の工事の名残ではないかと尋ねたが、定かではないとの答えが返ってきた。

「堀越神社」の場所から東側一帯に、「堀」と名のつく地名が多い。「堀越町」「北河堀町」「北河堀町」。近鉄阿部野橋駅から出発して一つ目の駅は「河堀口(こぼれぐち)」である。駅前の本屋「河堀口書店」の女性店主に「河堀口」の由来を尋ねたが「皆目分からない」との答え。本屋の住所は天王寺町なので、出版社に本を送ってもらうときは、「こぼれぐち」では通じないため「かわほりくち」と言って注文するのだそうだ。件の店主に「近鉄の駅員さんに聞いたらどうですか」と親切にアドバイスをもらった。

知る訳はないと思いつつ、河堀口駅に戻って駅員に聞いてみたら、意外な返事が返ってきた。昔、駅の利用客が、わざわざ新聞の切り抜きをもってきて河堀口の由来を説明したとのこと。いわく「愚痴をこぼす」から「コボレグチ」になった。まさか!?


測地図は驚異の精度であった!

付け替え工事(当時は「川違え」と言った)の設計図は甚兵衛が作成したと伝えられている。現存する付け替え測地図について、国交省大和川河川事務所の専門家は、「わずか数センチの勾配を読み込んであれだけ高低差の少ない地域に河道を設計したことは、当時の測量技術や道具ではおよそ考えられない」と舌を巻いておられた。

距離や方位を測る器具は古代から出現している。2点の傾斜を測る器具(水準器)も大工道具の一つとしてあった。しかし、20km近くの高低差を測る器具は、大坂の天文学の開祖麻田剛立や高橋至時、間重富を経て伊能忠敬らの登場をまたなければならない。それを遡る100年前に河内の庄屋が一体どうやって測量の知識を学びどのような測量器具を用いたのかは解明できていないという。甚兵衛は、おそらく、実地踏査を何度も行い試行錯誤しながら設計図を描き重ねていったのであろう。甚兵衛のその執念や恐るべし。


甚兵衛出生の地

大阪市営地下鉄中央線「吉田駅」を降りて北に行くと、すぐ東大阪市今米に入る。ここには甚兵衛出生地と言われる場所が二つある。

一つは、通説で庄屋川中九兵衛の三男として生まれたと言われる家。これは「中甚兵衛翁碑」から近い場所に現存している。

もう一つは、甚兵衛から数えて十代目にあたる中九兵衛(中好幸)氏が示す屋敷地跡。甚兵衛と父九兵衛との関係についても、同氏は中家に伝わる古文書に照らして通説には誤りが多いと指摘されている。

柏原市立歴史資料館には、この中家伝来の古文書等が保管されている。同館の北野氏は、「中家文書は、歴史的価値が高く、同氏に対し大阪府・市などから買取りの要請があったものの、それを断り甚兵衛の付け替えと縁の深い土地である柏原市に全てを寄託された」と語る。

川中家の当主川中知子氏によれば、甚兵衛が持ち歩いたとされる「河内扇」や「大和川付替成就御礼之画像」などの資料を大阪府公文書館に寄託したという。

吉田駅近くの今米公園(旧今米春日神社跡)に、巨大な「贈従五位中甚兵衛翁碑」があり、ここから北へ歩くと川中家屋敷がある。さらに路地を進むと「中家屋敷跡」と印された表示が立っている。

今米は甚兵衛が長じて庄屋となった村でもある。この村を流れていた大和川の支流玉串川から分かれた吉田川が度々決壊し、低湿地帯にあった村は大きな被害を受けていた。父九兵衛とともに大和川付け替えを発案するきっかけとなった場所でもある。

写真にある坂道の向うの道路が旧吉田川河道。この坂道は昔の堤防の跡。坂道の傾斜が付け替え前の昔の堤防の高さである。近辺の井戸は、今でも地下に流れる旧吉田川の伏流水が得られるという。


付け替えの明暗

甚兵衛の大和川付け替え完成後、北河内地方は災害の抑制と新田開発によって目覚ましい発展を遂げ、商都大坂のバックボーンを形成した。大和川旧川筋や新開池などで開発された新田は5年後には1050haにおよび、新田から得られる地代は幕府が投じた工事費用を十分回収できる額であった。また、開発された新田の面積は、付け替えによって失われた270haの家や田畑の面積を大きく上回った。

新田経営には甚兵衛のような農家のほかに、大坂の豪商も進出した。そのうち最大の鴻池新田は、両替商鴻池善右衛門宗利の手によるものである。JR学研都市線「鴻池新田駅」から南東へ徒歩5分の場所に、新田経営・管理の拠点として使用された「鴻池新田会所」が復元・保存されている。1万平方メートルを超える敷地に本屋の他に庭園や各種の蔵などが並ぶ江戸中期の雄大な古建造物で、鴻池家の強大な財力や支配力を窺い知るに十分である。

また、JR大和路線「八尾駅」から南東へ徒歩3分の場所には、「安中新田会所」屋敷の跡を継承したといわれる「旧植田家住宅」がある。主屋と土蔵は当時の姿を留めていて、訪問したときは河内木綿展を開催していた。新田一帯は砂地で米の栽培に適さなかったため、農家は木綿栽培に取り組んだ。ここ八尾の地で生産された綿「河内木綿」も、集散地である平野郷を通じて全国に出荷されていった。


負の遺産

大和川付け替え工事による成果があがる一方、地勢の分断による新たな災害が発生した。西除川と東除川が新川によって分断されたため、左岸の排水が機能せず出水を引き起こしたのである。これは当初反対派が懸念していたことでもあった。

また、地域が新川で分断されたことにより、信仰を含む集落の日常の営みや人間関係が混乱した。現在の地図をよく見ると大和川流域の市や区の境界線が川の中央部にあったり、対岸まで領域が飛び出していたりして地域が川によって割かれた状況が分かる。親戚縁者が川の両岸に分かれたり、寺社の信徒や氏子が割かれたりした。当時、住吉大社の広大な社領があった住吉郡は、大坂方面と堺方面に分断されたため、大社の社領は川を挟んで分かれる異常な形になった。

新川が都市の中枢機能を破壊することも起こった。日本の歴史上大きな役割を担ってきた港湾都市堺は、大和川が運ぶ大量の土砂で港が埋まった結果、新田が次々とできていったものの、本来の港の機能が次第に損なわれていったのである。(大和川河口の変遷図参照)

これらは大和川付け替えの「明暗」の「暗」が明確に表れた例と言える。


「日本で一番汚い川」からの脱皮

大阪人の多くは、今の大和川の川筋は昔からあったと思っている。実は300年以上前に付け替えられた人工の川と聞けば「えー! ホンマに?」と驚くことであろう。筆者もその一人であった。

昭和40年代(1965~1974)、大和川は流域の急速な都市開発と産業発展に対応する排水対策が不足した結果、水質が極度に悪化し、堺市で上水道の取水を一時制限する事態に陥り、長らく「日本一汚い川」というレッテルが付されてきた。その後、水質に関する環境基準が法定化され、流域の奈良県、大阪府各市町村の地道な努力によって徐々に改善し、大和川水環境協議会や大和川河川事務所が実施する生き物観察会などの大和川流域活動には多くの子供たちも参加し、今ではアユやニホンウナギも採れる川になっている。

古代から現代まで1300年にわたり、大和川は淀川と並び大阪人と切っても切れない縁で結ばれている。和気清麻呂の着手にはじまり河村瑞賢そして中甚兵衛の付け替えの歴史を見ても、流域住民の日常生活と一体の存在であることは明らかだ。この関係は将来も途切れることなく続いて行くことを思うと、甚兵衛の事業の仕上げは、大和川に対する後世の大阪府民の関心と積極的行動に託されている。


2016年8月

(長谷川俊彦)



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・三善貞司『大阪人物辞典』
 ・西田一彦監修・山野寿男・玉野冨雄・北川央編『大和川付替えと流域環境の変遷』
 ・大和川水系ミュージアムネットワーク編
     『大和川付け替え三〇〇年 その歴史と意義を考える』
 ・柏原市教育委員会『河内柏原見聞録』
 ・柏原市役所『大和川付替え物語』
 ・中 好幸『大和川付替・改流ノート』
 ・中 九兵衛『甚兵衛と大和川』
 ・中 九兵衛『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日 何の日』
 ・中 九兵衛『ジュニア版 甚兵衛と大和川
         小学四年生の大和川授業・甚兵衛ものがたり』
 ・国交省近畿地方整備局大和川河川事務所発行パンフレット



≪施設情報≫ 史蹟・顕彰碑など
○ 針テラス情報館
   電:0743-82-5633
   アクセス:名阪国道針インターチェンジ内

○ 長谷寺
   奈良県桜井市初瀬731-1
   電:0744-47-7001
   アクセス:近鉄大阪線「長谷寺駅」下車、北東へ徒歩15分

○ 築留治水公園・築留土地改良区・大和川付替え地点
   アクセス:近鉄大阪線「安堂駅」下車、西南へ徒歩3分

○ 国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所
   大阪府藤井寺市川北3丁目8番33号
   電:072-971-1381
   アクセス:JR大和路線「柏原駅」下車、西南へ徒歩10分

○ 川底池
   アクセス:大阪市営地下鉄谷町線「天王寺駅」下車、北へ徒歩10分

○ 堀越神社
   大阪市天王寺区茶臼山町1-8
   電:06-6771-9072
   アクセス:大阪市営地下鉄谷町線「天王寺駅」下車、北へ徒歩5分

○ 中甚兵衛翁碑
   アクセス:大阪市営地下鉄中央線「吉田駅」下車、北へ徒歩1分

○ 中家屋敷跡碑
   アクセス:大阪市営地下鉄中央線「吉田駅」下車、北へ徒歩7分

○ 鴻池新田会所跡
   大阪府東大阪市鴻池元町2-30
   電:06-6745-6409
   アクセス:JR学研都市線「鴻池新田駅」下車、南東へ徒歩5分

○ 旧植田家住宅
   八尾市植松町1丁目1番地の25
   電:072-992-5311
   アクセス:JR大和路線「八尾駅」下車、南東へ徒歩3分

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