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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第16話 安井道頓やすいどうとん(1533-1615年)

ミナミの名所「道頓堀」を造った男

安井道頓は、本名を安井成安、通称は市右衛門という。出身は大阪河内とも摂津国平野郷ともいわれている。剃髪後に道頓と名乗った。戦国時代から江戸初期にかけて活躍した商人である。

代々、河内の久宝寺城に住み、大坂城築城の折に外堀の掘削や猫間川の整備工事などを担当した。豊臣秀吉からその褒美として、現在の道頓堀一帯の城南の地20万坪を下賜されたといわれている。

慶長17年(1612)、安井道頓は私財を投じて当地の都市計画を立案。拝領した土地を繁栄させるためには水路が必要だと考え、豊臣秀吉に願い出て、大坂城の外堀である東横堀川から木津川を結ぶ運河を掘削した。これが後の道頓堀川である。だが、工事半ばで大阪の陣が勃発してしまう。豊臣家に恩義を感じる安井道頓は、80歳という老齢ながら大坂城へ入城した。しかし、大軍を率いる徳川家康は大坂城外堀を和平工作で埋め立て、さらに夏の陣でも大兵力で城を包囲する。とうとう安井道頓が立て籠もる大坂城は攻め落とされ、この時に道頓は自害してしまう。

その後、工事途中だった堀の開発は、従弟の安井道卜と平野藤次らが江戸幕府から許可をもらい引き継ぐ。大坂の陣の終了からわずか半年後の慶長17年(1615)11月、東横堀川から水を引き、木津川に通じる32町11間余りの運河が完成した。徳川政権下で大坂城の初代城主となっていた松平忠明は、この堀の名前を初代掘削者である安井道頓にちなむ「道頓堀」とすることを許可した。

道頓の従弟の安井道卜は南船場にあった芝居町を堀の南側に移転させることで、浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の道頓堀五座などの反映の礎を築いた。大坂が芝居の本場として定着し、歌舞伎や人形浄瑠璃などの興業が盛んに行われたという。さらに芝居見物の客の胃袋を満たすための料理屋も多数建ち並び、食い倒れの街としての下地ができるのだ。

なお当時の書状には「成安道頓」の文字もあり、安井氏ではなく成安氏ではなかったかという説や、安井道頓自体が実在しなかったのではという架空人物説もある。


残念石で建立された紀功碑

紀功碑建立のきっかけは、大正3年(1915)に天皇陛下が大阪を行幸した際のことである。行幸地にゆかりのある人物に贈位が行われるのが慣例で、この時も、楠木正季、楠木正時、住友友芳など歴史上の偉人らと共に、安井道頓、安井道卜にも従五位が贈られた。

その記念として、翌年の大正4年(1916)に道頓堀の近くに石碑が建立されることになったのだ。発起人は明治維新の元勲・大久保利通の三男で大阪府知事であった大久保利武である。場所は島之内・日本橋の北詰交差点の北東の広場に決まった。道頓堀を開発した安井道卜一族は、大阪南組の惣年寄を代々務めていた。実際にこの場所に安井氏の屋敷があったといわれている。

この石碑の素材には、西日本各地にある「残念石」が使われている。大坂城築城の際に巨大な石が運ばれたが、当時の輸送技術は未熟であったために、そのいくつかは大坂にたどり着くことができず、「残念石」と呼ばれていたのだ。

大坂城ゆかりの素材でできた石碑は、今も日本橋北詰めの交差点にある。見上げるように大きな石碑のサイズは高さ約3m、幅約1mほどはあるだろうか。安井道頓・道卜の業績が顕彰文として刻まれている。その文章は大阪朝日新聞の主筆でコラム『天声人語』の名づけ親としても知られている西村天囚(時彦)によるもので、多くの碑文を手がけた西村天囚のものでも、とりわけ美文であるといわれている。

じつはこの紀功碑、危うく姿を消すところだった。ひび割れや風化で崩落の危険があると、平成25年(2013)に大阪市が取り壊しを決めていたのだ。これに対して地元の商店会や町会が保存運動を展開し、修復したのであった。翌26年(2014)7月12日の修復記念除幕式には、上方落語や国立文楽劇場の重鎮に加え、平成27年(2015)の道頓堀川開削400年に向けて修復に尽力した大阪ミナミ400年祭実行委員会や道頓堀商店会などの関係者が、「次の100年に向けて残すことができた」と喜びあった。


道頓堀五座跡

もともと道頓堀のあった場所は沼地であったという。戦国時代は石山本願寺が大坂城に立て籠もり、織田信長に抵抗した。『摂津名所図絵大成』によれば、「この地のすべて泥土にて馬の足立ちがたく水陸ともに要害の地たり、天正五年織田信長石山本願寺と争戦の時石山方より塁を築くところ」とある。

この沼地に水路を掘削し、人々が集う場所とするために安井道頓の甥の安井道卜がとったのが、当時、南船場にあった芝居小屋を移転させることであった。その結果、道頓堀の南側に芝居小屋が並び、承応2年(1653)に芝居名代五棟が公認される。この頃から、歌舞伎や義太夫、見世物などが盛んになるのだ。五座の櫓が建つようすから、「櫓町」や「芝居町」と称されるようになった。

芝居名代の五座は、それぞれ浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座という。南蛮人も驚いたというからくり芝居で名を馳せた弁天座、大芝居と呼ばれる高い格式をほこった角座や中座などの他にも、近松門左衛門が竹本義太夫とコンビを組んだ心中物で大人気となった竹本座(1684年)などがしのぎをけずり、大坂に訪れる人々を楽しませた。こうして、なにわのブロードウェイと呼ばれるほどの盛況を見せることになる。

芝居小屋の経営者たちは安井一族に敬意を払い、彼らが訪れた時のために桟敷一間を必ず用意していたという。訪れない時も席を開けておくのは芝居小屋の営業を妨げると思ったのか、寛文5年(1665)に安井九兵衛が出した文書には、「安井一族が観覧しない場合は席を売ることを許可する」という内容が書かれている。

平成26年(2014)には、近松門左衛門や竹本義太夫が活躍した竹本座跡の石碑にパネルを設置し、当時の様子を伝えている。


三津寺墓地と道頓堀裁判

道頓堀を開削した安井道頓、道卜の供養墓は、道頓堀からほど近い千日前通りの三津寺にある。墓石に「贈従五位 安井道頓居士」「贈従五位 安井道卜居士」と刻まれているので、大正天皇の行幸以降に建てられたもののようだ。

昭和40年(1965)1月に、安井道卜の12代目にあたる子孫が国や大阪府、大阪市を相手どり裁判を起こした。きっかけは、大阪市が道頓堀川の河川改修工事を計画したことだ。当時は飲食店や川の中で営業する「かき船」からの汚水・雑用水が直接道頓堀川に流れ悪臭を放っていた。また、地盤沈下や高潮時による浸水の問題も危惧されていた。それらの対策のために大規模な下水道整備と護岸工事が計画され、莫大な整備費用は、川の両側を埋め立てて分譲することで捻出することとなった。これに対して安井道卜の子孫が、道頓堀川の川底の所有権を主張し、道頓堀川の河川敷地の現状変更の工事の禁止などを求めたのである。

裁判は11年もの期間にわたり争われ、昭和51(1976)年10月19日に判決が言い渡された。原告である安井家の請求は棄却されたが、裁判官は道頓堀が安井道頓・道卜らの一族の努力によって開削されたことを認め、道頓堀繁栄の礎を築いた功績はまことに大きいと評価したのだ。原告の安井一族は裁判官の言葉に「お金ではなく先祖の功績が認められて満足です」と語り、控訴を取りやめたという。

戦国時代の土地所有権を巡るユニークな裁判は、私費を投じて掘削した安井一族の業績を再評価するきっかけにもなった。三津寺の墓地に眠る安井道頓・道卜も、この裁判長の言葉に子孫たち同様に満足を覚えたのではないだろうか。


TORII HALL館長 弘昌寺住職 鳥居弘昌(俗名:鳥居学)氏

道頓堀のTORII HALL館長鳥居氏は、大阪で芸能に携わる人々を小さいころから見続けてきた。実家は道頓堀五座のひとつ角座の裏で旅館「上方」を営業し、松本幸四郎、桂米朝や立川談志など歌舞伎や落語などの芸人がよく利用していたという。

そんな鳥居氏は、道頓堀の歴史を調べてみると様々な発見があるという。大坂の陣の後に千日前に建立された竹林寺の当時の過去帳に記された名前には、元キリシタンであることを示す記述が多くあったという。キリスト教を弾圧する徳川家に対抗するため、多くのキリシタンが大坂城に入城し豊臣方に味方した。しかし、敗戦により彼らは棄教する。西洋の土木技術を持つ元キリシタンたちが、道頓堀掘削などの難工事に活躍したのではないかと鳥居氏は推測している。

調査研究だけでなく、鳥居氏は道頓堀の文化や伝統を守ることにも様々な取り組みをしている。1991年に旅館「上方」を、桂米朝氏の「若手落語家を育てる場をつくってほしい」との声に応えて、TORII HALLとして生まれ変わらせた。落語や漫才、コントなど、さまざまな芸能を発信するホールとして活用している。安井一族が掘削し、芝居小屋を集め、人形浄瑠璃を完成させた道頓堀こそが、日本文化の原点という思いがあるからだ。平成18年(2006)には、道頓堀の芸能の発展を願いTORII HALLの敷地内に芸能の神である天河弁財天を勧請した。

さらに近年、竹林寺などの道頓堀に古くからある寺が移転廃寺となっている現状を目の当たりにした鳥居氏は、道頓堀掘削の難工事の犠牲者や刑場で散った人々の霊を慰めるために、得度することを決意。平成24年(2012)には、千日前に弘昌寺を建立した。安井道頓が築き近松門左衛門らが発展させた文化を、次代へと受け継ごうと今も奮闘している。

2016年4月

(木下昌輝)



≪参考文献≫
 ・牧英正『道頓堀裁判』岩波書店



≪施設情報≫
○ TORII HALL(トリイホール)、天河弁財天
   大阪市中央区千日前1-7-11 上方ビル4F
   電:06-6211-2506
   アクセス:地下鉄御堂筋線、千日前線「なんば」駅
       地下鉄千日前線、堺筋線「日本橋」駅
       近鉄難波線、阪神なんば線「大阪難波」駅
       南海本線「難波」駅
       JR関西本線「JR難波」駅
        各駅下車、なんばウォークB20出口より徒歩2分

○ 弘昌寺
   大阪市中央区千日前1-7-23
   電:06-6211-7819
   アクセス:地下鉄御堂筋線、千日前線「なんば」駅
       地下鉄千日前線、堺筋線「日本橋」駅
       近鉄難波線、阪神なんば線「大阪難波」駅
       南海本線「難波」駅
       JR関西本線「JR難波」駅
        各駅下車、なんばウォークB20出口より徒歩2分

○ 贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑
   大阪市中央区日本橋北詰
   アクセス:地下鉄堺筋線、千日前線「日本橋」駅2番出口から徒歩3分
       近鉄「日本橋」駅B28出口から徒歩4分

○ 三津寺
   大阪市中央区心斎橋筋2-7-12
   電:06-6211−1982
   アクセス:地下鉄御堂筋線、千日前線「なんば」駅
       地下鉄千日前線、堺筋線「日本橋」駅
       近鉄阪神なんば線・難波線「大阪難波」駅
       南海本線「難波」駅
       JR関西本線「JR難波」駅 より徒歩3分

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