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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第8話 住友友以すみともとももち(1607年-1662年)

産業都市「大坂」発展の礎を築く

住友の歴史を遡ると、3人の人物に行き着く。涅槃(ねはん)宗の指導者だった住友家初代の政友(1585-1652)と銅精錬の新技術を開発した蘇我理右衛門(1572-1636)、理右衛門の長男で住友家2代目の住友友以(とももち)だ。友以は政友の婿養子となり、「銅の住友」と海外に知られた「泉屋住友家」を興し、400年続く住友グループの事業基盤を築いた。

友以の実父、理右衛門は河内五条(東大阪市)で生まれた。堺で銅精錬を修業し、京都寺町通り松原下る西側で銅吹屋を開く。理右衛門は慶長年間に「南蛮吹き」と呼ぶ銀銅吹き分けの画期的な技術を開発したといわれ、豊臣家が建立した方広寺(京都市東山区)の大仏の銅を供出するなど銅精錬の有力者となった。屋号は「泉屋」で、商標はいまに続く菱井桁を使った。住友では理右衛門が京都で開業した1590年を「事業の始まり」としている。

友以の義父にあたる住友家初代の政友は、越前丸岡の武士の家に生まれた。12歳の時に上京し、涅槃宗の開祖・空源に帰依した。政友は空源の片腕となり、門下筆頭のリーダーとなった。ところが、豊臣家の滅亡と庇護してきた後陽成天皇が亡くなり、各宗派から涅槃宗への攻撃が激化した。江戸幕府による宗教統制の強化で、政友は下総佐倉に配流となった。

政友は還俗し、京都に戻って薬の販売や出版を手がけた。政友が家人に出した書状「文殊院旨意書」に「何事も相手の身を思いやり、心をこめてなさるように」などと商売の心得が説かれており、これが住友の事業精神の源流となっている。

友以は15歳のころ、実父と同じ銅精錬の道に進み、京都で銅吹所を開業した。元和9年(1623)、徳川秀忠が大坂城再建に乗り出すのに合わせて大坂に進出し、内淡路町に銅吹所を開設した。寛永7年(1630)には本店を京都から大坂に移し、寛永13年(1636)に長堀に吹所を新設、銅貿易、銅鉱山業、輸入業と事業を拡大した。寛永14年(1637)、幕府に銅貿易を禁止されると、業界の中心となって解禁運動に奔走するなど、産業都市・大坂の発展に力を尽くした。友以の名前はオランダ側の記録に「もっとも有力な銅商人の一人」と残されている。


17世紀、日本の産銅高は世界一

銅は古代から鏡などの装飾品、仏像、仏具、銅銭として利用され、16世紀には真鍮として鉄砲の部品やキセルにも使われた。熱伝導の良い鍋や薬缶は輸出品になった。さらに船の装飾品や橋の擬宝珠(ぎぼし)などにも用途が広がった。また、銅は外国から輸入する生糸や絹織物、薬種、砂糖などの貴重な海外との交易品だった。

長堀銅吹所には国内各地の銅山から半製品の荒銅が大坂の河口で川船に積み替えられて運び込まれた。元禄4年(1691)には住友グループの「母なる銅山」、別子銅山が開坑し、日本の産銅高は17世紀末に6千トンを記録して世界一となった。この4分の1を別子銅が占め、長堀銅吹所の製品・棹銅は、長崎からオランダ、中国を経て東南アジアからインド、ヨーロッパまで送られた。アダム・スミスの「国富論」(1776年刊)にも日本の銅の記述があるように世界の銅相場に影響を与えた。


フィールドノート

かけがえのない文化遺産「住友銅吹所跡」

長堀通と東横堀川が交わる末吉橋南西の史跡公園に「住友銅吹所跡」の碑がある。東西横堀川と長堀、道頓堀に囲まれた「島之内」の北東角にあたる。友以が水運と精錬に必要な水の確保が容易なこの一画に着目し、吹所用地として購入した。その後も住友家が2度にわたり敷地を広げて江戸中期には「住友の浜」と呼ばれ、明治までここに本店、居宅を構えた。

史跡公園に銅吹きの小型炉や明治期の洋館風ビリヤード場が残る。西隣の三井住友銀行事務センター北側の壁面には、昭和初期の住友鰻谷邸の写真や住友が19世紀初期に刊行した「鼓銅図録」の一部が展示されている。銅吹所の作業の様子を詳しく描いたこの図録は、江戸時代の鉱業技術書として技術水準、美しさで第一級の書物と言われている。住友は銅吹所を視察したオランダ商館長や幕府高官に贈呈し、オランダ・ライデン国立民族学博物館のシーボルトコレクションにも現存する。

住友銀行は平成元年(1989)、ここに事務センターの建設を計画。翌年5月から大阪市教育委員会と大阪市文化財協会が緊急調査に着手した。同年10月の中間報告を受けて日本産業技術史学会と産業考古学会は住友銀行に「旧住友銅吹所の活動は住友家の経済、産業活動を支えたのみではなく、近世日本における金属精錬技術の水準の高さを如実にみせるものであったことをこの遺構は十分に物語っております」「かけがえのない文化遺産の保存と活用をお願いする」とした要望書を提出、発掘調査後に史跡公園として整備された。

幕末の絵図によると、長堀銅吹所は管理棟が1棟、銅を入れる土蔵5棟などがあり、精錬設備として吹床が24あった。山元から持ち込まれた品位90%台の荒銅を溶かし、銀や不純物を分離し、品位99%まで精錬し、輸出用の棹銅や国内向けの型銅に鋳造した。長堀銅吹所の精錬は明治9年(1876)まで240年間に及んだ。


住友友以が眠る久本寺

友以の墓は長堀銅吹所から南東1.2㎞、上町台地の谷町筋に面した久本寺にある。本門法華宗の寺院で、大坂冬の陣、夏の陣のあと、寛永6年(1629)に大坂の両替商・天王寺屋五兵衛が中心になって本堂が創建された。客殿や庫裏なども17世紀中頃に建立され、第二次大戦の戦火を免れ、いまも創建当時の伽藍を維持している。

友以は、13歳のときに両親が信仰した涅槃宗が解散となり、涅槃宗に近い浄土宗、法華宗と関わりを持った。友以の後妻となった亀は涅槃宗の信者の一家で育ったが、法華宗の熱心な信者となり、友以を久本寺に埋葬した。友以の三回忌に息子の吉左衛門友信らが久本寺に祖師堂を建立した。友以を囲むように亀と友信、弟の友貞、四代友芳の墓が残っている。「吉左衛門」という通称は友以の子の3代目友信から代々使うようになった。


大阪に根付く住友の遺産

住友は、幕末・明治の動乱期に別子銅山が土佐藩に接収されるなど経営危機に陥った。後の総理事になる広瀬宰平が新政府と掛け合って住友の経営権を認めさせ、銅山の近代化をはかった。合わせて外部から人材を登用して経営体制を整えるなど事業の再構築を行った。こんな中で明治中期、「文殊院旨意書」から続く家訓、家風を集大成し、組織の近代化に向けて「家法」を整えた。「信用を重んじ、確実を旨とする」「浮利(ふり)に趨(はし)らず」「自利利他公私一如」などで、それがいまに続く住友の事業精神となった。

社会への貢献という事業精神の具体化の一つが明治37年(1904)に大阪府に寄贈した大阪図書館(現大阪府立中之島図書館)といえる。15代当主・吉左衛門友純(ともいと)が建築費15万円と図書購入基金5万円を全額負担した。友純は開館式で「住友家は代々大阪に居住して、長く恩恵を受けてきた。それに報いるため、とくに力を公共の事業に用いたいと日ごろ思っていた」と挨拶した。中之島図書館の中央ホールには「我が大阪は関西の雄府にして、人口百万、財豊かに物殷(さか)んにして、諸学競い興る」と刻まれた銅板「建館寄付記」がかかる。

さらに友純は大正10年(1921)に大阪市が美術館用地の確保に困っているのを聞き、住友家本邸があった茶臼山一帯(約6ha、大阪市立美術館、天王寺公園慶沢園)を大阪市に寄贈している。

戦後は住友本社がGHQの命令によって解散となり、住友家と住友各社の資本関係はなくなった。しかし、昭和26年(1951)に主だった企業12社の社長が集まり、社長会が発足し、昭和40年(1965)から住友家の先祖を祀る祠堂祭に参列している。昭和55年(1980)にはグループ各社が資金協力して旧安宅産業が収集した美術品「安宅コレクション」を大阪市に寄贈、昭和57年(1982)に大阪市立東洋陶磁美術館として開館した。

平成13年(2001)には大阪歴史博物館の開館に合わせ、住友グループ各社が協力して江戸末期の長堀銅吹所を復元した20分の1の模型を製作、展示している。大阪市教育委員会が住友銅吹所跡を発掘調査した後、住友グループから大阪市に銅の博物館を寄贈したいとの希望があったが、大阪市が歴史博物館建設の構想を進める中で、類例のない近世の産業遺跡として同館への展示が決まり、開館以来、このコーナーは目玉の一つとなっている。

現在、住友グループとして広報委員会に参加しているのは33社になる。共同で「住友グループ広報委員会」というホームページを開設しているほか、分野毎に担当者が定期的に集まって情報交換などをしている。

2017年6月
(2017年11月改訂)

宇澤俊記



≪参考文献≫
 ・住友史料館編集『住友の歴史』上、下巻
       (思文閣出版2013.8、2014.8)
 ・今井典子『住友友以』
   (大阪企業家ミュージアム関西企業家デジタルアーカイブ6、2002.3)
 ・大阪歴史博物館編集『よみがえる銅-南蛮吹きと住友銅吹所』
       (大阪歴史博物館2003.10)
 ・大阪市文化財協会編『住友銅吹所跡発掘調査報告書』
       (大阪市文化財協会1998.3)
 ・宮本又次『大阪商人』
       (講談社学術文庫2010.6)
 ・住友グループ広報委員会
       『鼓銅図録-世界レベルの江戸の技術書』(http://www.sumitomo.gr.jp/
 ・松尾信裕『住友銅吹所跡の発掘調査と近世考古学』
       (住友史料叢書『月報』25号)
 ・庄谷邦幸『住友銅吹所跡保存運動の記録』
       (桃山学院大学人間科学No35)



≪取材協力≫
○ 住友史料館



≪施設情報≫
○ 住友銅吹所跡と『鼓銅図録』のパネル
   ※『鼓銅図録』は史跡公園の西隣の三井住友銀行事務センター
     の北側の壁面に展示
   大阪市中央区島之内1丁目6番
   アクセス:地下鉄堺筋線、長堀鶴見緑地線「長堀橋駅」より東へ約300m

○ 大阪歴史博物館
   ※住友長堀銅吹所の模型は9階中世近世フロア
   大阪市中央区大手前4丁目1-32
   電:06-6946-5728
   アクセス:地下鉄谷町線、千日前線「谷町9丁目駅」より北へ250m

○ 住友友以が眠る久本寺
   大阪市中央区谷町8丁目1-34
   アクセス:地下鉄谷町線、千日前線「谷町9丁目駅」北へ約400m

○ 大阪府立中之島図書館
   大阪市北区中之島1丁目2-10
   電:06-6203-0474
   アクセス:地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」、京阪本線「淀屋橋駅」
         北東300m

○ 大阪市立東洋陶磁美術館
   大阪市北区中之島1丁目1-26
   電:06-6223-0055
   アクセス:京阪中之島線「なにわ橋駅」1号出口すぐ
       地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」北東約550m
       地下鉄堺筋線、京阪本線「北浜駅」北西約400m

○ 大阪市立美術館と慶沢園
   ※慶沢園は近代庭園の第一人者・7代目小川治兵衛の作庭で大正7年完成
   大阪市天王寺区茶臼山町1-18(天王寺公園内)
   電:06-6771-4874
   アクセス:地下鉄御堂筋線、谷町線「天王寺駅」北西角
       JRJR大阪環状線、関西本線、阪和線「天王寺駅」北西角
       近鉄南大阪線「大阪阿部野橋駅」北西角

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