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第12話 真田幸村さなだゆきむら(1567年-1615年)

秀吉の恩に報い、家康を震撼させた智将

本名は真田信繁。甲斐国(現山梨県)の武田信玄に仕えた真田昌幸の次男として生まれる。父は武田家滅亡後も独立を守り、徳川家康と互角に戦った名将であった。とはいえ真田家ほどの規模では他家との同盟は不可欠で、豊臣秀吉に臣従する。このとき幸村は人質として大坂へ送られ、大谷吉継の娘を正妻に迎えた。一方、兄の信行は徳川家の養女を娶ったため、後に兄弟は敵味方に分かれて戦うことになる。

秀吉の死後、幸村は石田三成に加勢した父とともに、家康の嫡男である秀忠の関が原への進軍を阻む。しかしこの合戦は徳川方の勝利に終わり、真田親子は紀伊国九度山(現和歌山県伊都郡九度山町)へ配流。屈辱のうちに父・昌幸は没した。

幸村が再び脚光を浴びたのは、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」。浪人大将として大坂城へ赴き、自らが築いた「真田丸」という出城で徳川の大軍と対峙した。そこで幸村は後藤又兵衛らとともに善戦するが、老獪な家康にまんまと講和に持ち込まれてしまう。このとき徳川方から幸村に、信濃一国を条件に寝返るよう説得工作があったといわれ、幸村がいかに徳川軍を苦しめたかを今に伝えている。

家康に外堀と内堀を埋め立てられた大坂城に、翌年、再び15万の軍勢が押し寄せた。「大坂夏の陣」である。籠城は不可能とみた豊臣方の諸将が野戦に打って出るなか、真田軍は「真田の赤備え」と呼ばれる真っ赤な甲冑をまとい、家康の本陣に突撃をかけた。かくして幸村は総大将を討ち取る寸前まで追い詰めたが、最後には力尽き、安居神社の境内で徳川方の刃にかかって落命。享年49であった。

恩義ある豊臣家に殉じ、少数ながら大敵・家康を苦しめた幸村の活躍は、長く民衆の間で言い伝えられ、『真田三代記』『難波戦記』などの軍記物に結実して鮮やかに人々の心に蘇った。討ち死にしたのは実は影武者で、秀頼を守って薩摩へ落ち延びたという伝説が生まれ、わらべ歌も流行した。大阪の庶民がどのようなまなざしで幸村を見つめていたかがわかる逸話である。


歴史ロマン「真田の抜け穴」

徳川家康を倒さんと豊臣秀吉の子・秀頼のもとに参じた幸村だったが、当初、武将としては無名に近い存在であった。淀殿には疎んじられ、軍議でも彼の策は嘲笑とともに退けられたほど。そんな幸村の評価が転じたのは、「大坂冬の陣」でもっとも脆弱だった城の南側の守備を命じられ、見事に大役を果たしたからである。

15万とも20万ともいわれる大軍で押し寄せる徳川勢に、幸村は「真田丸」別名「偃月城(えんげつじょう)」という半円形の砦を築いて対抗した。前田利常、井伊直孝、松平忠直ら徳川方の諸将を散々に苦しめ、多大な損害を与えたのである。ついには家康が攻撃中止を命じるほどであった。

この砦が置かれたのが、宰相山の三光神社である。創建は4世紀末という由緒を持ち、全国唯一の中風除けの神様を祀っていることでも知られる。そして三光神社といえばやはり「真田丸」だろう。生駒金剛連山を望む上町台地にあり、幸村も策を練りながら徳川勢を見下ろしていたに違いない。

この三光神社には、もうひとつ逸話がある。秀頼を密かに脱出させるために、大坂城まで地下通路が掘られたという伝説である。実際、境内には「真田の抜け穴跡」という史蹟が残っている。入口は真田の旗印である六文銭があしらわれた鉄扉で閉ざされ、隣では守護するように銅像の幸村が陣頭指揮を執っている。一説では幸村は秀頼とともに薩摩に落ち延びたとされており、大坂城陥落後には「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退きたり加護島(鹿児島)へ」というわらべ歌も流布した。この抜け穴はそのときに利用されたものなのかもしれない。

三光神社では、毎年11月の第1日曜日に「真田まつり」を開催している。この地で勝利をおさめた幸村の勝ち運にあやかろうというものだ。この日だけは「真田の抜け穴跡」も開放されるので、内部をじっくりと眺めることができる。平成27年(2015)春からは、参拝記念として、智将・幸村公のご利益を得ようと「勝守」「智守」のお守りやストラップが販売され、人気だという。

また、26年(2014)と27年(2015)は「大坂冬の陣・夏の陣」がそれぞれ400年を迎えることから、2年間にわたって『大坂の陣400年天下一祭』や『天王寺 真田幸村博』が開催された。その協賛イベントとして、2014年11月には赤備えの兜をかぶった「三光神社こども幸村隊」が、「いざ、出陣!」とばかり真田山公園や大阪城公園を練り歩き、沿道の見物人を楽しませた。


獅子奮迅の戦いを想う

野戦に望みを託した「大坂夏の陣」で、幸村は茶臼山に陣取った。前年の「大坂冬の陣」で敵の総大将・徳川家康が布陣した因縁の地である。わずか3,500兵の真田兵は、ここから越前の松平忠直が率いる1万5,000兵の隊に突撃。「大坂の陣」は言うに及ばず、戦国時代最大の激戦を繰り広げた。

現在の茶臼山は天王寺公園内にあり、通天閣を借景に、河底池でアオサギやカワセミなどの水浴びする姿が楽しめる憩いの場所。山頂まで歩道が整備されており、途中の広場には「大坂夏の陣」の布陣図や古戦場跡の看板も。当時の戦況がわかりやすく説明されている。

『天王寺 真田幸村博』の26年(2014)のプレイベントでは、ここ天王寺公園を会場に豊臣方と徳川方に分かれた演武合戦や、真田家14代目の真田徹さんと歴史アイドル小栗さくらさんのトークショーなども行われ、大勢の観客で賑わった。400年の時を経ても、大阪人の「幸村愛」は色あせることがない。


幸村の最期

徳川の本陣に攻め入って馬印を倒し、一時は家康に自害を覚悟させるほどの勢いだった幸村だが、兵力に勝る敵方に盛り返され、退却を余儀なくされる。最後は力尽き、安居神社の境内にある松に腰掛けて休んでいるところを徳川方の西尾仁左衛門に発見され、「わが首を手柄とせよ」と言い残し、討ち取られた。

その終焉の地・安居神社は、茶臼山の北にひっそりと佇んでいる。参道を登りきった右手には、戦死跡の石碑と銅像が建つ。幸村が休息したという「真田松」や江戸時代に名を馳せた桜の木々は、戦争の空襲で焼失してしまったが、昭和26(1951)年に植樹された2代目の松が石碑の背後にあり、供養の花も絶えることがない。毎年、命日に近い5月5日には「幸村まつり」が催され、銅像の前で慰霊祭が執り行われる。

ところでこの幸村像、武将のものとしては他と少し趣が異なっている。三光神社の勇壮な立ち姿と比べると、迫力にも欠ける。座っているからだ。実はこの姿は、宮司の中島一熈さんの意向によるもの。「最期の言葉からもわかるように、幸村は境内で体を休めながらも死への覚悟を固めていたのだろう。また、神社の名の由来となった菅原道真公の大宰府への途上の立ち寄りのように、景色を楽しみながら人生最後の休息を味わっていたのかもしれない。ならば、終焉の地での姿は諦念をともなう坐像がふさわしいのではないか」との想いから形づくられたものである。

平成21(2009)年には幸村が幼少期を過ごした長野県上田市から10本の枝垂れ桜が送られ、境内に植樹された。名声を誇った江戸時代ほどではないが、春になるとたおやかな薄紅色が少しずつ境内を彩るようになってきたという。28(2016)年のNHK大河ドラマ『真田丸』の放映で、この地を訪れる人の数はさらに増えるだろう。「日本一の兵(つわもの)」と敵からも称えられた智将のために咲く桜花が、彼らの心により深い感慨を呼び起こすに違いない。


2016年3月

(木下昌輝)



≪施設情報≫
○ 三光神社
   大阪市天王寺区玉造本町14-90
   電:06-6761-0372
   アクセス:JR大阪環状線玉造駅から徒歩5分
       大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅から徒歩2分

○ 天王寺公園
   大阪市天王寺区茶臼山町1-108
   電:06-6771-8401
   入 場 料:大人150円
   開園時間:9:30~16:30 毎週月曜休園
   アクセス:大阪市営地下鉄堺筋線・御堂筋線動物園前駅より徒歩約5分
       大阪市営地下鉄堺筋線恵比寿町駅より徒歩約5分
       大阪市営地下鉄御堂筋線天王寺駅およびJR天王寺駅より徒歩約10分

○ 安居神社
   大阪市天王寺区逢阪1-3-24
   電:06-6771-4932
   アクセス:大阪市営地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅より徒歩約6分

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