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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第24話 華岡鹿城はなおかろくじょう(1779-1827年)

医術最先端を誇った中之島の合水堂

華岡鹿城は安永8年(1779)、現在の和歌山県紀の川市に生まれた。華岡家は祖父の代から在村の専業医を営む。父・直道は、大坂で南蛮流外科を学んだと言われ、兄・青洲(1760-1835)は全身麻酔薬「通仙散」(麻沸散ともいう)を開発し、世界で初めて全身麻酔による乳がんの手術に成功した。鹿城は20歳近く離れた末弟。兄同様「通仙散」を良く使いこなした。

青洲は天明2年(1782)から3年間、京都に遊学した。論語、漢詩文を習い、内科は吉益南涯(1750-1816)から漢方の一派の古医方を習得、外科は大和見立(1750-1827)にオランダから伝わったカスパル流外科を学んだ。オランダの外科書を紹介した本に出会い、乳がんの手術を手がけた医家にも学び、麻酔の重要性を痛感して麻酔薬の情報を収集した。青洲は帰郷後、京都で行われていた麻酔薬の研究を参考に実験を重ね、20年近くかけてマンダラゲなどの薬草を調合、十数人に使用して実用化の準備を進めた。

鹿城は6歳のときに父を失った。小さいころから利発で、母によく仕え、詩文を能くした。10歳の時に藩儒の熊野氏に儒教を学び、17歳で兄同様京都に上った。古医方を吉益南涯に、儒学を佐野山陰(1751-1819)に学び、8年間、京都で遊学、文化元年(1804)に帰郷した。青洲は鹿城の帰郷を待って同年10月13日、通仙散を使って乳がんの手術を行った。アメリカでエーテル麻酔が成功する40年も前のことだった。

乳がんの手術の成功は患者や門人によって徐々に広がっていった。青洲の兄弟は末弟の鹿城のほか、商人になった次弟の治兵衛、仏門に入り高野山の正智院の住職になった三男の良応がいる。治兵衛は和歌山県かつらぎ町に店を構え、紀州の手織り木綿を大坂・安土町の木綿問屋「丹波屋」に納めていた。青洲の手術の成功は大坂に通う治兵衛を通して全国に広がり、青洲が「春林軒」と名付けた医学塾には医学生が集まり、患者は諸国から訪ねてきた。

青洲が紀の川市で父親の後を継いだのは母親の於継(おつぎ)の意志だった。大坂に出たかったが、於継にこの土地で医業を続けるように諭されたとのエピソードが伝わる。鹿城は兄の意を受け、文化8年(1811)ごろ、堺の少林寺町で診療所を開いた。文化13年(1816)には蔵屋敷が建ち並ぶ大坂・中之島に移り、春林軒の分塾を開設し、論語・雍也篇にある「知者楽水」から「合水堂」(のち楽水堂)と名付けた。

大坂への進出は、華岡流外科を広め、安定的に入門者を確保するのが目的だった。「春林軒」への入門者は堺の診療所開設とともに前年の14人から38人に増え、合水堂開塾の年には49人になっている。合水堂は鹿城没後も、青洲の養子で娘婿の南洋(1797-1865)、鹿城の息子の積軒(1827-1872)が支えた。門人は1780年から1882年の間、北海道(松前)から鹿児島(種子島)まで全国各地から2200人に及び、その半数が大坂の合水堂で学んだ。合水堂は西洋医学が本格的に入ってくるまで、わが国の医学の発展に大きく貢献し、医学専門塾としては比類ない規模を誇った。


日本医史学会などが合水堂顕彰碑を建立

大阪市北区中之島1丁目1番地、大阪市中央公会堂の前に平成27年(2015)4月25日、華岡青洲、華岡鹿城の子孫と日本医史学会、日本麻酔科学会の関係者が集まり、「合水堂 華岡流外科顕彰碑」と刻まれた顕彰碑(高さ135㎝、横180㎝、厚さ25㎝)の除幕式があった。日本医史学会の小曽戸洋理事長が「合水堂は幕末まで大阪の中心にあって多数の医学生を育成したが、忘れられようとしている」と顕彰碑建立の意義を説明した。また、華岡家の子孫で作る華岡家春林会の代表は「今年は鹿城の後を継いで合水堂を支えた南洋の没後150年、さらに来年は合水堂開設200年にあたり、日本医学会総会が関西で開かれたのを機に記念碑を建立することができ、感謝します」と挨拶した。

日本医史学会は同日、大阪市中央区備後町の日本綿業倶楽部で、華岡合水堂碑建立記念シンポジウム「華岡青洲の時代」を開いた。長年、華岡青洲の研究を進めてきた弘前大学の松木明知名誉教授が「華岡青洲と麻酔」と題して基調講演、「華岡青洲は大変慎重に麻酔薬の実用化を進めた。165人に乳がんの手術をし、死亡が特定できた33人を過去帳から確認すると、平均的な余命は52カ月で、大変な好成績だ」と評価した。パネリストの一人は「地域医療を調べると、華岡流が幕末の一時期、一世を風靡したことが分かる。幕末は合水堂のほか、適塾、吉益の分家など、大坂に漢方、蘭方の塾が集まっていた。ここへ来れば先端の医学が学べた」と話した。


適塾と競い合った合水堂

「緒方塾の近傍、中ノ島に華岡という漢医の大家があって、その塾の書生はいずれも福生とみえ服装も立派で、なかなかもってわれわれ蘭学生の類でない。毎度往来に出逢うて、もとより言葉も交えず互いに睨み合うて行き違う」。福沢諭吉は晩年に口述筆記した『福翁自伝』で合水堂への対抗心をむき出しにした。

大阪大学適塾記念センターは平成25年(2013)10月、特別展「適塾創設175周年記念・緒方洪庵没後150年記念『緒方洪庵・適塾と近世大坂の学知』」を開いた。第Ⅱ部、「近世大坂の学知と適塾」で「合水堂は適塾生にとって良きライバルだった」として合水堂が取り上げられた。

福沢らが集った緒方洪庵(1810-1863)の適塾は、合水堂から南に土佐堀川を挟んで約350m、栴檀(せんだん)木橋を渡ると直ぐの北浜にある。洪庵は天保9年(1838)に大坂・瓦町で適塾を開設し、弘化2年(1845)に北浜に移転した。福沢は安政2年(1855)に入門している。

展示にあたり、双方の門人録が調査された。幕末の思想家・橋本左内や日本赤十字社を作る佐野常民らは適塾生として知られているが、華岡門人録にも橋本は嘉永4年(1851)7月、佐野は嘉永2年(1849)3月に名前があった。同センターの松永和浩准教授は「16人ほどが重複入門者として確認できた。適塾で蘭学、蘭医学を学んだ後、より実践的なものとして華岡流外科を合水堂で学んでいることが確認できた」と話す。

洪庵の嘉永6年(1853)の日記には華岡南洋との行き来が書かれており、福沢が書き残したように両者は刺々しい関係だったかどうか疑問が残る。合水堂の門弟は地方から出てきた医者の子息らが多かったようで、身なりは合水堂が良かったのかも知れない。


大坂の医師番付に残る華岡鹿城

長年にわたり開業医のかたわら医学の歴史的な史料の収集に努めた中野操氏(1897-1986)の和漢洋の書籍など図書・史料13461点が、平成10年(1998)、大阪市史編纂所に寄贈された。室町時代に遡る医学書や18世紀のオランダの文法書、江戸時代の大坂の医事年表など日本医史学上の比類ない歴史資料で、「中野操文庫」として平成25年(2013)には大阪市の有形文化財の指定を受けた。

この文庫の中に江戸期の大坂の医師の番付表が残っている。文政8年(1825)9月に出版された大坂の医師番付「浪花御医師見立相撲」の左最上段に「小結 中ノシマ 花岡良平」とある。良平は鹿城の通称で、合水堂開設から10年も経たないうちに上位にランクされていることが分かる。

鹿城の名声は兄の青洲にも負けないほどで、「北岡南岡に譲らず」(北岡は鹿城、南岡は青洲)と評判になった。鹿城は小柄だったが、豪放磊落(らいらく)でいつも朱塗無反りの大刀を帯び、威儀をつくろった。豪商・鴻池から往診を頼まれたときも出かけると、正門を閉じたままで横からくぐり入れ、というので憤然として引き返してきたという逸話が残っている。

鹿城のあとの南洋、積軒も番付表の上位に掲載された。「合水堂治験」という門人西崎松伯が作った華岡南洋による治療記録がある。患者の住所、氏名、症状や治療要領、処方した薬が詳細に記され、病状も図示されている。患者は大坂市中や周辺農村に止まらず、播磨国や石見国まで及び、病状は目や口の周りの腫瘍から乳がんなど婦人科系の病気まで様々な事例が残る。合水堂が高い医療技術を持ち、隆盛を極めていたことが分かる。

2016年6月

(宇澤俊記)



≪参考文献≫
 ・松木明知『華岡青洲研究の新展開』(真興交易㈱医書出版部 2013.4)
 ・島根大学附属図書館医学分館大森文庫出版編集委員会『華岡流医術の世界』
                         (ワン・ライン2008.3)
 ・和歌山市立博物館『特別展 華岡青洲の医塾 春林軒と合水堂』
                         (和歌山市教育委員会 2012.7)
 ・酒井シヅ『華岡塾の大坂分塾「合水堂」』
            (第29回日本医学会総会2015関西医学史展図録 2015.4)
 ・中野操『大坂名医伝』(杏林温故会 1959.10)
 ・松本望『紀州の華岡流医術、大坂から全国へ』
            (大阪市史編纂所第40号 2013.3)
 ・堀田暁生『中野操文庫が大阪市の指定文化財になりました』
            (大阪市史編纂所第41号 2013.9)
 ・福沢諭吉/土橋俊一校訂・校注『福翁自伝』(講談社学術文庫 2010.2)
 ・有吉佐和子『華岡青洲の妻』(新潮文庫 1970.1)



≪施設情報≫
○ 合水堂華岡流外科顕彰碑
   大阪市北区中之島1丁目1
   アクセス:大阪市営地下鉄御堂筋線淀屋橋駅から西へ約7分

○ 青洲の里
   和歌山県紀の川市西野山473
   電:0736−75−6008
   アクセス:JR和歌山線名手駅 徒歩約20分
         車は大阪方面から阪和自動車道泉南ICを下り、
         府県道泉佐野岩出線経由紀ノ川広域農道を橋本方面に

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