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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第22話 竹本義太夫
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こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第22話 竹本義太夫たけもとぎだゆう(1651-1714年)

畑の小僧、習わぬ浄瑠璃を語る

「門前の小僧習わぬ経を詠む」。この諺を文字通り実践したのが義太夫節の開祖、竹本義太夫である。義太夫は慶安4年(1651)に摂津国天王寺村の農家に生まれた。本名は五郎兵衛。生家は現在の四天王寺西門から阿倍野橋に通じる谷町筋、茶臼山バス停留所辺り。小高い茶臼山や河底池(かわぞこいけ:周濠跡)があり、かつては名高い景勝地で「雲水」と呼ばれていた。今も、当時の面影が茶臼山公園辺りに残っている。

五郎兵衛は幼い頃、家事を助け天王寺名産の蕪つくりなどを手伝っていた。その畑の東の崖下には「徳屋」という当時有名な料亭があり、そこから繰り返し漏れてくる浄瑠璃を聞き覚えた五郎兵衛は、畑仕事の合間に、それを真似て語るのを何よりの楽しみとしていた。そんな五郎兵衛は、近所の子どもには真似のできない大きな声を持っていた。

徳屋の主人・清水理兵衛(きよみずりへい)は、当時、大坂の浄瑠璃界の第一人者、井上播磨掾(いのうえはりまじょう)の直弟子で、徳屋の稽古場から聞こえてくる浄瑠璃は本格的かつ一流のものだった。理兵衛は浄瑠璃以外にも茶道、囲碁、諧謔(かいぎゃく:滑稽話)と、何でもこなす風流人である。ある日、五郎兵衛が畑で気持ちよく浄瑠璃を語っていると、それが理兵衛の耳に入った。こうして五郎兵衛は、天性の美声を見込まれ、理兵衛の下で浄瑠璃を本格的に修業することとなった。


上洛し、新生・太夫としてデビュー

延宝4年(1676)頃、清水理兵衛は一座を旗揚げ、五郎兵衛もこれに参加。理兵衛の新作『上東門院(じょうとうもんいん)』のワキ語りを務め、初舞台を踏んだ。これが評判となり、25歳で本職の太夫となる。声量が大きく豪快に語る五郎兵衛は、音響設備のない時代に広い芝居小屋でもよく響き、人気を集めた。とはいえ「野良声」と陰口を叩く者もいたそうである。

大坂での五郎兵衛の評判は、やがて京の大物、宇治加賀掾(うじかがのじょう)の耳にも伝わった。延宝5年(1677)正月、加賀掾は理兵衛の推薦もあって自ら主宰する「宇治座」に五郎兵衛を招き入れた。こうしてついに京に上った五郎兵衛は、清水理太夫(きよみずりだゆう)と名乗り、宇治嘉太夫(かだゆう:宇治加賀掾の前名)と共に『西行物語(さいぎょうものがたり)』などを上演。若く豪快で声量もあると大評判を得た。

この頃、浄瑠璃界では、京に「うれいぶし」という新しい節を掲げた山本角太夫(やまもとかくだゆう)と、繊細でやさしい語り口の加賀掾が人気を二分しライバルとして競り合っていた。加賀掾は曲節を工夫して新作を次々に送り出し隆盛を誇っていたが、弟子たちとの間で分裂騒ぎを起こす。そうした中、理太夫は小唄、説教節、流行歌、万歳、さらには物売りの声まで取り入れた独自の義太夫節を考案。これを加賀掾の許可を得ずに上演したところ、加賀掾の逆鱗に触れ、破門されてしまう。その理太夫に目を付けたのが、興行師の竹屋庄兵衛であった。実は庄兵衛も宇治加賀掾と長年組んでいた盟友だが、興業のあり方をめぐってここでも加賀掾と不仲になっていた。

二人は新しい座を組み、四条河原に櫓(やぐら)を掲げた。しかし客の入りは悪く、京を離れて西国筋の巡業に出る。この巡業は数年に及び、最後は安芸の宮島まで下った。この間、何度か京に戻り再起を試みたが、いずれも失敗に終わっている。この頃、理太夫は「理太夫」という名に縁起の悪さを感じ、終生の名前となる「竹本義太夫」に改名した。「竹本」の竹は「竹屋庄兵衛」から採り、「義太夫」の義は「義を重んじる」という信念を表している。

西国巡業を始めて約6年後の貞享元年(1684)、義太夫は満を持して大坂・道頓堀に帰り、竹屋庄兵衛と組んで自分の名を冠した「竹本座」の櫓を揚げた。はっきりした硬派の語り口と豊かな感情表現で聴く者の胸に迫り、竹本座は義太夫節人形浄瑠璃の代表的劇場として人気を博した。


師匠 VS 弟子の道頓堀対決

義太夫は道頓堀で近松門左衛門が加賀掾のために書いた『世継曽我(よつぎそが)』を上演し、大評判を得た。そしてこのニュースはいち早く京の加賀掾に伝わった。「造反して飛び出した上、櫓揚げに自分の語り物を選ぶとは許しがたい」と、加賀掾は義太夫たちへの報復を考え、一座を引き連れ京から道頓堀に乗り込むという思い切った手を打つ。狙いはもちろん、竹本座の興業に打撃を与えることであり、これが有名な貞享2年(1685)の道頓堀競演である。迎え打つ義太夫は、近松の『出世景清(しゅっせかげきよ)』(後にこの作品は「新浄瑠璃」の始まりと言われる)を演じた。

はたしてこの一戦、井原西鶴の『暦』を語る加賀掾が優勢と思われたが、みずみずしい義太夫の語りも予想以上に人気を呼んだ。しかも、加賀掾の櫓小屋が火事になるという想定外の事態が起こる。大きな痛手を負った加賀掾は道頓堀から退散せざるを得ず、結局、道頓堀競演は義太夫側の勝ちとなった。当時、大坂では井上播磨掾や伊藤出羽掾(いとうでわのじょう)といった浄瑠璃界の巨星が亡くなり、中心人物がいない状況にあった。そこに義太夫が新星のごとく登場し、興行界は大きな期待をかけた。ついに義太夫は大スターとなり、朝廷にも召される。御前で義太夫を語り、築後掾(ちくごのじょう)の号を賜り、竹本築後掾藤原博教と称する宣旨(せんじ:勅旨が記された文書)まで賜った。

その後、竹本座の経営が安定したこともあり、元禄16年(1703)、義太夫は座元を引退し(その後、もう一度出演している)、竹田出雲(たけだいずも)にその座を譲った。ちなみに出雲は「竹田からくり芝居」の芝居主である竹田一族の出身である。竹田からくりは、機械仕掛けのからくりを用いた見せ物で、浄瑠璃にからくり人形の面白さも加わることとなり、さらに庶民に広く浸透していった。


伝統芸能に名を残した「義太夫節」

宝永7年(1710)、還暦を迎えた義太夫は、100人近い門弟に義太夫節永続の誓いの連名状に連署させている。義太夫の心意気を示すエピソードである。その2年後、体の衰えが目立ち始め、正徳3年(1713)、築後掾の舞台を観た朝日文左衛門に「大病を患い、ようやく治ったけれど、声が出ず、舞台を引っ込んだ」(『鸚鵡籠中記:おうむろうちゅうき』)と書いている。しかしその後も近松作の『娥哥(かおようた)かるた』に出演し、死の直前まで太夫として活躍した。興行半ばで病状が悪化し、正徳4年(1714)9月10日に死去。享年64。門弟には竹本頼母(たのも)、竹本政太夫(まさたゆう)、竹本采女(うねめ)らがいる。

義太夫の独特の語りは「義太夫節」と呼ばれ、浄瑠璃の代名詞になった。義太夫節での人形浄瑠璃作品は歌舞伎界にも大きな影響を与え、「義太夫狂言」と呼ばれている。「義太夫狂言」では歌舞伎専門の義太夫節演者を「竹本」と呼び、義太夫の名が歌舞伎界に残っている。竹本義太夫は後世の日本の伝統芸能に対しても多大な影響を与えた。平成15年(2003)、人形浄瑠璃文楽がユネスコ無形文化遺産に登録された。大阪が誇る世界の文化遺産である。


義太夫生誕地の石碑

竹本義太夫生誕地の石碑は、墓のある超願寺から近い天王寺区茶臼山町の堀越神社から南へ約100m、谷町筋の大きな桜の下にある。戦前までは五郎兵衛生家と称する茅葺の農家がまだ残っていたらしい。大通りはいつも車で溢れているが、その歩道上の石碑はひっそりと建てられ、気が付く人もほとんどないようだ。この界隈は、かつては風光明媚で知られ、雲水と呼ばれていたのは前述の通りである。現在も茶臼山公園やその周囲の河底池周辺に、当時の面影を何とか感じることができる。茶臼山公園には大樹が青々と茂り、鳥が鳴き、春や秋には路傍に野草が勢いよく咲いている。また、河底池には鯉が泳ぎ水鳥が群れをなしている。散策する人も気持ち良さそうに寛いでいた。きっと義太夫も愛した場所に違いない。


ひっそり佇む竹本座跡

江戸時代、道頓堀には有名な道頓堀五座があった。その一つが竹本義太夫の名を冠した「竹本座」である。現在の道頓堀界隈はいつも多くの人とネオンで溢れ、日本を代表する歓楽街である。この道頓堀通りと御堂筋の交差点の東手前に竹本座の石碑がある。都会の喧噪の中、多くの通行人が絶え間なく行き来している。ここが人形浄瑠璃文楽発祥の地、竹本座があった場所とは、ほとんどの人は気づかずに素通りしているようだ。石碑の写真を撮るのも一苦労である。

その通行人は、国際化して色々な言語が飛び交っている。竹本座は後に戎座(えびすざ)と名を変えたが、現在は道頓堀にかかる戎橋にその名を残している。今でも、道頓堀界隈には国立文楽劇場、歌舞伎の松竹座、さらには再開した角座、なんばグランド花月、トリイホールなどがあり、演劇・演芸のメッカであることに変わりはなく、またこれからも変わらないで欲しい。


往時の芝居小屋の風情を感じる国立文楽劇場

地下鉄堺筋線、千日前線「日本橋」駅より徒歩1分の千日前通りにある。言わずと知れた文楽の本拠地であり、誇り高い伝統を受け継ぎ存在感をみせつけている。竹本座のあった道頓堀とは少し離れている。都会のビル街の中にあって、ひときわ文化の香りを放ち黒く威厳のある建物は黒川紀章氏の設計である。劇場を取り囲むように色鮮やかな幟がはためいている。その様子は芝居小屋の雰囲気を今も感じさせている。


義太夫が眠る超願寺

四天王寺南門からほど近い超願寺に義太夫の墓がある。超願寺は推古天皇22年(614)、聖徳太子の創建とされている。小さな屋根と囲いで風雨から守られている墓には、義太夫の業績の書かれたパンフレットが状差しに入れられ、花も活けられていた。義太夫が今も愛され大切にされていることが窺える。境内には今では珍しい現役の井戸があり、墓参の人々がこの井戸から次々と水を汲んでいた。


ゆかりの人々が眠る四天王寺西門墓地

大阪の寺を代表すると言っても良い聖徳太子ゆかりの四天王寺の西門付近に、大規模な墓地がある。実はここに歌舞伎や浄瑠璃の関係者の墓が多くある。義太夫の墓はここにもあり、豊竹若太夫の墓と並んでいる。墓の傍らに建つ石標には「初代竹本義太夫墓、初代豊竹若太夫墓、二代竹本義太夫墓、日本因(ちなみ)会」とあった。

墓は義太夫の300回忌の平成25年(2013)8月に新調され、文楽関係者ら約100人が墓前を参拝して再建されたとのことである。訪問した日が彼岸ということもあり、四天王寺駅から続く人の流れが波のように四天王寺へと流れていた。境内には多くの露店も出て飛び交う声や醤油の焦げた香り、呼び込む売り子の甲高い声、フリーマーケットの古着も路を狭めて並び、買い物する人と参拝の人で大変な賑わいであった。人々は皆楽しそうだ。いつまでも伝統が続くことを願わずにはいられない。


生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)

大阪市天王寺区生玉町にある、大阪はもとより日本きっての古社である。生國魂神社は、たくさんの木々に囲まれ「生玉の杜」と呼ばれ、数々の境内社が祀られている。この生國魂神社の境内の北西隅に境内末社として「浄瑠璃神社」がある。

近松門左衛門の『曾根崎心中』の主人公「お初と徳兵衛」、『生玉心中』の主人公「おさがと嘉平次」が出会ったのが、実はこの神社の境内とのこと。当時、神社付近では幾つもの心中事件が起きたと言われている。生玉地区は「心中」と縁が深い場所なのである。

この浄瑠璃神社には、近松門左衛門や竹本義太夫など、浄瑠璃に功のあった文楽や女義太夫の物故者が祭神として祀られている。時を超え、今でも義太夫は芸能の神様として信仰を集めているようだ。

2016年6月

(和田誠一郎)

≪施設情報≫
○ 茶臼山(天王寺公園)
   大阪市天王寺区茶臼山町1−108
   電:06−6771−8401
   アクセス:地下鉄堺筋線、御堂筋線「動物園前」駅より徒歩約5分
       地下鉄堺筋線「恵美須町」駅より徒歩約5分
       地下鉄御堂筋線またはJR「天王寺」駅より徒歩約10分

○ 竹本座の石碑
   大阪市中央区道頓堀1−8−22 道頓堀ゼロゲート
   アクセス:地下鉄御堂筋線「なんば」駅より北へ約270m

○ 国立文楽劇場
   大阪市中央区日本橋1−12−10
   電:06−6212−2531
   アクセス:地下鉄堺筋線、千日前線「日本橋」駅、
       近鉄奈良線「近鉄日本橋」駅7号出口より徒歩1分

○ 超願寺
   大阪市天王寺区1−14−1
   電:06−6771−6654
   アクセス:JR環状線、地下鉄御堂筋線、近鉄南大阪線、阪堺電軌上町線
         「天王寺」駅より徒歩約6分

○ 四天王寺
   大阪市天王寺区四天王寺1−11−18
   電:06−6771−0066
   アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺夕陽ケ丘」駅より南へ徒歩約5分
       地下鉄御堂筋線またはJR環状線「天王寺」駅より北へ徒歩約10分

○ 浄瑠璃神社(生國魂神社内)
   大阪市天王寺区生玉町13−9
   電:06−6771−0002
   アクセス:地下鉄谷町線「谷町九丁目」駅より徒歩約3分

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