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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第50話 織田信長おだのぶなが(1534–1582年)

乱世を駆け抜けた天下人

まれに見るスピードで天下人に駆け上がった天才児・織田信長。ここでは信長が33歳の時に足利義昭を奉じて上洛した時から始めよう。

永禄11年(1568)9月26日、信長は足利義昭を奉じて尾張、美濃、北伊勢の5万とも6万ともいわれる軍勢を率いて上洛した。軍勢は摂津、河内まで進軍。三好三人衆〔三好長逸、岩成友道、三好政康(宗渭:そうい)〕は勝竜寺城、芥川城、越水城を放棄して全員が阿波に敗走した。京に凱旋した信長に正親町(おおぎまち)天皇は、文書をもって逼迫していた朝廷の財政の建て直しや京の治安の回復を命じた。義昭は正親町天皇から15代将軍に任ぜられ、信長は副将軍に就任を求められるが固辞し堺を直轄地にすることを求めた。

これより先、信長は永禄2年(1559)24歳のとき、上洛の帰りに堺に立ち寄り、ヒト、モノ、カネで沸き返る堺の町を見て貿易の重要性を感じ取っていたと思われる。そして本願寺に5千貫、法隆寺に千貫、堺に2万貫の矢銭(軍資金)を要求した。本願寺は要求に応じ、三好勢の保護下にあった堺の商人たちは最初は拒否したが新興の今井宗久や津田宗及の説得で信長の支配下となる。信長が堺の商人たちに求めたのは、その莫大な財力と鉄砲と火薬であった。戦国の動乱を終わらせ全国統一を目指す信長にとって、強力な軍事力と将軍の権威、それに天皇の後ろ盾は必須条件であった。また、信長は京で関所の廃止や地子銭(じしせん:固定資産税)の免除等の政策を打ち出し町衆に歓迎されたが、それを収入源としていた寺社勢力からの反発は必至であった。

元亀元年(1570)は信長の全国制覇のスタートの年だ。4月、越前の朝倉義景の討伐に出陣。信長が味方と信じていた浅井長政の離反、そしてこれに呼応して六角氏も蜂起。摂津には再び三好三人衆が阿波から進出。信長軍は摂津に戻り、三好三人衆と野田・福島で対峙した。9月12日、突然、石山本願寺の軍勢が鉄砲隊を先頭に信長軍に襲いかかった。石山合戦の始まりである。本願寺法主顕如の「仏敵信長と戦え」という檄文に各地の一向一揆衆も蜂起した。同時多発的信長包囲網である。敗勢に追い込まれた信長は12月、正親町天皇の勅命講和で窮地を脱した。このあと石山合戦は10年にわたり断続的に衝突と和睦を繰り返しながら続くことになる。一方、将軍の権威を利用して全国制覇を目論む信長と足利幕府再興を目指す義昭との間に亀裂が生じ始めた。元亀4年(1573)信長は義昭に対して『17箇条の諌言』を進言した。これで2人は決裂し、義昭は京を追放された。ここに室町幕府は事実上滅亡し、元号も元亀から天正へと改められた。将軍義昭は紀伊の由良で2年ほど過ごしたあと、毛利氏を頼り備後に移り「鞆幕府」亡命政権を樹立。反信長陣営の大義的存在で信長の前に立ちはだかった。

一方、信長は徳川家康、羽柴秀吉、滝川一益、前田利家、明智光秀などの優れた武将や家臣に恵まれ、畿内から東海にかけて大領国を築いていった。その背景には、農民は農村で農業に専念させ武士は有給で雇い城下町に住まわせる「兵農分離策」。所謂、常時戦時体制に入れる軍隊の整備と、家康との「織・徳同盟(=清洲同盟)」が大きなポイントとなる。信長は岐阜城で「天下布武」の朱印を使い始め、天下取りに名乗りを挙げた。

この頃の戦国大名は隣国との領土争いに明け暮れ、全国統一を目指す大名は信長以外いなかった。信長の統一戦は苦戦が続いたが、武田信玄の病死や上杉謙信の急死(天正6年[1578])など天も信長に味方し、窮地を脱し戦いに勝利していった。

天正3年(1575)、信長は正親町天皇から大納言、右大臣に任ぜられ「公家」となり「上様」と呼ばれるようになった。同4年(1576)、信長は近江に安土城の築城を始めた。五層七重の城であった。麓には城下町を建設し、税の免除などで町民を住まわせ、楽市楽座などの経済政策を実施した。同8年(1580)、信長を10年にわたって悩ませ続けてきた石山本願寺の戦いは信長軍の圧倒的な優勢の中、信長は本願寺法主顕如との和睦の誓紙を勅使に渡した。天皇による和平調停「天皇の平和」が信長によって成立し、畿内に平和が戻った。正親町天皇は天下が平和を取り戻したことを京の町衆や諸国の大名たちに知らせようと、信長に「京都馬揃」の開催を持ちかけた。同9年2月28日、宣教師から贈られた西洋の帽子に赤いマントと派手な服装の信長を先頭に、織田勢の大名を総動員して全国から集められた500騎余りの名馬に乗っての行進に、見物の町衆たちも大いに盛り上がった。これは軍事パレードというより「葵祭り」といった華やかなもので、正親町天皇は「これほど面白い遊興は観たことはない」と喜ばれたと「信長公記」に記されている。誠仁親王(さねひとしんのう)は「天下いよいよ平和になった、朝廷の満足は空前絶後のことである、どのような官位に推任されても請けられたい」と書状を送った。残るは四国と中国、信長の全国制覇はもう目前に迫っていた。

ところが、天正10年(1582)6月2日、「敵は本能寺にあり」と1万3千の光秀軍が本能寺に殺到した。信長は明智光秀の謀反と聞き、「是非に及ばず」と最後の言葉を残し、秘蔵の茶の名品と共に本能寺の炎の中に消えた。享年49。「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也・・・」。信長は出陣前、この幸若舞「敦盛」を好んで舞ったという。信長による既得権益をぶち壊す改革の流れは止まることなく、尾張で出会った秀吉・家康に引き継がれ、乱世に終止符が打たれて日本は近世への道を進むことになる。


フィールドノート

消えた信長ゆかりの若江城

河内若江城は、信長が石山本願寺との戦いや紀伊に遠征する際に陣を張ったところだ。城主は信長の家臣になった三好義継。義継は将軍義昭の妹と結婚したため、義昭とは義兄弟になる。


東大阪市の若江城跡を訪ねることにした。近鉄奈良線「若江岩田駅」から南に岩田本通り商店街を1kmほど行った所にある若江公民館分館の前に若江城についての説明パネルがあり、道路を挟んだところの小さな神社に若江城廃城400年を記念して地元の有志が建てた石碑があった。公民館の女性に「『戦国時代の若江』と題するパンフレットがありますのでどうぞ」と勧められる。近畿大学文芸学部文化・歴史学科が東大阪市の地域研究助成金を受けて制作されたもので、若江城の歴史を知るためには貴重な資料だ。

パンフレットによれば、若江城は永徳2年(1382)畠山氏によって築城された城で、河内街道と十三街道が交わる交通の要衝にあり、度々戦国武将たちの河内争奪戦の舞台ともなった。若江城が最後に歴史の舞台に登場するのは、天正元年(1573)、京を追放された将軍義昭が若江城主・三好義継のもとに送られた時だ。義兄弟の対面である。この時の義継の対応が信長の怒りをかい、自害に追い込まれる。これで三好本家は断絶することになる。天正11年(1583)には若江城は廃城になり、石垣は秀吉の大坂城築城のため運び出された。17世紀には、大和川の付け替え工事で全く地形が変わり跡かたもなくなり地図上からも完全に消えることになる。


届かなかった勅書(今谷明著『戦国大名と天皇』より引用)

元亀元年(1570)の石山合戦勃発のとき、正親町天皇が本願寺顕如に宛てた勅書がある。

「このたび、信長や将軍が大坂表に出陣しているのは、天下静謐(せいひつ)のためである。しかるに、その方共の衆徒らは一揆をおこし、信長に敵対しているという噂が聞こえてくる。とんでもないことである。凡そ坊主には不相応な所業であり、けしからぬことである。早々に武器を収め、戦争を止めることが肝要である。もし異議を申し立てたいならば、朝廷まで申請せよ」

天皇が中立性をかなぐり捨て、信長のため動いた勅書である。残念ながらこの勅書は戦闘が烈しくなり顕如のもとには届かなかった。


信長がどうしても手に入れたかった堺


堺市役所本館ロビーには、「住吉祭礼図屏風」右隻の一部を陶板画に複製したものが壁一面に飾られている。江戸初期に描かれた屏風絵で、当時の自治都市・堺の繁栄ぶりを窺い知ることができる。

義昭を奉じて上洛した信長が最初に手を付けたのは、堺を直轄地とすることだった。尾張で生まれ育った信長は、南蛮貿易がもたらす莫大な富を確信していたに違いない。自治都市・堺は戦国大名たちの領土拡大戦争を尻目に、国際貿易港として東アジアはもとより西洋からの物資や最新の科学技術(鉄砲、火薬)それに情報が溢れ黄金の日々を謳歌していた。

信長は、直轄地になった堺に財務担当の家臣松井友閑を代官として送り込んだ。手に入れたかったのは堺の豪商たちの南蛮貿易のノウハウや社寺が持つ独自の交易ルートであり、商人たちの財力だった。信長は、新興の商人今井宗久を松井友閑の補佐的役割となる堺五箇荘の代官に任命し、塩合物(塩漬けの魚)座の権利、淀川通行船の関税免除などの特権を与えた。そして但馬を征服した信長は、生野銀山を直轄領にして宗久を代官職に任命した。今井宗久は鉄砲の大量生産や国内では産出しない火薬の原料・硝石の輸入を独占的に行う交易ルートを確保するなど、わが国で最初の総合軍事産業を興し、信長の統一戦を支えた。

また、堺の会合衆(えごうしゅう)の中心人物で天王寺屋の3代目・津田宗及は、本願寺との関係を断ち切り信長の軍門に降った。信長は戦わずして堺を手に入れたのである。今井宗久、津田宗及、千宗易(のちの千利休)は信長の茶頭として取り立てられ、政商としての地位を確たるものとした。

信長は天正2年(1574)4月3日の、相国寺での茶会で、宗及と宗易に正倉院から切り取ってきた蘭奢待(らんじゃたい)を分け与えたが、今井宗久には与えていない。その理由は気になるが、これが信長の堺商人に対する懐柔策であろうか。

堺には三好長慶を始め三好一族の遺跡は多い。長慶の曽祖父・三好元長(もとなが)が堺へ進出した時代から50年以上の付き合いだ。一方、堺のまちで、信長の足跡を見つけるのは非常に難しい。信長はわずか10年余り堺の商人たちを利用するだけ利用して去っていったのか。妙國寺に、信長が安土城に持ち帰ったが「堺に帰りたい」と夜毎泣いたので堺に還したと言い伝えられる大蘇鉄を配した枯山水の庭園があるぐらいだ。天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀反で信長が本能寺で自害した日、家康は堺見物をして津田宗及の茶会に招かれ、妙國寺に宿泊していたという。妙國寺の大蘇鉄の庭園を拝観したあと、信長の供養塔があるという南宗寺の塔頭・本源院を訪ねたが拝観謝絶ということで残念ながら見ることは叶わなかった。ここから、15分ほど北に歩き宿院の道路脇にひっそりと建てられた武野紹鷗や津田宗及や今井家の屋敷跡の石碑を巡り、秀吉が屋号を命名したと伝えられる鎌倉時代創業のお菓子屋「かん袋」で名物の「氷くるみ餅」を食し、阪堺電車に乗って、歴史に「if」があるなら、信長が天下統一を目指さなかったら秀吉も家康も出現しなかろうし、ひょっとしたら日本はポルトガルかスペインの植民地になっていたかも・・・と妄想しながらウトウト。「次は〜、東天下茶屋〜」と車内アナウンスに起こされて天王寺に戻ってきた。



2017年6月

(2017年11月改訂)

橋山英二



≪参考文献≫
 ・太田牛一『信長公記』
 ・今谷明『戦国大名と天皇』福武書店 1992年
 ・小島道裕『信長とは何か』講談社 2006年
 ・谷口克広『信長と将軍義昭』中公新書 2014年
 ・秋山駿『信長』新潮社 1996年
 ・堺屋太一『戦国時代の組織戦略』集英社 2014年
 ・井沢元彦『南北朝動乱と戦国への道』角川学芸出版 2014年
 ・津本陽『戦国武将に学ぶ処世術』角川書店 2005年
 ・神田千里『織田信長』ちくま書房 2014年


≪施設情報≫
○ 堺市役所
   堺市堺区南瓦町3-1
   電  話:072-233-1101
   アクセス:南海高野線「堺東駅」より徒歩約2分

○ 妙國寺
   堺市堺区材木町東4-1-4
   電  話:072-233-0369
   アクセス:阪堺電車「妙国寺前」より徒歩約5分

○ 南宗寺
   堺市堺区南旅篭町東3-1-2
   電  話:072-232-1654
   アクセス:阪堺電車「御陵前駅」より徒歩約5分

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