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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第41話 細川ガラシャ
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第41話 細川ガラシャほそかわがらしゃ(1563-1600年)

戦乱に翻弄された悲運の殉教者

永禄6年(1563)戦国武将・明智光秀の三女として越前国で生まれる。名前は玉(たま)といい、幼いころから文学、茶道、華道に精通し、その美貌と才気は広く知れ渡っていた。天正6年(1578)、16歳の時、織田信長の薦めで細川藤孝(ふじたか)の長男の細川忠興(ただおき)と結婚。美男美女の若い夫婦は、人も羨むほど仲が良かったと伝えられている。翌年には長女・おちょう、さらにその翌年には、長男・忠隆が誕生するなど幸せな日々であった。

天正10年(1582)、明智光秀が信長を討つ「本能寺の変」が勃発し、玉の運命は大きく変わることになる。光秀は、戦友で玉の義理の父親である細川藤孝と、玉の夫・忠興に援軍を要請するが拒絶される。藤孝は剃髪し、幽斉玄旨(ゆうさいげんし)と称し田辺城に隠居。忠興は妻・玉の願いも空しく秀吉側に与し、「山崎の戦い」で父・光秀を敗北に追いやる。光秀は敗走し、百姓の槍で刺されて絶命したのであった。また、母や二人の姉は坂本城(近江国滋賀郡)で自害、玉は「逆臣の娘」となったが忠興により丹後国の味土野(みどの)に幽閉された。

2年後の天正12年(1584)、忠興は秀吉の計らいで復縁を許され、玉を大坂玉造の細川屋敷に戻し厳しく監視した。玉にとって、その日常は決して穏やかではなかった。引き裂かれていた二人の子どもは母の顔すら忘れ、すぐには懐かなかったという。一方、忠興には身ごもった側室がおり、気位の高い玉と気性の烈しい忠興の間には波風が立ち始めたと三浦綾子さんの小説『ガラシャ夫人』にある。

こうした中、玉が出会ったのがキリストの教えであった。忠興が九州征伐で出陣中、玉は身を隠して教会に行き、復活祭の説教を聞いた。そうして洗礼をしてほしいと宣教師に懇願するが、教会は彼女が身元を明かさないのでそれを断った。それでも玉は、教会から送られてくる書物を読むことによって信仰を深めていく。秀吉が九州でバテレン追放令を出したことを知ると、天正15年(1587)、イエズス会のセスペデス神父の計らいにより自邸で侍女・清原マリアから洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で「神の恵み」の意)という洗礼名を授けられた。九州から帰った忠興は、玉や侍女たちがキリスト教の洗礼を受けたことを知って激怒。侍女たちの鼻や耳を削ぐなど荒れた行動に出た。それでもガラシャは子どもたちにもキリシタンの洗礼を受けさせ、一層信仰を深めていった。

慶長3年(1598)、秀吉の死により天下を二分する争いが始まった。忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣。西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいた玉を人質に取ろうとするが、玉はそれを拒絶して屋敷内の侍女を全員逃がした後、家老の小笠原秀清に槍で突かせて命を絶ったのであった。さらに、小笠原秀清をはじめ家臣たちは屋敷に火を放ち自害した。玉の死を知った神父・オルガンティーノは、細川屋敷の焼け跡を訪れて玉の骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興は玉の死を悲しみ、慶長6年(1601)、オルガンティーノに依頼してキリスト教会葬を行い葬儀にも参列した。


細川ガラシャゆかりの地を訪ねて

 大坂細川屋敷址と大阪カテドラルマリア大聖堂

ガラシャが壮絶な最期を遂げた大阪の細川屋敷跡を、まず訪ねることにした。大阪城を南に中央大通りを渡った中央区玉造の閑静な住宅やマンションが建ち並ぶ一角に「越中井(えっちゅうい)」と刻まれた石碑と古い井戸がある。このあたりが細川屋敷の台所があった場所と伝えられている。石碑の正面には徳富蘇峰の筆で「越中井、細川忠興夫人秀林院殉節之遺址」とあり、側面には辞世の句「散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と刻まれている。秀吉が大阪城築城を始めると、細川忠興や高山右近、前田利家など秀吉側近の武将たちも大坂に屋敷を建て移り住んだ。この南側の屋敷跡には大阪カテドラル聖マリア大聖堂がある。敷地が細川家屋敷跡というゆかりで大聖堂の正面右側には細川ガラシャ像、左側には高山右近の像があり、前庭には屋敷にあった石灯篭とガラシャ没後350年を記念して建立された慰霊塔が建てられている。

玉が大坂の細川屋敷に戻って以来、忠興は「小牧の戦い」「九州征伐」「小田原征伐」、二度にわたる「朝鮮遠征」と戦に明け暮れた。こうしたなか玉が出会ったのが、キリストの教えであった。忠興は玉に千利休の高弟でキリシタン大名の高山右近のことをよく話していたという。玉が屋敷を抜け出し秘かに出かけた大坂キリスト教会は現在の北大江公園付近にあったらしいが、今やその痕跡はない。しかし400年後の今日、聖マリア大聖堂の前に細川ガラシャの像と高山右近の像が並んで建っているのは、共に殉教者として後世に語り継がれたためであろう。徳川家康は「関が原の戦い」で勝利した後、玉の最期を武士の妻としての名誉を讃えると共に、忠興に戦いの功績として九州豊前、豊後の40万石を与えた。

忠興は終生、玉の命日にはミサを欠かさなかったと伝えられる。家督を継いだ三男の忠利は、禁教令でキリスト教への弾圧が厳しくなるなか、「母のためにミサを続けてほしい」と、父・忠興に送った手紙が残されている。


 ガラシャの墓所(熊本、京都、大阪)

37歳で壮絶な最期を遂げた細川ガラシャ。その墓所は熊本県の細川家の菩提寺・泰勝寺(たいしょうじ)と京都の大徳寺高桐院(こうとういん)、大阪市の崇禅寺(そうぜんじ)の3か所にある。最初にガラシャが葬られたのは大阪市東淀川区東中島にある細川家の菩提寺・崇禅寺である。慶長6年(1601)、忠興はガラシャのキリスト教会葬の後、堺のキリシタン墓地に埋葬されたガラシャの遺骨を崇禅寺に移し埋葬した。墓所には足利義教公の首塚と並んで「林院華屋墓宗玉大姉」と刻まれたガラシャ夫人の墓石がある。

京都の大徳寺の塔頭(たっちゅう)・高桐院は、忠興が父・細川幽斎のために慶長7年(1602)に建立したものである。庭園の奥にある墓所には細川家代々の墓石と忠興とガラシャ夫人の墓塔の石灯篭がある。忠興が80歳の時、熊本からガラシャの遺骨と袈裟形の浄水盤を持参して石灯篭を墓標としたもので、この石灯篭は無双という銘を持つ千利休秘蔵名品で、秀吉が欲しがったが利休はわざと裏面の三分の一を欠き、疵物と称して断り後に利休切腹の際にあらためて忠興に遺贈したものと伝えられる。忠興は83歳で熊本八代城で卒去したが、遺言によって遺歯はこの石灯篭の下に埋葬された。また、細川家において、ガラシャはお家安泰の礎石として称えられ、熊本の細川家の菩提寺・泰勝寺では、ガラシャの墓は領主並みに篤く奉られている。


 細川元首相が語るガラシャ像

細川家18代当主で元首相の細川護熙さんは、平成24年(2012)年4月25日の「関西・大阪文化力会議」の講演「歴史に学ぶ文化力」のなかで、「忠興の正室のガラシャは絶世の美人で、中国から見にくる人もいたとか、秀吉もその美しさに惹かれていたとか伝えられているが、ガラシャはキリシタンに改宗したため、ガラシャに関わるものは殆んど焼却された。しかし、ガラシャが忠興のために仕立てた小袖に入っていた袱紗や手紙が18通残されている。手紙の文面や筆蹟から教養のある女性で、また、感情の烈しい女性であったことが窺える」と語った。

ガラシャが37歳で亡くなった後、忠興は秀吉の側近の大名として数々の武勲を挙げると共に、茶道にも長け利休の七哲の一人でもあった。また、自ら鎧・兜のデザインを手がけるなど多才な人であった。家督を三男の忠利に譲り、八代城で和歌や茶道などを楽しみながら文人として余生を送った。


 長岡京市勝龍寺城跡公園

JR京都線長岡京駅の南出口を出ると、「ガラシャ通り」と書かれた道路標識が目に入る。ここから500mほど先に、玉(ガラシャ)が16歳で嫁ぎ、家族と共に幸せに暮らした「勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)」があったところに行き着く。玉と忠興はここで2年余り過ごした後で宮津城に移るが、「本能寺の変(1582年)」の勃発で、2人の運命は激変することになる。皮肉なことに、謀反を起こした玉の父・光秀が、ここ勝龍寺城に本陣を構え「山崎の戦い」で敗れたのである。

平成4年(1992)、長岡京市はここを勝龍寺城跡公園として整備し、掘割や天守閣を模した白壁の櫓、本丸跡には日本庭園と忠興に寄り添うガラシャ夫人の銅像などを建て、市民の憩いの場所となっている。毎年11月には「長岡京ガラシャ祭り」が開催され、華やかなガラシャの輿入れ行列が市内を練り歩く。


2017年1月

(橋山英二)



ガラシャを扱った作品

 〔小 説〕

   司馬遼太郎『胡桃に酒』
   三浦綾子『細川ガラシャ夫人』
   永井路子『朱なる十字架』
   宮木あや子『ガラシャ』 など


ガラシャを演じた女優

 〔映 画〕

   伏見直江 (殉教血史 日本二十六聖人/1931年)
   雲井八重子 (山内一豊の妻/1939年)
   五月信子 (細川ガラシャ/1952年)
   マリア・ミタライ (戦国秘聞/1955年)
   岸恵子  (敵は本能寺にあり/1960年)
   佳那晃子 (魔界転生/1981年)
   黒谷友香 (利休にたずねよ/2013年) など


 〔テレビドラマ〕

   村松英子  (徳川家康/1964年、NET)
   八千草薫  (大坂城の女/1970年、KTV)
   林寛子   (国盗り物語/1973年、NHK大河ドラマ)
   島田陽子  (黄金の日日/1978年、NHK大河ドラマ)
   岡まゆみ  (おんな太閤記/1981年、NHK大河ドラマ)
   栗原小巻  (関ヶ原/1981年、TBS)
   丸尾りえ (徳川家康/1983年、NHK大河ドラマ)
   加納みゆき (徳川家康/1988年、TBS)
   池内淳子 (女たちの百万石/1988年、NTV)
   今村恵子  (信長 KING OF ZIPANGU/1992年、NHK大河ドラマ)
   朝倉麻衣  (森蘭丸~戦国を駆け抜けた若獅子~/1993年、TVA)
   戸田菜穂  (織田信長、1994年、TX)
   田村英里子 (秀吉、1996年、NHK大河ドラマ)
   鈴木京香  (葵 徳川三代、2000年、NHK大河ドラマ)
   中西夏奈子 (利家とまつ~加賀百万石物語~、2002年、NHK大河ドラマ)
   石川梨華  (新春ワイド時代劇 国盗り物語、2005年、TX)
   長谷川京子 (功名が辻、2006年、NHK大河ドラマ)
   佐々木麻緒 (明智光秀~神に愛されなかった男~、2007年、CX)
   ミムラ   (江~姫たちの戦国~、2011年、NHK大河ドラマ) など



≪参考文献≫
 ・三浦綾子『細川ガラシャ夫人』
 ・司馬遼太郎『胡桃に酒』
 ・関西・大阪文化力会議(2012年4月25日/大阪国際会議場)



≪施設情報≫
○ 大阪細川家屋敷(越中井)
   大阪市中央区玉造
   アクセス:JR「森之宮」駅西へ徒歩約15分

○ 大阪カテドラルマリア大聖堂
   大阪市中央区玉造2-24-22
   電:06−6941−2332
   アクセス:JR「森之宮」駅西へ徒歩約15分

○ 凌雲山崇禅寺
   大阪市東淀川区東中島5丁目27−44
   電:06−6322−9309
   アクセス:阪急京都線「崇禅寺」駅1番出口北へ徒歩約5分

○ 勝龍寺城跡公園
   長岡京市勝竜寺13番1号
   電:075−952−1146
   アクセス:JR「長岡京」駅東口より南へ約500m

○ 京都紫野大徳寺塔頭・高桐院
   京都市北区紫野大徳寺町73-1
   電:075−492−0068
   アクセス:京都市バス「建君勲神社前」より北へ500m

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