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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第15話 頼山陽らいさんよう(1780-1832年)

幕末勤皇志士の精神的支柱を著す

頼山陽(幼名久太郎)は歴史家、思想家、漢詩人、文人で、日本史上のベストセラーともいえる『日本外史』を著し、尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

山陽は安永9年(1780)に頼春水の長男として大坂に生まれる。父 春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学して朱子学の研究を進め、江戸堀北(現在の大阪市西区江戸堀)に私塾「青山社」を開いた。天明5年(1785)、春水が広島藩の儒学者に登用されたため父と共に転居し、城下の袋町(現在の広島市中区袋町)で育った。

その後、春水が江戸勤番(家族との別居生活は九度にわたる)となり、山陽は広島で母の梅颸(ばいし)や同居していた叔父の杏坪(きょうへい)に教育を受け詩文の才能を発揮するが、病弱なうえに精神的にも不安定で何度も発作を起こした。

寛政9年(1797)18歳の時、江戸に遊学し、1年で広島に戻り、2年後に結婚。その翌年、脱藩を図り京都へ行くが、杏坪によって広島に連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉される。この一件で春水から廃嫡されたことから、かえって山陽を学問に専念させることとなり、幽閉されていた3年間とその後の謹慎期間に『日本外史』の初稿を完成させる。

謹慎を解かれた後、父の友人であった儒学者・菅茶山(かんちゃざん)の私塾「廉塾」の塾頭を務めたが、その境遇に満足できず、文化8年(1811)、「三都に進出して天下に名を上げる」として京都に向かう。そのため、山陽は親友茶山の不興を買ったとして春水から勘当される。

京都・三本木に居宅を移した山陽は、執筆に励む一方、九州や近傍を旅行し、多くの知己を得、またその地に優れた詩文を残した。文政9年(1826)、『日本外史』が完成し、翌年、松平定信に献上する。

晩年は、京都の書斎「山紫水明處」で訪れた文人墨客に鴨川の水を汲んで煎茶を点てることを喜びとした山陽であったが、結核が体を蝕み次第に容態が悪化する。『日本政記』がほぼ完成を見る中、天保3年(1832)9月、波瀾の生涯を閉じた。『日本外史』は、後に幕末勤皇の志士の精神的支柱となり、日本を動かした男として山陽の名を歴史にとどめることになる。


山陽の生まれた江戸堀界隈

山陽生誕の地で父 春水の私塾の地でもあった大坂江戸堀界隈は、江戸時代後期は多くの学者や文化人が生まれ、あるいは寄寓した土地でもある。幼少時代の山陽をはじめ、篠崎三島、篠崎小竹、山陽の弟子だった後藤松陰、緒方洪庵を弟子にもった中天游らが当地に住み、山陽と交流のあった大村益次郎も寓居していた。それを示す石碑がゆかりの場所に数多く建立されており、往時の江戸堀の空気を伝えている。

山陽の母 梅颸も、大坂の儒医者 飯岡義斎の娘として立売堀で生まれた生粋の大坂女。実父 義斎の教育方針は、女であろうとも教養を身につけさせることであった。そのため梅颸は手習いだけでなく、和歌や能、歌舞伎見物も楽しんでいたというから、まさに当時の大坂の文化を存分に吸収した才女だったといえよう。

しかし、梅颸は春水と結婚して生活が一変する。武家の嫁としての立場や言葉の違い、単身赴任の夫との別居生活、山陽の病気と奇怪な行動など、予想もしなかった艱難辛苦が続いたが、それを乗り越えることができたのは、大坂の生活経験と実父の教育方針があったからであろう。梅颸は26歳から84歳までの日常を「梅颸日記」として書き続けており、この日記は、山陽の生涯を側面から知りうる貴重な史料となっている。

明朗闊達、煙草も酒もたしなみ、いかなる困難や苦悩があっても前向きで諦めずにとことん粘り抜く姿勢。梅颸と現代の逞しい大阪のご婦人方の姿が二重写しになって見えてくるではないか。


清酒剣菱と山陽との深い縁

山陽は京都で開塾した当時、塾の収入が少なくなると詩文を書いては篤志家や商人に売り、糊口を凌いでいた。清酒「剣菱」醸造元の坂上家も書を買い取った一人だった。当時、京都で庶民が飲む酒は濁り酒が主流で、清酒剣菱の清涼な飲み心地は他の追随を許さないほどの人気があったという。山陽は塾を訪れた文人墨客に剣菱をよくすすめていたところ大いに喜ばれ、剣菱の評判は瞬く間に広がったという。

昭和4年(1929)、伊丹から灘へ移って灘の銘酒となった「剣菱」だが、もともと池田・伊丹の地で500年以上前に生まれ、日本で初めてブランド名がついた酒でもある。現在の「剣菱」の包装箱には山陽の「戯作摂州歌」「兵可用 酒可飲」(兵用うべし 酒飲むべし)」が印刷されている。「剣菱」を賞賛した山陽の詩文は、明快かつ単刀直入で現代のキャッチコピーを凌ぐ訴求力がある。


詩吟の人気作品となった山陽の漢詩

詩吟は江戸時代後期、頼山陽とも交流のあった天領日田の儒学者 広瀬淡窓がその祖といわれ、幕末勤王の志士が自ら詩を作り吟じた。山陽は数多くの詩を作ったが、「川中島」は今なお愛好家に吟じられている。

題不識庵撃機山圖(不識庵、機山を撃つの圖に題す)

鞭聲粛粛夜過河 (鞭聲べんせい粛粛 、夜、 河をわたる)

暁見千兵擁大牙 (暁に見る、千兵の大牙だいがを擁するを)

遺恨十年一剣磨 (遺恨なり十年、一剣いっけんを磨く)

流星光底長蛇逸 (流星光底こうてい、長蛇を逸す)


母を連れて訪れた箕面の“孝養の滝”

息子の病気に生涯翻弄されつつも共に闘ってきた梅颸であったが、春水の死を機に山陽との母子関係は一層密になった。山陽は梅颸を4度広島から京都に招いては、和歌の歌会や奈良・吉野の観光、大坂で若い頃を彷彿とさせる芝居見物に連れて行くなど、これでもかというほど梅颸を労い、親孝行ぶりをみせた。さらに驚くことに、京都島原の揚屋(遊郭)で芸妓を交えて大酒盛りを繰り広げたという話もあり、この親にしてこの子あり、正に破天荒な親子であったという。

その4回目の京遊の際、山陽は老母を連れて箕面の滝を訪れた。その折に詠んだという漢詩の石碑が滝のすぐそばにある。この旅に同行したのは画家の田能村竹伝、儒学者 後藤松陰、そして剣菱の蔵元 坂上桐陰であった。

萬珠濺沫碎秋暉 (萬珠ばんじゅあわそそいで、秋暉しゅうきくだく)

仰視懸泉劃翠微 (仰ぎ視る、懸泉けんせん翠微すいびくわくするを)

山風作意爭氣勢 (山風さんぷう、意をして、氣勢を爭ひ)

横吹紅葉満前飛 (横さまに、紅葉を吹いて、満前に飛ばしむ)

紅葉で有名であった箕面の滝はそれ以来「孝養の滝」ともいわれ、親に孝養を尽くそうと多くの人々が後に続いた。細菌学者の野口英世もその一人で、博士の孝養を顕彰する銅像が山腹に建っている。

5歳で大坂を離れた山陽だが、大坂女の母の血と大坂で朱子学を究めた父の遺伝子を受け継ぎ、さらに大坂出身の弟子たちへと引き継がれていく。河内国分村出身の医者の子弟で、山陽の四大高弟の一人である柘植葛城は、帰郷後、私塾「立教館」を開設。現在、その建物が柏原市の関西福祉科学大学構内に移築保存されている。

2016年4月

(長谷川俊彦)



≪参考文献≫
 ・大阪市史編纂所『大阪市史』
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』
 ・頼山陽『日本外史』岩波文庫上・下巻
 ・見延典子『頼山陽の母・梅颸八十四才の生涯―すっぽらぽんのぽん』
 ・三善貞司『大阪人物辞典』



≪施設情報≫
○ 頼山陽生誕の地碑
   大阪市西区江戸堀1丁目
   アクセス:大阪市営地下鉄「肥後橋駅」から徒歩3分

○ 先賢景仰碑
   大阪市西区江戸堀1丁目21-28
   アクセス:大阪市営地下鉄「肥後橋駅」から徒歩10分、大阪市立西船場小学校内

○ 山陽詩碑
   箕面市箕面公園
   アクセス:阪急電鉄箕面線「箕面駅」から箕面滝道を徒歩30分

○ 野口英世像
   箕面市箕面公園
   アクセス:阪急電鉄箕面線「箕面駅」から箕面滝道を徒歩15分

○ 立教館遺構
   柏原市旭ケ丘3-11
   アクセス:近鉄線「河内国分駅」から徒歩15分、関西福祉科学大学内

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