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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第42話 神功皇后じんぐうこうごう (169? 〜 269年?)

古代に君臨した伝説の女王

気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇「足仲彦尊(たらしなかつひこみこと)」の皇后になり神功皇后と呼ばれた。『日本書紀』では気長足姫尊、『古事記』では息長帯比売尊(おきながたらしひめのみこと)とある。父は息長宿禰(おきながのすくね)王、母は葛城高額比売(かつらぎたかぬかひめ)とされる。記紀ともに仲哀天皇は息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后としたというくだりから唐突に登場し、以後皇后について詳しく述べられていく。仲哀天皇2年(193)2月6日、天皇は息長足姫尊のいる敦賀の気比(けひ)(笥飯宮(けひのみや))に会いに行った。皇后に会った後、天皇は熊襲(くまそ)(九州南部の豪族)を討つ準備のため山口県穴門(あなと)に向かい、豊浦に宮を設ける。このとき皇后は同行せず、天皇のみの出立であった。

2年後、天皇は豊浦に来た神功皇后を伴い、熊襲を討つため軍を率い、筑紫の香椎宮(かしいぐう)に向かった。皇后は祭庭(まつりば)に神懸かりする御巫となり、天皇が琴を弾き、武内宿禰(たけのうちすくね)が審神者(サニワ・神懸かりした御巫に付いて神との問答を受け渡しする役)となり、この戦について占った。神の教示は、「西方に金銀の豊かな国がある。その国を与えよう」というものであった。このとき天皇は、熊襲を討つなという神託を信じず、琴を弾きながら押し黙っていた。それが神の怒りに触れ、その祟りで天皇は急死した(書紀では、熊襲の矢に当って崩ぜられたとしている)。

そこで、皇后は神をなだめるために大葬を急ぎ、国中で大祓を行い、再び神託を請けた。それには「この国は皇后の御腹にある御子が治むべし」とあった。さらにサニワとなった武内宿禰が「いずれの神であらせられるか」と尋ねると、「天照大神の御心のままを伝えた住吉の御三前(みまえ)の大神である」とのお告げがあり、さらに「わが御魂(みたま)(住吉三神)を軍船の上に勧請して祀り、木の灰をひさご(ひょうたん)に入れ、箸と皿を数多く伴って、大海に散らして浮かべるのがよい」との神示があった。

皇后は住吉三神の荒御霊を守り神として軍船を整え、先に神託のあった西方の国(新羅)に渡った。新羅は恐れて永久に服従を誓ったので、皇后は朝貢を命じ、御杖を新羅王の前に突き立てて凱旋した。この遠征の途中、お腹の御子が生まれようとしたので、皇后はこれを鎮めるため石を取って裳の腰に付けたとされている。そして九州に戻り、譽田別命(ほむだわけのみこと)(第15代応神天皇)を出産したのである。

皇后は御子とともに帰還したが、途中、仲哀天皇の義兄弟である香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の2軍との戦いが始まり、これを平定。皇后はわが子、譽田別命を皇太子に立て、自らは摂政に就いた。仲哀天皇が崩御してから応神天皇が即位するまで、69年間皇太后として執政の地位にいたことになる。そして亡くなった年の10月15日、狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬られ、神功皇太后は「気長足姫尊(息長足姫尊)」の諡(おくりな)をされたと『日本書紀』に記されているが、姫の誕生日や生い立ちについてはつまびらかではない。

3~4世紀にこれほどの長い間、国の頂点にいたにもかかわらず、現在の歴史書では天皇になっていないのは不思議なことだと思っていた。しかし、江戸時代には、神武天皇より人気のあった神功皇后を天皇として扱っていたようだ。

この心は明治政府にも受け継がれたのか、明治16年(1883)に発行された高額紙幣の10円札には、神功皇后の肖像が印刷(同14・15年発行の1円・5円券も同様)されている。当時の大卒の初任給が10円(現在で約20万円)くらいであったかと思えば、破格の扱いを受けていたことになる。しかし、大正15年(昭和元・1926)に政府は天皇とは認めない決定をくだし、現在に至っている。

神功皇后の存在については諸説あり、戦後の歴史学においては、その存在を否定するものや、記紀編纂のときに挿入された架空の人物だともいわれている。たとえその存在が幻であったとしても、記紀に占める割合は多く、無視するに惜しい女王である。


フィールドノート

古式に則る華やかな「御田植神事」 ~ 住吉大社 ~





大阪市南部の市民にとって、住吉大社は年間を通じて親しみ深い神社である。南海電車や市内で唯一残る路面電車は、住吉大社の正面で停まる。電車を降りれば1分もかからずに住吉大社の鳥居をくぐる。名物の太鼓橋は目と鼻の先にあり、子どもたちの絶好の目標となり懸命によじ登る。

住吉大社は航海守護・和歌の神として信仰され、府内最大の名社である。お祀りされた住吉の神は、新羅遠征に力を貸した底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の3神である。本宮は住吉造りの4殿からなり、第一本宮、第二本宮、第三本宮が東西の直線状に並び、第三本宮の南側に当社のオーナーとも言ってもいい神功皇后自身を祀った第四本宮が配置された独特の形をとっている。

故事によれば、神功皇后が新羅遠征の帰路、急に船が動かなくなるという事態が起り、神に尋ねると、住吉大神が「大きな港があって玉のように美しく突き出た場所に鎮まりたい」と告げられた。その神を祀ることになったのが、ここ住吉の地で、神功皇后自身も住吉大神と一緒に祀られたといわれるのが住吉大社である。

当時、住吉の辺りは大阪湾が広がり、海面は広く、上町台地が突き出している良港で海上交通の要所であった。のちには遣唐使などがここから出発している。この住吉の地名が全国に同じ神さまを祀る土地へ広まったため、各地に「住吉」という地名が存在することになったのも、数多の人々が住吉の大神を頼りにしていたためだろう。

住吉大社には有名な祭りがいくつかある。御田植(おたうえ)神事(6月14日)は住吉大社ご鎮座の時、神功皇后が当地に神饌田を設けられ、長門国から植女(うえめ)を召して御田を作らせたと伝えられている。そして、住吉祭(7月30日~8月1日)は神輿洗神事・夏越(なごし)祓神事・渡御祭が一体となっている。夏越の神輿は大和川を渡渉し、堺市宿院の頓宮で祭典を行う。頓宮は神功皇后が三韓(朝鮮)より凱旋の時、皇后を守っていた住吉明神が自分の兜を納めた所で、皇后と譽田別命(ほむだわけのみこと)を祀る。また、宝之市神事(10月17日)は神功皇后が住吉の浜に市をたてたという伝説に由来する。

住吉大社の祭りは、祭りごとに独特の衣装をまとった盛大な行列が繰り広げられ、参拝者の目を楽しませる。祭りの神輿の豪華さや、きらびやかな装束は、いかにも神功皇后というカリスマ性もった女王にふさわしい。


境内社が並ぶ都会のパワースポット ~ 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ) ~

大阪城から南に長く伸びる上町台地のほぼ中央部、谷町筋と松屋町筋の間にあり、南側には千日前通と、その立地はまさに都会である。緑豊かな境内をもつ生國魂神社は人々の魂のよりどころとなり、大阪の人は「いくたまさん」と親しく呼んでいる。夏祭りや大阪薪能の日は、境内は人で埋め尽くされる。

拝殿で礼拝し本殿の右手に歩む。ここでも祀られている天満宮、住吉社の前を通り一段下がったところの奥、パワーあふれる一角に4棟の社が並んでいる。向かって左から、城向(きたむき)八幡宮、鞴(ふいご)神社、家造祖神社、浄瑠璃神社と並ぶ。城向八幡宮の祭神として譽田別命(応神天皇)、気長足媛命(神功皇后)、玉依比賣命(たまよりひめのみこと)と列記されてはいるものの、どちらかといえば戦国武将がお参りする勝運・方除けの神様としての性格が強い。

もともとこの八幡宮は、大阪城の守護神として城のある方向に向いたことから「城向八幡宮」と称するとある。神社の方に聞けば、「戦災で社殿を焼失したので詳しいことは分かりませんが、初めから現在の場所にあったのではなく、境内社として正面鳥居の外にある現在の生玉公園の地にお祀りしてあったのを、お移ししたのです」と教えてくれた。

生國魂神社の歴史は古く、上町台地の三方が海で囲まれていた時代にさかのぼる。上町台地の北端にあったのを、石山本願寺が建立されたとき隣接地に遷座され、さらに豊臣秀吉による大坂城の造営のとき、現在の天王寺区生玉町に移された。正確な最初の鎮座の場所については諸説あるが、大阪城天守閣館長の北川央氏は出版誌『上町台地』で、「現在の府警本部や府庁周辺の発掘調査の際に、生玉観音院という墨書のある曲げ物の蓋が見つかったり、明らかに密教系の祈祷札、法華経をしたためた杮経(こけらきょう)、五輪塔がでていたりする。生國魂神社も神仏習合で、真言宗の法安寺が神宮寺として建てられており、これらの物証からも生國魂神社は官公庁のある大手前のあたりにあったのではないでしょうか」と述べている。

とすれば、元の生國魂神社は後述の坐摩(いかすり)神社とともに上町台地の北端にあってその間の距離は500mとは離れてはいないお隣どうし。共に太閤さんのお声掛で現在地に移ったという経緯があった訳だ。

という次第で、生國魂さんと神功皇后の関係はごく薄かった。


王宮の守護霊を祀る ~ 坐摩神社 ~


坐摩神社は本社と行宮の2社がある。坐摩を「いかすり」とは読みづらいので、「ざまじんじゃ」と呼んでも通じる。本社は御堂筋と中央大通りの交差点の南西側にある御堂会館の裏手にある。西側正門の目の前を高速道路が走り、周囲を高層ビルが取り囲む。その空間はまさにビルの谷間に息づくオアシスのような存在になっている。

坐摩神というのは大宮地(おおみやどころ)の霊(みたま)で、大宮地というのは、大王(天皇)の宮殿が建つ土地のこと。坐摩神社には「王宮が建つ土地の守護神の守護霊」が祀られる。ところで坐摩の語源は諸説あるが、土地または居住地を守る意味の居所知(いかしり)が転じた名称ともいう。

由緒書きによれば、神功皇后が三韓遠征より帰還したとき、淀川南岸の大江の岸・田蓑(たみの)島、のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町付近)に奉祀されたのが始まりとある。天正10年(1582)、秀吉の大坂城築城に当り替地を命ぜられ、寛永年間(1624~1643)に現在地に遷座させられた。現在の地名を渡辺と称するのも、元の地名が移されたもので、全国の渡辺さん、渡部さんの姓の発祥地という。

さて、坐摩神社の境内を見回しても、神功皇后として祀られているお社が見あたらない。社務所で聞けば、本殿の右手に並んだ五つある社のうち、本殿に一番近い大江神社の社に祭神として応神天皇・武内宿禰とともに祀られているという。訪れた日には、神功皇后にあやかり安産祈願をする若夫婦が訪れていた。知る人ぞ知るである。

一方、天満橋の八軒家浜近くの石町(こくまち)にある坐摩神社行宮は、本町にある坐摩神社の元の場所と伝わる。「大阪府立労働会館エル・おおさか」と道を隔て、周辺の風景とはかけ離れた社は、古色を帯びてビルの間に沈んでいる。

一日中陽の差すことのない社殿の正面に、神功皇后が休息したとされる鎮座石といわれる巨石が祀られている。石町という地名はこの鎮座石に由来しているという。ところがこの石は損傷防止のためなのか、頑丈なステンレスの格子で覆われ、どのような形をしているのかよく見えない。桟が余りにも太すぎる。せめても丈夫な透明蓋であればと思うのだが。


眼下の絶景に古代への想いをはせる ~ 石清水八幡宮 ~

京阪本線「八幡市駅」から男山ケーブルに乗り換え「男山山上駅」で下車、展望台への階段はきついが、その代償に与えられた眼下の景色は「素晴らしい」の一言につきる。対岸ともいえる大山崎の丘陵との間に手前から木津川、宇治川、桂川の3川の合流点が一望できる。その他、高速道路、国道1号線、東海道線、新幹線、私鉄線が押し込まれ、ここが日本の頸動脈といえる重要な場所になっている。

訪ねた日は、気象が不安定な春の日にしてはまれな快晴で、木津川と宇治川に挟まれた長さ1.4㎞もある背割堤の桜が満開だった。蟻の行列のように花見客が桜並木の下に殺到しているのが遠目にも分かった。

『日本書紀』によれば神功皇后は新羅から穴門(あなと)の豊浦宮に戻った後、仲哀天皇の遺骸をおさめて海路で京に向かった。ところが亡くなった天皇の腹違いの息子である麛坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王が王位を狙って、反乱を起した。皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞き、竹内宿禰に命じ計略でもって近江の逢坂で忍熊王を討ち取ったという。

皇后はその後大和に入ったが、おそらく男山の下を流れる木津川を抜け、巨椋池を経て大和に向かったのだろう。神功皇后のスケールの大きい動きは地図を手元にして『日本書紀』や『古事記』を読めばよく分かる。現代の我々にとって、この距離を徒歩と、手漕ぎの船で踏破せよと言われれば二の足を踏むことは間違いない。

歴史学者には神功皇后(息長足姫尊)の存在を認めない向きがあるが、九州地方の情報が細かく書かれていて、読めば読むほどリアルに情景が浮かび上がる。創作というには余りにも念が入りすぎていると思うのは私だけだろうか。黎明期の日本において、神功皇后はシャーマンというだけでなく、人を引き付け、統率する力を持った偉大な女王という印象である。

石清水八幡宮は平安時代の貞観元年(859)に南都大安寺の僧・行教が宇佐八幡宮で八幡大菩薩の宣託を請け、同年男山の峰に戦いの神である応神天皇と神宮皇后を祀ったのが起源という。翌貞観2年(860)、朝廷により八幡造りの社殿が造営されている。都の裏鬼門にあたることから、比叡山とともに都の守護社として崇敬を受けてきた。

ケーブルカーを降り、山頂の石燈籠の並ぶ参道を歩むと、南総門の奥に木材部分は朱に塗られ、金色の飾り金具があでやかな本殿がのぞまれる。社殿が門に対してこころもち斜めになっているのは、門を入った瞬間、神様と直接目を合わせないように、そして、帰るときには神様に背を向けるのを遠慮するための配慮という。

応神天皇は本殿の中央に、東側が神功皇后、西側は比咩大神(ひめのおおかみ)が祀られている。毎年、命日にあたる4月17日に神功皇后祭が斎行される。祭典では、皇后が4月上旬に川辺で食事をしたとき、川中の岩に座り、衣の糸を抜き取り、ご飯粒を餌にして若鮎を釣ったという故事にちなみ、神前に若鮎が奉納されるのがしきたりとなっている。

祭典が進むにつれ、神威を帯びたオーラが太鼓の音と共に詰めかけた参拝者の頭上に降りそそぐ。まだそこここに残る山桜が終わり、男山が新緑につつまれるのも間もなくである。


カリスマ性を伝える巨大古墳 ~ 神功皇后陵 ~

神功皇后陵は五社神(ごさし)古墳とも呼ばれる。奈良市北部に横たわる那羅山の西部にあり、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群に属する。

『日本書紀』神功皇后の条に倭の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬ったとあるので、恐らくこの古墳だろう。宮内庁の治定では狭城盾列池上陵(さきのたたなみいけのえのみささぎ)と呼ばれる。墳形は前方後円墳で全長約275m、後円部径約195mである。

被葬者が女性の古墳として、神功皇后陵は箸墓古墳と並ぶ巨大なもので、この二つの古墳の主は秘密のベールに覆われていることも同様である。幻の古代大和朝廷に君臨したであろう女帝の力がいかに強大であったかが伺える。神功皇后が平成の世にあったとしても、カリスマ性を発揮し国民を率いてくれるのではないかと妄想が駆け巡る。

陵墓は近鉄京都線「平城」駅から近い。山陵八幡社を経て西側からの参道は歩道が整えられているが、東側から直接陵墓の拝所に向かう近道もある。西側をたどると彼方に生駒山が望まれ、古の雰囲気を味わうことができるのでやや遠回りでもこちらの道をおすすめしたい。近くには第13代 成務天皇陵、日葉酢姫命陵(第11代 垂仁天皇の皇后)と、奈良時代の女帝であった孝謙(称徳)天皇陵があり、故事を語りながら散策するには話題に事欠かない舞台である。



2019年2月

中田紀子



≪参考文献≫
 ・宇治谷孟『日本書紀 全現代語訳』(講談社)
 ・三浦佑之『口語訳古事記』(文藝春秋)
 ・高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫)
 ・金達寿『日本古代史と朝鮮』(講談社)
 ・和田萃『飛鳥』(岩波書店)
 ・黒岩重吾『女龍王神功皇后』(新潮社)
 ・長谷部日出男『「古事記」の真実』(文藝春秋)
 ・八木荘司『古代からの伝言 民俗の雄飛』(角川文庫)
 ・『大阪春秋 平成23年春号』(新風書房)
 ・天満人の会『上町台地 ファンタジー 別冊天満人』
 ・住吉大社『住吉大社のご案内』
 ・住吉大社『住吉っさん』
 ・『通天閣と天王寺 大阪 古寺名刹巡拝の旅』集英社
 ・各神社しおり及びホームページ


≪施設情報≫
○ 住吉大社
   大阪市住吉区住吉2–9–89
   アクセス:阪堺電車阪堺線・上町線「住吉鳥居前停留場」すぐ

○ 生國魂神社
   大阪市天王寺区生玉町13–9
   アクセス:大阪メトロ谷町線・千日前線「谷町九丁目駅」より徒歩約4分

○ 坐摩神社
   大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3
   アクセス:大阪メトロ御堂筋線・中央線・四つ橋線「本町駅」より徒歩約5分

○ 坐摩神社旧行宮所
   大阪市中央区石町2
   アクセス:大阪メトロ谷町線「天満橋駅」より西へ約300m

○ 石清水八幡宮
   京都府八幡市八幡高坊30
   アクセス:京阪本線「八幡市駅」~男山ケーブル「男山山上駅」より徒歩約5分

○ 神功皇后陵
   奈良市山陵町字宮ノ谷
   アクセス:近鉄京都線「平城駅」より徒歩約5分

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